第9話 とある授業の風景

 一時間目は算数。

 アタシは算数がキライ。

 だって、お店に買い物に行って、分数とか少数とかって使う? 足し算と引き算、かけ算、わり算だけできてればいいのよ。それもたまに間違っちゃうけど……



「はい、じゃぁこの問題を……松平さん」



 え~、何で? そこは『この問題、分かる人は手を上げて』じゃないの?

 だったら、アタシは手を上げない。で、誰かが答えてくれる。そして、真紀まき先生も正解がもらえる。誰も損する人がいないじゃない。何で誰も幸せになれないコトを真紀先生は選ぶの?



 もしかして……イジワル?



「松平さん、聞こえてる?」



 白いチョークで問題が書いてある黒板を背に、真紀先生は腰に手を当ててアタシを見る。クラスのみんなは、アタシのコトなんか気にしていない。さくらチャンの周りだけ、アタシの方をチラチラ見ながら何かクスクス笑っている。



「はい……」



 少し下を向いて下くちびるをニュッて突き出して、不満いっぱいにアタシはイスから立ち上がった。だって、分数のわり算なんて分からないよ。さっき、先生が教えてくれたばかりだけど、わり算なのに『かける』って何で? 意味が分からない。

 アタシはみんなの針のような視線にチクチクと刺されながら、大きな黒板の前に立った。


 チョークを持って、チラッと真紀先生を見る。あぁ~、ダメ……この場所から逃げ出すには、世界一のマジシャンになるか、時間を止めるかしかないよ。

 目の前の濃い緑色の黒板が、とてもとても登れない、切り立ったガケのように思えてくる。その崖のずっと上の方に問題が書いてあるから、『アタシじゃとどかないよ、テヘッ』って言えたらどんなによかったか。



「え~っと……」

「七分の二だ」

 えっ? 何、今の声?



「七分の二!!」



 チョークを置いて、キョロキョロと周りに目を走らせてみる。先生は眉をよせてアタシを見ていた。クラスのみんなからクスクスと小さな笑い声が聞こえてくる。



「早く解答を書け! いつもポヤーンとしているから目がたれるんだ」



 アルだ! アルがどこかにいる。アタシは問題そっちのけで、教壇の前の机に隠れるような格好で、足元を探し回った。



「ちょっ……松平さん? 何してるの? 何か落としたの?」



 真紀先生が近づいてくる。あぁ……ダメだよ。こんなコトでアルが見つかったら……



『長野で発見、捕獲された、人の言葉を理解する新種のロボロフスキーハムスターは、東京の研究機関に送られ、その生態を観察すると共に、世界中の生物学者の立会いのもと解剖して、人類の未来のために…』



 ダメだよ、ダメ!

 アルが解剖されちゃう!

 アタシはブンブンと何度も何度も首を振った。


「おい、コラ! 揺らすな! 気持ち悪っ……ギボヂバブビィィィィ……! 取りあえず……ウップ……答えを書け!」


 イタタ……


 髪の毛が後ろに引っ張られる。見えないけど、右手をフードの中に入れてみた。指の先がスベスベの毛にさわって、指先をアムアムとあまがみされた。



「えぇぇぇぇぇぇ~~~~~~~~!!」

 ゴンッ!!



 いったぁぁぁ~い!



 おどろいて急に立ち上がったから、教壇の机に頭をぶつけちゃった。両手で頭を押さえてしゃがみ込むアタシに、慌てて真紀先生がかけよってくる。真紀先生は眉毛を八の字にさせていた。



「大丈夫、松平さん? どうしたの、さっきから? キョロキョロしたり、しゃがみ込んだり、大声上げたり……」



 だだだだだって、パーカーのフードの中に、朝からいなかったし、タンスから出したパーカーなんだけど、いつからいたの? ねぇ、いつから?



「今、頭ぶつけたでしょ? 保健室行く?」



 アタシの顔をのぞき込む真紀先生。

 いけない! フードの中、見られちゃう!



「だだだ……大丈夫です! 問題の答え、すぐ書きます。平気です。ハイ!」



 ちょっと背中のフードを気にしながらスクッと立ち上がって、白いチョークを手に取った。

 えっと……七分の二って言ってたっけ? 全然、問題が分かってないのに答えだけ書くのもなぁ……って、少し悪い気がしたけど、今は早く自分の席に戻りたかった。



「あっ……そう? え~っと、七分の二ですね。正解です。じゃぁ次の問題は……」



 真紀先生はキョトンとした顔でアタシを見おろした。アタシは急いで自分の席に戻る。少しうつむいて、みんなの顔を見ないように。だって、恥ずかしかったんだもん。

 アルはフードの中で何かゴソゴソ動いている。

 ちょっと……ヤメてよ……後ろの席の子に見つかっちゃう。何か変な汗かいてきたかも。

 えっと……ハンカチ、ハンカチ。

 アタシはパーカーのお腹のポケットに両手をいれた。あっ、あった。



 ポテッ……



「えっ……?」



 ポケットから取り出したトランプの柄のオシャレなハンカチから、何かが机の上に落ちた。



 何だろ?



 あんまりにも急で、頭が回らない。きっとアタシの目、点になってると思う。

 十センチくらいの濃い灰色の……トーエイだった。



「あっ、ナオ様……おはようございます」

「何でぇ~~~~~~~~!?」



 手に持ったハンカチをトーエイにかぶせて、アタシは勢いよくイスから立ち上がった。



「松平さん! 何フザケてるの? 今、授業中よ? 今度は何があったの? 夢でも見た?」



 あっ……今、授業中だった……



 ううっ……怖くて真紀先生やみんなの顔が見れない。アタシは顔を下げたまま、目だけをキョロキョロと動かして周りを見た。みんな目を丸くしてアタシを見ている。

 引いてる……ドン引いてる……その内、一人、また一人とザワつき始めた。

 恐るおそる顔を上げたアタシの目に飛び込んできたのは、眉毛と目をつり上げ、般若のような顔で腕を組む真紀先生だった。教室の中はみんなの笑い声でギュウギュウだった。



「おっ……大きな声出してゴメンナサイ。真紀先生……やっぱりアタシ、保健室に行ってきます。さっきので頭にコブができたみたいなので」



 机の上のハンカチをトーエイごと優しく握りしめ、頭を押さえるフリをする。誰とも目を合わせないように、真っ直ぐ教室の後ろの引き戸へ向かった。



 ガラッ……



「ちょっ、松平さん。待ち……」「すぐに帰ってきます!」



 先生の言葉に自分の声を重ねて、急いで教室を飛び出た。怖くて顔までは見れなかったけど、真紀先生、きっと怒ってるんだろうなぁ。

 一応、ホントに保健室には行っておかなきゃ……

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