第78話


 稚武は白い靄の中を歩き続けた。どうにも時間の感覚が薄れてしまっているが、ずいぶん長く歩いていることは確かだ。そろそろ足が疲れてきたし、何より腹が減った。朝に出発したから、もう昼過ぎごろだろう。


 しかし立ち止まる気にはならず、稚武は前を見据えて歩き続ける。それは案外苦痛ではなかった。今まで、荒ぶる愛比売神えひめがみと戦ったこともあるし、吹雪の雪山を凍えながら進み続けたこともある。それに比べれば、ただ歩き続けることなど大したことではないと思えた。幸い、道は急な上り坂ではない。視界は悪いものの、歩きやすい森だった。


 鼻歌を歌って気分を変えながら進んでいくと、ようやく靄が薄まってきた。


(お、やっと着いたか?)


 サァッと霧から抜けて、稚武は明るい緑の森に立った。正面には遠く違う山並みも望める。遥かな眺めには、緑の中に桜が目立った。けれどそれも、もう花盛りを過ぎてしまっている。


 稚武たちが出雲を歩き回り、たたらを踏んでいる間に、静かに春は通り過ぎていったのだ。稚武がそうと気づかないうちに。


 稚武は目を細め、思わず呟いた。


「師匠たちは都に着いたかなぁ……」

 当然、久慈くじ達はとうに着いているはずだった。船を下りた彼らは華々しく凱旋を果たし、手を振って各々の故郷へ帰って行ったことだろう。はしゃぐような笑みがあふれているのが目に浮かぶようだった。


 それなのに、ぽつんと独りきり、こんな遠き地にいる自分は何だろう。


 我知らず口元が歪む。


(俺だって、本当は……)


 甘えたことを考えている自分にハッとして、稚武はぶんぶんと頭を振った。それから自分で両頬を叩き、気合を入れなおす。


(……よしっ)


 真っすぐに前を見据え、一歩踏み出したときだった。突然、稚武は上から押しつぶされたように倒れこんだ。まるで見えない何かが重たくのしかかっているようで、膝を立てることもできない。


「……くっ」


 痛くはないが、ひどく息苦しい。やっとのことで頭を持ち上げると、稚武は目を見開いた。


『やぁ、稚武』


 目の前に立っていたのは風羽矢だった。倒れ伏す稚武を見下ろし、微笑む。


 稚武は一瞬何も考えられなかったが、すぐに承知して、挑むように笑い返した。


「……よう、風羽矢。何か用か」

『君に一つ、問いかけをしに来たんだ』


 風羽矢は穏やかに言った。


『君は、僕を殺せるかい』

「殺せる」


 稚武は即答した。


「どうせお前は、あのボケた爺さんが作った幻かなんかだろうけど、俺は本物の風羽矢だって殺せる。風羽矢のために、俺があいつを殺してやるんだ。できるのは俺しかいないんだよ」


 言葉はほとばしるように口を出た。


「俺は禍になったあいつを許さない。あいつが大蛇になって存在していることに我慢がならない。殺してやれば、俺はもうあいつを怨まなくて済む。風羽矢もきっと楽になれる。俺は本当のあいつを取り戻して――大王おおきみの元へ帰るんだ。そのためなら、風羽矢を殺すことだって躊躇ったりしない。俺は迷ってなんかいない!」


 風羽矢はゆっくりとまぶたを伏せて微笑んだ。


『うそつき』

「嘘じゃない」

『うそつき』


 繰り返して、風羽矢の姿はすぅっと白い靄となって薄れていった。


 急に再びあたりに霧が立ち込めてきた。稚武の体は重圧を受けたまま、動けない。それでも必死に目を凝らしていると、やがて木立の白い闇の中から何か聞こえてきた。


(……子供の声?)


 幼い子供たちの笑い声だった。霧に見える小さな人影は、二つ。楽しげに駆け回っている。


 まさか甲太と乙次か、と稚武はじっと目を細めた。


 しかし、連れ立って霧から飛び出してきたのは、たたら場の二人ではなかった。稚武は今度こそ息を止めた。


 稚武の前で遊び、転げまわるのは、あどけない頃の稚武と風羽矢だった。


 気づくと周りの景色が変わっていた。辺りは真白い雪に覆われ、枯れかけた木が寂しく立っている。そして、どこからかせせらぎが聞こえた。


 稚武はこの景色を知っていた。胸が締めつけられるほどに。


 よく風羽矢と二人で遊びまわった、泊瀬はつせの裏山だった。


「……やめろ……」


 はじけるような笑顔でじゃれあっているかつての自分たちの姿から、目をそらせない。稚武の声は震えた。


「やめろ」


 しかし、二人にはとうてい聞こえていないようだった。飽きずに駆け回っている。


 幻に違いなかった。先ほどの風羽矢と同じ、心をとらわれるに足りないもの、戸惑う必要などないもののはずだった。


 わかっていながら、稚武は完全に平静を失っていた。


「やめてくれ……嫌だ。やめろ、戻れないんだ。俺たちはもう戻れないんだ。振り返らせないでくれ!」


 怒鳴ると涙がにじんだ。


 そのうちに、幼い稚武は、後ろの風羽矢を振り返りながら何か熱弁して走っていた。清らかな白い雪に、細かな足跡が刻まれていく。


 しかし、幼い稚武のその足がずるりと滑った。風羽矢が悲鳴を上げ、動けないままの稚武も目を剥く。


 小さな稚武の体は、転んだ拍子で谷川へすと投げ出される。


『稚武……っ』


 宙を飛んだ稚武のあとを、風羽矢も必死になって追った。それは愚かなことに違いなかった。ばしゃん、としぶきを上げて、幼い稚武は極寒の川へと落ちた。


 そのときふっと体が軽くなって、体の自由を得た稚武は急いで谷の下を覗き込んだ。かつての自分が急流に呑まれて流されていく。しかし、風羽矢の方は川べりに倒れこんでいた。


 どうするべきなのか分からないまま、稚武は夢中で崖を滑り降りる。その間に、風羽矢は体を起こしていた。稚武の胸が悪くなったことには、幼い風羽矢の左腕は奇妙な方向に曲がり、だらりと垂れていた。


 けれども風羽矢は折れた腕を気にかける様子もなく、泣きながら川に駆け寄っていった。そのまま飛び込みそうなところを、稚武がすんでで止める。


「馬鹿、風羽矢―」

『稚武、稚武、稚武っ……稚武、嫌だぁー』


 わんわんと風羽矢は泣き叫んで暴れた。


「落ち着け、大丈夫なんだ、俺は」


 稚武はこのときのことを覚えていた。確かに、八つだか七つのころ、稚武は冬の谷川に落っこちたことがあったのだ。そう、あの時、一緒に落ちた風羽矢は左腕を骨折していた――


「馬鹿か、お前は!」


 頭が煮えて、稚武は怒鳴った。


「お前、自分から落ちたのか。俺を助けようとして、自分で飛び降りたのか。……あほか!」


 まるで聞こえていないらしく、風羽矢はさらに叫んだ。


『やだよ、稚武。おいて行かないで、待ってよ、待ってよぉ、稚武……ッ』


 稚武は胸を衝かれる思いで、茫然と聞いていた。風羽矢は何度も稚武の名を呼んだ。必死に呼び続けた。


「……俺は、いるよ。ここにいるよ」


 自分でもよく分からないうちに、稚武は口走っていた。


「俺はここにいるよ、風羽矢。ここにいるだろ、俺は!」


 風羽矢はやっと稚武を見た。涙やら鼻水でぐじゃぐしゃになりながら、じっと稚武を見つめる。それから、さらにしゃくり上げて首を振った。


『違う。君は稚武じゃない。違う……っ』

「何が違う!」

『違うっ!』


 風羽矢は稚武を突き飛ばし、あーんと泣きながらふらふらと川べりをさまよった。


『稚武、どこ。どうして僕をおいて行くの。どうしておいて行くの』


 稚武はしりもちをつき、動けずにそのまま風羽矢を見つめた。泣き叫びながら自分の名を呼ぶ彼を。


『独りにしないで。僕も連れて行って。怖いよ、稚武……』


 この時、稚武は知った。風羽矢が飛び降りたのは、稚武を助けようというだけではなかったのだ。おいて行かれたくなかったから、独りになりたくなかったから……


「風羽矢……」


 稚武の頬を涙が伝った。なぜ幼いころから自分たちが一緒にいたのか、やっと思い出した気がした。


 数え切れないほどけんかをし、ともに悪戯をし、山を谷を駆け回った。怒るのも泣くのも、笑うのも一緒だった。いつだって隣にいたのは風羽矢だった。独りになりたいとき、それでも本当は人恋しくて仕方のないとき、風羽矢だけはそれを分かってくれた。


「風羽矢、俺……」


 やがて、泣き喚く風羽矢の姿は霞に消えた。最後に、彼に飛びつくような人影が見え、それは少年のみぎりの桐生のようであった気がしたが、さだかではない。


 稚武はうなだれて泣き続けた。こんなにも独りで泣くのはこれが初めてだった。


(風羽矢、俺は忘れていた。なんで俺がお前と一緒にいたのか、お前がそばにいてくれたのか……)


『思い出したか?』


 稚武が顔を上げると、今度そこに立っていたのは、自分と瓜二つの少年だった。彼は余裕のあるような笑みで稚武を覗き込む。


『さぁ、認めろよ。本当のお前を。どうしようもなく弱い自分を。嘘つきなお前の、本当の望みを言ってみな』

「本当の、望み……?」


 泣いたせいか、少々ぼんやりしながら稚武は考えた。


『そうだよ。だって、約束したもんな』


(約束……)


 そうだ、と唇だけで呟く。鏡のようなもう一人の稚武が、満足げに微笑んだ。


『鞘に免じて、もう一度だけお前の手に戻ってやるよ。だけど次はない。お前がまた自分に嘘をついて俺を振るうなら、そこまで面倒見切れないぜ?』


 稚武はハッと正気づいて、目の前の少年を見た。


「お前、まさか―」

『あばよ。さっさと俺様の愛しの鞘のところへ行きやがれ』


 意地悪く笑う少年は、したたかに稚武を蹴り上げた。すると、おかしなくらいに稚武の体は宙を飛び、どぼんと谷川に落ちる。


 薄暗い水に沈みながら、手の中に白く輝く剣が生まれる。そして笑うようにリンッと鳴ったのを、稚武は確かに聞いた。

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