第77話


       

 稚武が眠りから目を覚ますと、視界は薄明るかった。だが霧がひどくて、見えるのはうっすらとした緑の木の陰ばかりだ。その白い闇の中から現れたのは、ナム爺だった。


 老爺は杖を突きながら、稚武の目の前までゆっくりとやって来た。


「……しつこいおかたじゃ」


 稚武は鳥居の柱にもたれかかって座ったまま、悪戯っぽく笑った。


「生まれつき負けず嫌いなんだ」

「――なぜに、あなたはそこまで戦いに向かって行くのですか。傷つくことを望んでいるわけではありませんでしょうに」


 目を細め、稚武は答えた。


「どうしてこういうことになったのか、自分でもよく分からないけれど……最初はみんな、大王おおきみ――父のためだった。あの人に認められたくて、安心してほしくて。でも今は、風羽矢を救ってやりたいというのが先に立っているかな」

「……あなたはやはり、ヤマトタケルノミコトじゃ……」


 どこか哀しげにナム爺は呟いた。


「あのかたも、父王のために戦うのだとおっしゃっておられた。寂しい、穏やかな瞳をして。ミコトの温かな笑みを思い出すと、わしは今でも泣きたくなります」


 稚武は不思議に思いながらも、気を取り直して強い声音で言った。


「ナム爺、あんたの言うとおり、俺はミコトより弱いのかもしれない。けれど、だったらちゃんと強くなりたいんだ。どうしても……禍を打ち倒すために」


 ナム爺は杖に両手を添え、問うた。


「……傷つくことを恐れませぬか。強くなるためならどのような痛みにも耐えられますか。己の傷にのみ込まれ、命を落とすことになっても後悔しませぬか」


 稚武は力強く頷いた。


「少しでも、禍を討つ力を得られる可能性があるのなら。俺はそれにかけてみたい」


 ナム爺はじっくりと頷き、重々しい声音で言った。


「では、ミコトに試練を授けましょう。乗り越えれば、あなたはきっと『答え』を得られる。しかし、負ければ二度と闇から抜け出せないやもしれません」

「やってみる」


 稚武は即答した。


 ナム爺は杖の先で、鳥居のさらに奥の森を指した。


「霧が晴れるまで進み続けるのです。それだけで、あなたは『答え』を見ることができましょう。けれどそれは、あなたを喰らうかもしれない。――恐れないのなら、お行きなされ」


 稚武は立ち上がり、胸に下げていた御祝玉みほぎだまを見つめた。それから心を決めて鳥居をくぐる。そしてナム爺の見つめる先で、白い霧に呑まれていった。


 カムジカはすべてを見守っていた。そしてナム爺が、まだ眠っている咲耶を振り返ったので、カムジカは彼女の頬をなめて起こした。


「……ん。なぁに、カムジカ」


 咲耶はやっと目を覚まし、稚武の姿がない代わりにナム爺がいることにぎょっとした。


「ナム爺、稚武は―」

「ミコトなら、先にお行きなさった。己の試練へ」


 咲耶は眉根を寄せ、急いで立ち上がった。


「試練というのは何なの。稚武はちゃんと剣を手に入れて帰って来るの?」

「すべてはミコトしだいじゃ」


 ナム爺は咲耶に向き直った。


「しかし、ミコトが無事に剣を手に入れて戻ってきたとしても、あのかたは禍を打ち倒すことはできますまい。隣にいるあなたが今のようでは。あなたはミコトの足を引っ張るばかりじゃ」


 咲耶は思い切り顔をしかめた。ミコトというのは稚武のことだろうが、彼の足を引っ張っているなどと言われるのは不本意だった。


 ナム爺はさらに言った。


「本来なら、あなたは誰よりもミコトに力を与えるべき稀なる女性にょしょうであるはずじゃ。それが、怨みの念にとらわれて見失われてしまっている。あなたが目覚めなければ、ミコトの剣は真の力を解放することができませぬ。それでは禍には勝てない」


 咲耶は難しげな顔で小首を傾げる。


「ナム爺は、わたしに何かが足りないというのね。だから、わたしが迷走しているなんて言ったの?」


 ナム爺は鋭く咲耶を見つめた。


「あなたにもおありか、ミコトと同じだけの決意が。己が突き進んでいる道の行く先を確かめる勇気が。それは、自らの傷を知ることじゃよ」

「あるわ」


 強い目で咲耶は答えた。


「だって、禍を討つという使命はわたしのすべてだもの。わたしにはこれしか信じるものがないんだもの。あなたがそれを否定するというのなら、わたしは意地でも覆してみせるわ」 

「よろしい」


 ナム爺はくるりと杖を回し、鳥居の奥を指した。するとそこには、先ほどまではなかったはずの洞窟が口を開いていた。


「あの洞窟の奥には、小さな泉があります。その泉で手を清めておいでなさい。本当にその使命を果たせるだけの強い意志を持っているなら、あなたは自らの枷を一つ軽くすることができる。それは禍を討つ力になりましょう」

「……わかったわ。行ってくる。手を清めてくればいいのね」


 恐怖がないといえば嘘だった。しかし、咲耶は背筋を伸ばして答え、冷たい闇の洞窟へと足を踏み入れていった。


 ナム爺は杖をついてカムジカへと歩み寄った。神鹿の白き毛並みを撫で、目じりにしわを寄せる。


「お前さんは、わしと一緒にここで待とうなぁ。……ふがいなきことよ、苦痛を与えることでしか、若き彼らの背を押すことができぬとは。わしらにできることは信じて待つことのみ。進むも立ち止まるも、ミコトたちしだいじゃ……」


 そしてたとえ彼らが立ち止まることを選んでも、誰にも責めることなどできぬ。ナム爺は老いた肩を下げ、疲れたように呟いた。

 



 咲耶が入った洞窟は、緩やかな下り坂になっていた。不思議と真っ暗ではなく、ぼんやりと周りが見えた。奥に進むに連れて、少しずつ空気が冷たくなってくる。いくつかの曲がり角を経て、咲耶は足を止めた。最奥にたどり着いたのだ。


 そこには確かに、小さな泉があった。その水面は月の光を浴びたようにきらめき、澄んだ香りを放っている。


(これで手を清めればいいのね。何だ、簡単じゃない)


 咲耶は膝をつき、そっと両手で水をすくった。覗き込むと、あまり大きくない割には底が見えず、ずいぶん深そうな泉だった。


 ひんやりとした泉の水が咲耶の手をあらう。


 ホッと一息ついて、水面から手を離したときだった。咲耶は全身をこわばらせた。音もなく泉から一本の腕が伸びてきて、咲耶の右手をつかんだのだ。


「ひっ―」


 そして青白い腕は、ものすごい力で、咲耶を夜空のような水中へと引きずり込んだのだった。


 視界が転じ、瞬間に耐え難い息苦しさを覚える。足元から地面が消え、我を忘れてもがく。


 ごぼり、と喉が詰まる。さまようばかりの手を、必死に伸ばした。


 そして、ほの明るき光を見た。




 暗い意識の向こうで、遠くに鶏の鳴き声が聞こえる。


 ぴく、と指先が震えて、横たわった咲耶はゆっくりとまぶたを持ち上げた。柔らかな朝の光。その中に、自分を覗き込むような人影があった。


「――ああ、やっとお目覚めですね」


 彼女は微笑みのにじんだ声で言った。咲耶は大きく目を見開く。


「おはようございます、咲耶さま」


 朝焼けにも似た清らかな笑みで、彼女は言う。それは、いつもの朝の挨拶。


 咲耶の喉は痛いくらいに震えた。


「……呼々ココ……」

「はい、お着替えの支度はできておりますよ。今日の帯は赤と橙、どちらにします?」


 咲耶はじいっと彼女を見つめた。瞬きなど、とてもできなかった。


 そのように見つめられて、呼々は不思議そうに瞬いた。


「どうかなさいました? わたくしの顔に、何かついていますか」

「……う、ううん」


 咲耶が細かく首を振ると、呼々はにこっとした。


「さ、早く着替えを済ませてくださいませ。朝餉を食べて――今日は舞の稽古でしょう。寝ぼけていたらまた叱られてしまいますよ」


 言われて咲耶は飛び起きた。そこは陽里ヒノサトの、使い慣れた咲耶の自室だった。


「やだ、わたし、なんだか本当に寝ぼけていたみたい。呼々の顔が懐かしいなんて思ってしまったの。毎日見ているのに……すごく長い夢を見ていたからかしら」

「まぁ、どのような夢ですか?」

「えっと……――忘れてしまったわ」


 咲耶は肩を竦めた。


 呼々に着替えさせてもらっている間、咲耶は懸命におぼろげな夢の景色を思い出そうとしていた。けれど、本当にかけらも思い出せないのだった。なぜ呼々の声に胸が震えたのか、顔を見て泣きたくなったのか――まったく分からない。もっとよく考えれば何か掴めそうな気もするが、白い靄に覆われてしまっている。


(……まぁ、いいわよね)


 そんな消え去った夢のことより、咲耶が目下頭を悩ませるべきは今日の舞の稽古のことだった。数多くある巫女修行の中でも、一番苦手な稽古なのだ。


 咲耶は苦々しくため息をついた。


「呼々、帯は橙にしてちょうだい。一番元気が出る色なのよ。今日は気合を入れないと、また先生に嫌味を言われてしまうわ」

「はい、わかりました」


 呼々はくすくすと笑った。


 いつもの朝。いつもの呼々。いつもの自分。

 いつもの平和な陽里の一日が、始まろうとしていた。

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