第76話
一行が向かったのは、
しばらくしてぬっと現れた鳥居をくぐると、甲太は口に手を添えて大きく言った。
「ナム爺、ナム爺、いるかい」
幼い声は、春を迎えようとしている山の緑に吸い込まれ、すぐに消え入る。
「ナム爺、会いたいって奴が来てるんだけど。ちょっと出てきてくれよォ」
「ほいさ」
ぎょっとしたことに、返事は稚武のすぐ後ろからあった。驚いて振り返ると、そこには小柄な老翁が立っていた。ぼさぼさの白髪に、太く下がった白い眉、開いているんだかも分からない目、そして曲がった腰を支えるための杖をついた、見るからにみずぼらしい姿だった。
「ナム爺、久しぶり。まだくたばってなかったんだな」
声を明るくして甲太が言うと、ナム爺は肩を揺らして楽しそうに笑った。
「ホッホッホ。まだまだ、老いぼれは老いてからがしつこいんじゃて。出雲には
「ははは、またおかしなこと言ってら」
甲太が高らかに笑い、乙次もくすくすと笑った。
稚武は息を呑んで尋ねた。
「甲太。この爺さんが……本当に、ナム爺なのか?」
「そうだよ」
稚武は夢だと思いたかった。目の前に立つ年老いた爺さんは、とても剣を打てるような力があるようには思えなかった。空振りか、と徒労の疲れがどっと肩に乗る。
そんな稚武の心情など露知らず、甲太は快活に言った。
「ナム爺、紹介するよ。男が稚武で、女が咲耶、鹿がカムジカ。なんか、剣を打ち直してもらいたいんだってさ」
「……ほう」
ナム爺はじっと稚武を見つめる。一瞬その目が鋭く光ったような気がして、稚武はたじろいだ。
やがて、ナム爺は歯のなさそうな口を微笑ませた。
「これはこれは……よくぞ再びおいで下さいましたなぁ。しばらく見ぬ間に、ちょいとお顔立ちが変わったようですが」
「は?」
稚武は間抜けに聞き返した。
「こうしてまたお会いできるとは思っていませんでしたものを。あな嬉しや……」
「……あの、ナム爺さん。俺を誰かと勘違いしていないか。あんたと会うのはこれが初めてだ」
甲太が肩を竦めた。
「だから、言っただろう。ちょっとボケているんだよ、ナム爺は」
そうらしい、と稚武は唸った。しかしナム爺は聞こえていない様子でさらに言った。
「あなたが東の地で果ててしまわれたと聞いたときには、わしは嘆いても嘆ききれなかったものですよ、ヤマトタケルノミコト」
稚武は耳を疑って目を見開いた。口を出た声がわずかに震える。
「……ヤマトタケル、だって?」
「ええ、ええ。あな懐かしや」
にこにことして頷くナム爺に、稚武はキッと気を引き締めて言った。
「俺はヤマトタケルじゃない、稚武だ」
「ほう、名を改められた?」
「違う、改めたとかじゃなくて、俺はヤマトタケルとは別人だ。稚武というんだ」
「なるほど、ワカタケル」
「ワカタケルじゃなくて、稚武」
「若きタケルですか、それはまた芳い名ですな」
「だからっ―」
いらいらとする稚武に、咲耶がしかめ面で言う。
「どうも話がかみ合っていないわよ、稚武」
「……無駄だと思う」
ぽつりと乙次も呟く。
稚武は仕方なく苦い顔のまま諦めて、本題を切り出した。
「ところで……ナム爺さん。あんた、そんな格好だけど、ちゃんと剣は打てるのか。どうしても直してもらいたい剣があるんだが」
「それは、
はっきりとナム爺は口にした。神器の剣の古き名を。
稚武が何も言えぬうちに、ナム爺は手の杖をひゅんと空中に放り投げた。そして宙から落ちてきたのは、年季の入った木杖ではなく、二本の剣だった。
「――わしと勝負しましょうか、若きタケルノミコト」
にこやかに言い、手にした剣のうちの一本を稚武に投げてよこす。
「簡単に、先に相手に一撃喰らわせた方の勝ちとしましょう。合図まで鞘から抜いてはいけませんぞ」
パシ、と剣を受け取り、稚武は眉をひそめた。
「どういうつもりだ」
「ミコトが勝ちなさったら、剣を復活させて差し上げます」
「……わかった。手加減はしないからな」
どうやら、ただのぼんくら爺さんではないらしい。ここは勝負を受けるしかないと稚武は覚悟を決めた。
「では、鏡の姫、合図を」
「えっ。わ、わたし?」
当然のように神器の鏡の主であることを見抜かれていて、咲耶はひどく戸惑った。しかしそうもしていられないので、息を整え、両手を構える。
「えっと……じゃあ。――はじめ!」
パンと咲耶が両手を打ったと同時に、稚武はすばやく鞘から剣を抜いた。が、しかし。
「いっ―」
柄の先には、ほんのお情け程度の刃がちまっとくっついているだけであった。とうてい相手に届くはずがない。
「隙あり」
しまった、と思った瞬間に、額にしたたかな衝撃があった。
ナム爺は、ただ指先で稚武の額を弾いただけだった。しかし、痛い。稚武がうずくまって無言で唸ると、ナム爺はかっかと笑った。
「わしの勝ちですな」
全くその通りであった。最初に決めたのは、『先に相手に一撃喰らわせた方の勝ち』というだけだ。決して剣を使わなければならないとは断っていない。
しかしそれにしたって、稚武が簡単に納得するはずなかった。
「嘘だろ、卑怯だぞ。こんなの正当な勝負じゃない。騙したな」
「おや、ミコトともあろうお方が負け惜しみとは見苦しい。――あなたは剣という武器に頼りすぎなのです。自分の力で戦おうとなさっていない」
ナム爺の手の剣が、どろんと元の杖に戻る。稚武の傍らに落ちたはずの役立たずの剣も、いつの間にやら消えていた。
「
「
稚武は顔を上げてナム爺を見た。
「まさか、愛比売さまが言っていた『御方』というのは、あんたのことか」
「ええ。わしは、あの姫神からわしのことを聞いたあなたがこうして尋ねて来ることも承知しておりました。まさか、ヤマトタケルノミコトのあなたとは知るよしもありませんでしたが―」
「俺はヤマトタケルではないと言っている。稚武だ」
稚武はまたしても訂正を入れたが、ナム爺は譲らない。
「いいえ、あなたは間違いなくヤマトタケルノミコトですじゃ。あのかたはもっと優しい、それでいて哀しげな澄んだ瞳をしておられたが――あなたと同じ光を持っていらした。年齢のころも全く同じ。そしてあなたは、ミコトと同じ道を歩んでおられる。これからも歩み続ける……」
「ナム爺はミコトに会ったことがあるのか」
頷き、老爺は答えた。
「ミコトはクマソタケル討伐を終え、都へ帰る途中にこの地にいらした。そしてイヅモタケルを討ち取り、悲嘆にくれてわしをお尋ねなさったのですじゃ」
「それは――何のために」
ナム爺は声音を落とした。
「今のあなたとは、全く逆の願いを叶えるために。神器の剣を封印させるためにです。……けれど、それは叶わなかった。わしはミコトを慰め、励まして送り出すしかありませんでした。そしてあのかたは、遥か東国で尽きてしまわれた。その報を受けたわしが、ふがいなき己をどれだけ責めたことか」
真実ナム爺が涙を流し始めたので、稚武は呆気に取られてしまった。咲耶たちもびっくりしてしまって何も言えない。
ナム爺は涙をぬぐうこともせず、静かに言った。
「しかし、若きタケルノミコト、あなたはかつてのミコトよりも弱くていらっしゃる。あなたに剣を待たせるのは忍びない……何よりも、あなたのために。悪いことは言いません、剣の復活は諦めなされ」
「そんなわけにはいかない」
稚武は息巻いて言った。
「俺が戦わなくちゃ、倭が滅びてしまうんだ。あんたはそれでいいというのか」
「今のあなたが剣を持ったとしても、結果は同じです。
ナム爺は厳しく言った。
「認めなさい、あなたに倭を救うだけの力はない。あなたは弱すぎるのです。たとえ大蛇を滅ぼしたとしても、あなたはそれと同時に、倭とあなた自身を滅ぼすでしょう」
あまりにはっきりと言われて、稚武は二の句が継げなかった。そのうちに、ナム爺の目は咲耶に移っていた。
「あなたも同じことじゃ、鏡の姫。今、あなたの目には何一つ見えていない。闇を憎むあまり、闇にとらわれている。迷走しておる――その果てには破滅しかありませんぞ」
老爺はやっと涙をぬぐい、重たいまぶたから刃のような瞳をのぞかせた。
「何にせよ、先ほど勝負はついたはずです。諦めてお帰りなされ。弱いままのミコトに、剣を与えるつもりはありません」
そのまま、ナム爺は山霧の中にかすんで消えてしまった。
「待ってくれ―」
しかし、残されたのは深い山の静寂だけだった。そしてかすかに迫り来る夕闇。
甲太が後ろ手を組んで言った。
「あーあ、行っちゃった。ま、気を落とすなよ。ナム爺は気まぐれなんだ、言ってる事もめちゃくちゃだし。……ヤマトタケルノミコトって、おいらだって知ってるぜ。ずうっと昔の人なんだろ。いくらナム爺が長生きしてるからって、会ったことなんかあるわけないじゃん。いい加減だなあ」
こくこくと乙次が頷く。
「仕方ないからさ、諦めて帰ろうぜ。さっさとしないと真っ暗になっちまう」
稚武は霧の立ち込める奥山をじっと見据えていたが、おもむろに甲太たちを振り返った。
「ああ、甲太たちはもうたたら場に帰ってくれ。でも俺は、もうしばらくここにいるよ。もう一度、ナム爺と話がしたいんだ」
「ええっ? だって、もう日が暮れちまうぜ」
「いいんだ。何日でも待つつもりだよ。剣を直してもらえるまで」
稚武は朗らかに言った。甲太が渋い顔をする。
「だけど……」
「ここまで連れてきてくれてありがとう、甲太、乙次。でも、これ以上世話になるわけにはいかない。きっと八雲が心配しているだろう、気をつけて帰れよ。たたら場のみんなによろしく」
ようやく甲太は聞き入れた。そうして乙次とともに、稚武たちを振り返り振り返り、山を下っていった。
その姿を見送ってから、稚武は鳥居の柱の元に腰を下ろした。そして咲耶を見やる。
「悪いな、つき合わせて」
「いいわよ。別に、あなたにつき合っているわけじゃないわ」
咲耶もまた、稚武とは逆側の柱に寄りかかるようにして座り込んだ。
「わたしは一人でもここに残るつもりだったわよ。だって、ナム爺の言ったことはわたしのすべてを否定したもの。迷走しているなんて……。つまり、わたしが禍を討とうとするのは間違いだと言ったのよ」
寄り添ってきたカムジカを撫でながら、憤慨するように咲耶は言った。
「納得できないわ。わたしにはこの使命しかないのに。それを否定されたら、わたしにはもう何も残らないのよ。だから、意地でも撤回してもらうの」
稚武はあえて何も言わなかった。何か言ったとしても、今の咲耶は聞く耳など持つまい。余計に意固地になってしまう恐れさえある。
(……俺だって、あとは意地で勝負だ)
こんなのは絶対に納得がいかない、と稚武は思った。どんなに挫かれても、稚武が自ら引くわけにはいかなかった。諦めてはすべてが終わりになってしまうのだ。
(なぜ、俺が弱いと言われるんだろう……)
もちろん、剣術の腕だけなら稚武よりも上手な者はいくらでもいるだろう。しかし、ナム爺が言うのはそういう意味の強さではないようなのだ。
(愛比売さまもそうだ。俺に迷いがあると言っていた……そのせいで剣は折れたのだと。だけど、俺が一体何を迷っていると言うんだろう)
それが稚武には分からなかった。醜い
稚武はうんうんと考え込んだが、いつまでたっても答えは見つからなかった。そのうちに、彼はまた別のことを考え始めていた。
古の英雄であるはずのヤマトタケルノミコトは、なぜ剣の封印を願ったのだろう、と。
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