第79話
夕暮れ、一日中似たような舞を踊り続けさせられた咲耶は、ぐでぐでに疲れ果てて、部屋に戻るとそのまま板敷きに寝そべった。
「うぅ……もうだめ」
「ふふ、お疲れ様でした」
先に武術の稽古を終えていた
「今日はどうでした? 先生のお言葉は」
「聞かないでよ」
咲耶は起き上がり、受け取った水を一気に飲み干した。そして難しい顔をする。
「おかしいわ。今日はもういつもにも増して、てんで踊れなかったの。この前練習したはずのところも、すっかり忘れちゃっていて……やっぱり向いていないのよ、わたしには」
「そう言いながら、またお一人で練習するんですよね、咲耶さまは」
呼々が笑うので、咲耶は膨れた。
「だって悔しいもの、できないままなんて」
「はい。わたくしは尊敬しておりますよ、咲耶さまのそういうところ」
にこりとして、呼々は櫛を取り出した。
「向こうを向いてください。一生懸命踊るのは良いですけれど、それでせっかくの
「あ、ごめんね、ありがとう。呼々は気が利くわね」
えへへ、と笑った瞬間、突然咲耶は抱きすくめられた。
「コ、呼々? なぁに、また甘えて」
「咲耶さま。……あなたにはやはり、笑顔が一番よく似合う」
「呼々……?」
呼々はわずかに身を離し、微笑んで咲耶を覗き込んだ。
「ずっとお慕いしておりました。そしてこれからも。――咲耶さま、あなたは? あなたはわたくしのことをどうお考えですか」
「えっ……どう、って」
咲耶はつっかえながらも答えた。
「好きよ、もちろん」
「本当に?」
「ええ、呼々は……世界で一番大切な人よ」
ぱぁっと呼々の目が明るくなる。彼女はいっそう強く咲耶を抱きしめた。
「嬉しいです、咲耶さま。なんて幸せ、わたくしは世界一の果報者です」
「おおげさね、呼々は」
咲耶は笑ったが、次の瞬間にはさすがにそうもしていられなくなった。呼々が首筋に唇を押し当ててきたのだ。びっくりしているうちに、いつの間にか咲耶は倒れこんでいた。呼々に押し倒される形で。
「――……咲耶さま」
折り重なる呼々の体は熱く、声音にも情熱が宿っていた。咲耶はすっかり気が動転して、間抜けに目をぱちぱちさせた。
「ちょっ……呼々? なに、どうしたの」
し、と呼々は唇に手を当てて見せた。
「怖がらなくて結構ですよ。男が女にするのとは違って、痛くはありませんから」
「はぁ?」
いきなり男とか女とか言われても、咲耶には寝耳に水だった。何しろ
呼々は苦笑する。
「幼いですね、咲耶さまは……」
すっと細められた目には、何か咲耶の知らない光がともっていた。
「けれど安心なさってください。巫女の相手をする我ら武官は、みな心得ていることです。……本当にわたくしを慕ってくださっているのなら、どうか力を抜いて……」
さすがの咲耶でも、まったく見当がつかないというわけではなかった。巫女仲間の中にも、自分付きの武官と懇意になっている子は割りと多くいた。咲耶よりも年下の子もいた。互いに想い合えばいずれ叶う日が来るのだと、少女たちは頬を染めて語るのだ。そんな彼女たちは何だかとてもきれいで、咲耶はひそかに憧れていた。
しかし、具体的なことが今ひとつわかっていない上に、実感がわかないのだった。咲耶が戸惑っているのを見て取って、呼々が耳元でささやく。
「大丈夫です。わたくしにすべて任せて……わたくしを信じてください」
咲耶の胸が高鳴り、だんだんと頭がぼんやりしてきた。
(……そうね、いいよね。相手は呼々だもの。どういうことになったって、きっと大丈夫……)
咲耶にとって、この世に呼々よりも信用すべきものなどないはずだった。呼々ほど咲耶を守ってくれる人はおらず、呼々ほど大切な人はいない。彼女を信じて任せれば、咲耶は幸せなはずなのだ。
咲耶は目を閉じて大人しくしていた。呼々は優しく咲耶を撫で、指先から愛しさが伝わってくるようだった。
呼々の手が咲耶の背中に滑り込み、髪を撫でる。
(そう、呼々はいつもわたしの髪を撫でる。わたしはそうしてもらうのがとても好き……)
しかしその時、呼々の手はどうしてか咲耶の髪をすり抜けた。腰よりも長いはずの咲耶の髪が――肩の下までしかなかったのだ。
ハッと咲耶は目が覚めた思いがした。
「…………違う」
「咲耶さま?」
呼々は柔らかく笑っている。だが咲耶は、震えるように頭を振って彼女を押しのけた。
「違う、呼々は……呼々は、もう」
叫ぼうとした唇に、ぴたりと呼々の手が添えられる。瞠目する咲耶が見つめる先で、呼々は嫣然と笑んでいる。
「いけません、咲耶さま。わたくしのことだけを考えて……辛いことは、みな忘れてしまってください」
「――あなたは違う」
咲耶の目に涙がにじんだ。
「呼々は、呼々は死んだわ。だからわたしは髪を切ったのよ。戦うために」
「いいえ、それは夢です。辛くて哀しい夢」
「違うわ!」
咲耶はとにかく首を振って喚いた。
「呼々が死んで、陽巫女さまがいなくなって……わたしは戦うしかなかった。神器を探して、禍を討つって」
「ええ、辛かったでしょう、咲耶さま。でも、もういいのですよ」
呼々はこの上なく優しい笑みを浮かべた。
「ここにいれば、もうそのように傷つくことはありません。わたくしがそばにおります。一生この陽里で、楽しく平和に暮らしましょう」
「……どうして……」
泣きながら咲耶は叫んだ。
「違うわ、あなたは呼々じゃない。この幸せは本物じゃない。わたしは帰らなくちゃ、帰ってまだ戦わなくちゃ! じゃなきゃ、わたしは」
しゃくりあげる咲耶を前に、呼々は静かに言った。
「……あなたは自分を責めていらっしゃいましたね、ずっと……だから、がむしゃらに戦いに向かっていった。禍を怨むことで胸の苦しさから逃れようとなさっていた」
咲耶は打たれたように身動きをとめた。呼々を見つめる目に、涙があふれる。
「そう、よ……だって」
咲耶は泣きじゃくって呼々に抱きついた。
「わたしのせいで呼々は死んだの。陽巫女さまも陽里のみんなも死んで、なのにわたしだけが生き残ってしまった。そんなことが許されるの? どうしてわたしは独りになって、それでも生きていくの。みんなを守れなかったくせに、どうしてわたしが」
ぎゅっと呼々を抱きしめ、さらに叫ぶ。
「わたしが……わたしにもっと力があったら。せめてもっと早く『鏡』の力に目覚めていたら、こんなことにはならなかった。きっとみんなを助けられた。わたしが、わたしが弱かったせいで、みんなは死んだんだわ」
だからわたしも死にたかったのだ、と咲耶は泣きながら考えた。すべてを投げ打って禍を討ち、そして禍ともろともに滅びてしまうことこそを、本当は望んでいた。死ぬために戦っていたのだ。
「……おかわいそうな咲耶さま」
呼々はぎゅっと咲耶を抱きしめた。
「おそばにいられぬこと、どうかお許しください。けれど、咲耶さまがわたくしを想うとき、この魂はいつでもそばにおります。そして、できるなら、わたくしはあなたの笑顔のそばにいたい。そのことを、どうかお忘れなく」
「――呼々?」
咲耶は目を見開いて呼々を見つめた。この陽里も呼々も、ナム爺が作り上げた幻覚に過ぎないはずだった。けれど―
呼々はそっと咲耶の頬に触れた。
「これが最後のわがままです。咲耶さま……どうかご自分の幸せのために生きてください。あなたがあなたを許せなくても、わたくしは、いつまでもあなたの幸せを願います。あなたは、わたくしを世界で一番大切とおっしゃってくださった。それだけでもう、充分です。……きっとわたくしでなく、あなたを抱きしめてくれる人がいます。あなたが幸せになれる人、幸せにしてあげられる人が、きっと……」
そうして、呼々の姿は揺らめいた。視界が暗くなり、かき消えていく。その瞬間、咲耶は、ナム爺が『出雲には
「呼々……呼々、あなたなの、本当に」
彼女はいつものように静かに微笑むだけだった。そして遠ざかっていく。
「呼々!」
抱きしめようと伸ばした手が、唐突に水面をはじいた。その衝撃で、咲耶は自分が洞窟におり、泉をのぞき込んでいることに気がついた。
水鏡には波が立ち、すべての像を揺らして消していた。
咲耶がまだうまく呑み込めていないうちに、暗い水の底から何か白く光るものが浮かんできた。やがて、それは勢いよく顔を出した。
「ぷはぁっ……」
現れたのは稚武だった。彼は激しく肩で息をし、何を言うより先に水から出てきた。濡れそぼってしまっていつもとは人相が違って見えたが、稚武は息を整えると、常と変わらぬのんきさで咲耶に声をかけた。
「よう、何をしているんだ、お前。ここはいったいどこだ? ずいぶん暗いな」
「稚武……」
気抜けしたように咲耶はつぶやいた。
「ふぅん、あの川はこんなところへつながっていたのか」
稚武は手に輝く剣を持っていた。真白い、清らかな光。神器の剣だった。
その光は咲耶の目にしみた。咲耶は急に胸がつまり、びしょぬれの髪をしぼっている稚武に抱きついた。
「ぅおっ……、おい、咲耶? どうした、濡れるぞ」
稚武は驚いたが、彼女が突然泣き出したので何も言えなくなった。
「呼々……ッ」
その名を呼び、咲耶は声を上げて泣いた。もう何もかもわからなくなって、とにかく子供のように、自分を解き放つために、泣いた。
稚武は洞窟の冷たい岩壁を背に、泣きじゃくる彼女を抱きしめて座り込んだ。
思えば、咲耶がこうして泣くのは出会ったとき以来だった。それは、決して彼女が涙を枯らしていたのではなく、自分を抑えに抑えて涙をこらえ続けていたのだと、稚武は思い知ることになった。
咲耶は我慢強く、今までそんな弱みを見せなかったから、わかっているつもりで忘れてしまっていたのだ。彼女もまだ、たった十七の少女であることを。
咲耶は嗚咽混じりに言った。
「稚武」
「……なに?」
「お願い、きっと最後まで連れて行って。わたしにはもう、他に行くところがない。もうどこにも、帰るところなんてないの」
咲耶は稚武の両袖をきつく握り締め、その胸に顔をうずめて泣き続けた。
稚武はずっと彼女を抱きしめていた。全身が濡れそぼって寒いくらいなのに、咲耶が涙を流す胸だけは、焼けついたように熱かった。
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