第70話


「――飛七ひな……」


 炎から現われたのは、精錬された体つきの青年だった。その姿を、稚武は見た事があった。


薙茅かるかやの……皇子みこ


 風羽矢の姿はどこにもなかった。衣も身につけずに、まるで炎から生まれたかのような薙茅の胸には、たった一つ紅に輝く神器の玉だけが下がっていた。


 薙茅は最初驚きの表情で茫然としていたが、立ち尽くしているヒミコ――飛七の姿を目にし、すぐに彼女に駆け寄ってきつく抱きしめた。


「……飛七!」


 小柄な飛七の体は、その腕にすっぽりと収められた。美津保であり、術が解ければ朽ちた白骨でしかないはずのその姿が歪み、稚武は確かに飛七を見ていた。


 稚武が息を呑んだ瞬間、突然傍らの咲耶が高く悲鳴を上げた。驚いて見やると、苦悶の表情を浮かべる彼女の右手の鏡が、まぶしく光を放っていた。


「咲耶―」

「鏡が……ッ、『玉』の解放に反応しているんだわ……!」


 ハッとして稚武が己の剣を見ると、草薙剣くさなぎのつるぎもまた、濡れたように光のしずくをこぼしていた。


(――そうか)


 玉は魂を意味し、勾玉は禍魂を封じる力を持つという。


(あの御祝玉みほぎだまには、呪いの根源である薙茅皇子の魂が宿っていたのか)


 稚武は咲耶を支える手にぎゅっと力を込めた。


(……なら、風羽矢はどこへ行ってしまったんだ……)


 永き時を隔てて再び触れた薙茅の腕の中で、飛七は声を濡らした。


「お会いしとうございました、我がきみ。薙茅皇子……!」


「飛七、我が妹よ」


 かたく抱き合いながら、薙茅は飛七の髪を撫でる。


「封じられし玉の中でも、わたしはそなたの苦悩を感じていた。そなたが『鏡』に弾かれ、約束を果たせぬと嘆いているのを」

「ええ……そう。そうでしたわ。けれど、会えた。どうして……」

「我らが我らの名を取り戻したゆえに……我らが子が、そなたの名を言霊としてこの地に与えたために、わたしは解放された。我らは失われた名を取り戻したのだ、やっと」

「皇子……お兄さま」


 わずかに身を離して見つめ合う二人を包むように、雪の上に炎が走った。蒼く、緋く、色をめぐらせて踊る。


 炎によって距離をとられた稚武は、それでも彼らに向かって叫んだ。


「風羽矢を返せ……返せ、返せ!」


 薙茅はゆらりと稚武を振り返り、重い声音で言った。


「もう遅い。あの子は我らのもの。風羽矢は我らがこの地にとどまるための唯一のくさび

「勝手なことを言うな!」


 怒鳴る稚武に、飛七が甘い――まるで母親のような声音で言った。


「いいえ、風羽矢もそれを望んでいるの。だってあの子は、このためだけに生まれたのだから。それより他に、あの子の存在に意味なんてないの……だからわたくしたちが、叶えてあげるのよ」


 ふいに、飛七の厳しい視線が咲耶を刺した。


「だから、覚えておきなさい。わたくしたちを拒否したあなたには、もう生きる意味なんてない。居場所なんてないの、どこにもね」

「そんなはずないわ!」


 脈動する「鏡」の痛みに耐えながら、カッとなって咲耶は声を上げた。


「あなたたちはおかしい。わたしも風羽矢も、あなたたちに利用されるために生まれてきたわけじゃないはずよ。わたしの命はあなたの道具じゃない!」

「ええ、あなたはできそこないよ。役立たずはそこで黙っていて」


 ふいをついて炎がさかまき、咲耶に向かって大きく伸びる。しかしとっさに身を引いたおかげで、なんとか避けることができた。勢いあまって後ろ手をついた咲耶を、稚武が支える。


 遠のいた二人から視線を外し、飛七は再び薙茅を見つめた。そしてわずかに眉をさげて一歩引く。


「ねぇ……お兄さまは聞いていました? わたくしがこの美津保という娘に依り憑いた理由を」

「……あぁ」


 薙茅は目を細めた。


「その娘の哀しみと怨みの念がそなたを呼び、一つになった、と」

「ええ」


 薙茅の胸に手をおき、飛七はほのかに笑んでうつむく。


「わたくしもまた、怨みの念にとらわれた死魂と化していたのです。だから、同じ想いを宿したこの肉体に引かれた……」

「怨み。……我らを引き裂こうとした穴穂あなほたちと、この倭に対する、か?」


 いいえ、と飛七は首を振った。


「確かに、あなたをおとしいれ大王の座についた穴穂皇子は恨めしい。自分の子を日嗣にせんがためにわたくしをおとしめた宮古が憎い。そして、わたくしとあなたに過酷なさだめを与えしこの地上を呪いました。……けれど」


 飛七は目に涙をためて顔を上げた。


「わたくしが誰よりも怨んでいたのは、あなたです。背の君」

「……飛七」

「あなのせいで、わたくしはこんなにも狂いました」


 温かな雫がこぼれた瞳を細め、飛七はそっと薙茅の首筋に両手を添えた。


「お兄さまはひどいかた。血の縁を隠し、わたくしをお抱きになった。……伊予で子らを生んだ夜、わたくしはすべてを終わりにしようと思いました。肉体を離れ魂魄となり、もう何もかも忘れてしまえばいいと。あまりにも我が身が哀しく、この世が怨めしくて……そうして、赤ん坊の首を絞めたのです」


 こんなふうに、と飛七は薙茅の首に当てた手に力を込めた。


 涙のあふれる瞳に、青い光が灯る。見つめ合ううちに、薙茅の目にも夕陽のような朱色の光が宿った。


「飛七……」


 名を呼ばれ、一つ瞬いて、飛七は手をほどいた。


「……けれど、お兄さまは来て下さった。二人の赤ん坊を抱えて泣いているわたくしのもとへ。日嗣の座を捨て、都から追われながら、それでもわたくしを迎えに来てくださった」

「そうだ。わたしはそなたを一人にしておけなかった。我らは離れては生きていけないのだから」

「そうして、わたくしはとうとう人であることをやめました」


 悲痛に眉を歪め、飛七は笑った。


「あなたはわたくしを離しはしない。恋という鎖で縛りつけ、闇へと引きずり込む。どんなに逃げようとも――あなたはわたくしを追って来る。……わたくしは全てを捨て、闇に堕ちるしかありませんでした」


 風羽矢によく似た穏やかな眼差しが、そっと伏せられる。


「憎く恨めしいお兄さま。愛しいお兄さま……わたくしをここまでおとしめたこと、許さない。お怨み申し上げます、愛しいかた」

「飛七。……そなたしか愛せぬわたしを、それゆえに怨むか」


 ええ、と赤く濡れた唇を歪め、飛七は頷いた。そして出し抜けに、薙茅の胸に飛び込んだ。


「そうして……あなたは死を超え、天地の摂理から外れてまで、再びわたくしのもとへ来て下った。約束を守ってくださった……」


 細い手で強く強く兄を抱きしめ、熱のこもった声音で言う。


「わたくしは、もうみんな捨ててしまいました。罪を選び、どこまでも堕ちてみせようと。だからお兄さま、わたくしと同じ闇に堕ちて。永久に闇を見て……。――さぁ、ともに参りましょう。新しき我らの倭へ」

「ああ……」


 薙茅は腕の中の飛七を見つめ、深い声で言った。


「今度こそそなたを離さない、飛七。我らは全てを超えて一つになるのだ、どこまでも永遠に」

「古き倭の滅びの中で、やっとわたくしたちは結ばれるのですね」

「そうだ、ともにこの世の果てまで参ろう。我がな妹の君」

「嬉しい……」


 稚武と咲耶が息をつめる先で、恍惚なる二人の唇が近づいていく。


 その会話を、風羽矢は胎児のように丸くなり、たゆたう暗闇の中で聞いていた。彼は、自分が薙茅皇子と入れ替わったこと、ここが「玉」の中であることぼんやりと承知していた。飛七の名を呟いた瞬間に、胸の勾玉が弾け、逆に自分が吸い込まれたのを感じたのだ。


(僕は……誰にも愛されていなかった。僕を見てくれる人なんて一人もいなかった……。血のつながった父さまにも、母さまにさえ)


 父は母を、母は父しか見ていない。自分を必要だと言ってくれた両親もやはり、風羽矢を見てくれてはいなかった。愛してくれてはいなかった。赤ん坊の風羽矢の腕に御祝玉を結び付けてくれたのは、ただ新しい器を見つけるための目印だった――


(……ワ、カ)


 稚武、と呼びかけて、風羽矢は不意に目を開いた。その視点は間違いなく薙茅皇子のものだった。目の前に大きく迫り、触れようとしている飛七の唇の向こうに、稚武がいた。そして――隣には、咲耶が。


 風羽矢は無心に二人を見つめた。支えあうような二人の姿に、すべてを悟ったような気がした。


 稚武はもう見つけたのだ。己の「鞘」を。風羽矢でなく、風羽矢のいたところを埋められる人を――正しい人を。よりによって、風羽矢と同じ血を流す人を……。思い知らされるようだった。だからもう、風羽矢はいらないのだと。風羽矢の居場所は、稚武の隣にはなかったのだ。もしかしたら、最初から。


「……君がうらやましい」


 風羽矢は咲耶に微笑みかけた。本当に声になったかは知らない。けれど咲耶はわずかに目を見開いた。


 自嘲するように、風羽矢は思った。


(僕は――僕も、稚武の「鞘」になりたかったのかも知れない)


 昔から欲しかった、たった一つのもの。当たり前に稚武の隣にいて、当たり前に一緒に笑っていられるような、そういう風羽矢が欲しかった。なりたかった、本当はずっと。


(理由が欲しかったんだ。胸を張って稚武の隣にいられるような、何か、理由が)


 乳兄弟だから? 仲がいいから? ――もっと違う、稚武にとって意味のある理由が欲しかった。


(……そうだよ、僕は)


 小石のような劣等感を手に握り締めながら、結局稚武なしでは生きていけない。


 僕は空っぽだ。だから余計に、稚武が欲しかった。でも、稚武の隣にいればいるほど、僕はどんどん何かを失っていく。足元の地面が崩れていって――


(……わかっていたよ、いつか君さえも引きずりこんで、僕は破滅に沈んでいくこと)


 だけど僕は臆病だった。温かな君の手を離すのが怖かった。



 ……でも、もういいよ。



 君を解放しよう、闇にまみれたこの僕から。握り締めた手を、ほどこう。


 すべてを終わりにしてもらいたい、君に。


 風羽矢は微笑んだ。涙があふれて歪む視界に、それでも稚武の姿を求めた。


「さよなら……稚武」


 今度こそちゃんと、僕を殺してね。


 薙茅と飛七の唇が重なったその一瞬に見えた稚武の顔は、確かに風羽矢の最後の声を聞いていた。


 口づけた二人を炎が包む。そうかと思ったのは刹那のことで、その蒼く緋い闇色の炎は膨らんで弾け、火柱を上げるように空に昇った。


 躍り上がった歪みの塊は、ひしゃがりながらどんどん膨れていった。やがて呼び込まれたように四方から黒雲が立ちこめ、その歪みに巻き取られていく。


「……禍」


 あれが。


 呆然と空を仰ぎ、稚武は呟いた。


 ところどころに火花を散らし、闇の塊は全天を覆うほどにまで広がっていった。そうして暗い雲間からのぞいた鱗に、稚武たちは息を呑んだ。


 黒い空に、二対の双眸が浮かんでいる。赤い瞳と、青い瞳。燃える炎の目。


「双頭の大蛇おろち……!」


 低いうめき声を上げながら、大蛇は闇雲の海を泳いでいた。互いに絡み合い、雷鳴を呼びながら。


 今度こそ、阿依良兵たちは死に物狂いで騒ぎ慌てた。現われた大蛇は人間の領域をはるかに超えたものに他ならなかった。そう、神と呼ばれるべきものでさえあった。


 混乱にさらに追い討ちをかけるように、とつぜん地面が大きく揺れた。地震――高千穂の峰が慄いている。


「カムジカ」


 稚武は鋭く白鹿を呼び、輝く剣を手にその背中に飛び乗った。そして咲耶に手を差し伸べる。


「咲耶、早く来い!」

「稚武――あれと戦うつもりなの」


 咲耶はしがみつくように稚武の後ろに這い乗りながら、それでも彼を止める気だった。


「当たり前だ、放っておけるか」

「でも、あれは、風羽矢なのよ!」


 悲鳴のように叫んだ咲耶にも、稚武は唇を引き結んで答えなかった。


 そのうちにカムジカは宙へと駆け上り、大蛇の真正面に向かって飛んだ。


 つんざくような雷鳴と吹きつける冷たい風にあえぎながら、咲耶はなおも叫び続けた。


「稚武、風羽矢を殺すの。どうしてあなたが」

「……あいつがそれを望んだんだ!」


 明るく輝く剣を握り締め、抑えていた怒りをぶちまけるように稚武は言った。


「これが禍じゃなくてなんなんだ。戦う以外にどうやって止めろっていうんだ。あいつが……あいつが自分でこうなることを望んだんだぞ! 応えてやらないでどうすればいい。――もう……終わりにしてやりたいんだ」


 涙を呑み込んだ声音だった。


「あいつを救うためには、殺してやるしかない。それができるのは、俺だけなんだ」


 稲光が走り、黒雲がうずまく暗い空を、カムジカは流星のように翔けた。


 双頭の大蛇は大きく体をくねらせ、とぐろを巻きながら、真っ赤な口を開いた。中から吹き出てきたものは炎だった。無心に灼熱の火炎を吐きちらして、大蛇は踊り狂う。炎は頂や麓を覆い、雪白の高千穂はいつしか赤い炎の山へと化していた。しかし大蛇が一鳴きすると、吹き荒ぶ風によって火はたやすくぬぐわれていく。残ったのは、焼け焦げた木の影や動物たちの死骸、そして逃げ遅れた阿依良兵たちの無残な姿だった。


 大蛇は雲を引き連れていくらか東へと泳ぎ、その大きな目が小さな白い光をとらえた。迷いなく翔けてくる白鹿、その背の、剣を手にした少年の姿を。


(どうしてなんだ、風羽矢)


 稚武の胸を満たすのは、哀しみと底なしの絶望、そして怒りだった。稚武よりも、父母なる禍を選んだ風羽矢への。


(俺は、俺たちの時間は、お前にとってなんだったんだ……。俺たちが二人で積み重ねてきたものを、お前はもう捨てちまったんだな)


 稚武はあごがしびれるほど奥歯を噛んだ――風羽矢の選択は裏切りに他ならなかった。


 空に浮かぶ巨大な山のような大蛇に立ち向かい、さんざめきの中で叫びながら、稚武は剣を振るった。


 白い光が弾け、神器は放たれた。解放された狂気の刃が大蛇に届いたのを、まばゆい光の中で稚武は確かに感じた。そして大気を揺るがす、大音声の大蛇の悲鳴。


(……さよなら、風羽矢……)


 決着は決別を意味した。


 そうして雷鳴はやみ、黒い雲が消え去って、大蛇は消滅していく――はずだった。


 しかし、暗雲が去って明るさを取り戻した空には、まだ痛みにのたうつような大蛇の姿があった。激しく二つの頭を振り回し、狂ったように炎を吐き上げる巨大な黒い蛇。


「どうして……」


 確かに手ごたえがあったはず、と稚武は愕然とした。その手の内で、まばゆく光を発していた剣が、見る間に輝きを失っていく。

 

 そして、ビシッといくつもの亀裂が走った。


「な―」


 声を上げる間もなく、剣は完全に光を失う。さらに細かな筋が走り、一瞬の間をおいただけで、剣はかけらとなって砕け散った。


「そんな――剣が」


 悲鳴を上げたのは咲耶だった。稚武は目の眩む思いで、その柄のみとなった神器を見つめた。


 我を失う二人を、大蛇の雄叫びがしたたかに突いた。高く鳴き、歪みそのものである黒い影は、東へ向かって青空をくねる。


 それが上空を過ぎるとき、巨大な影に日が陰り、人々は驚いて空を仰いだ。そしてその恐ろしき姿を見たのだった。滅びの象徴である、黒き大蛇。空を覆う禍。戦慄と絶望がすべての倶馬曾の民をつらぬいた。


 さまよい、何かを求めるように、大蛇は風を切って東へと飛んでいく。茫然とする稚武たちを乗せたカムジカは、滑るようにその風の中を追って、しばらくもしないうちに空中に立ち止まった。


 そこには、青い海が見えていた。さらに彼方に、伊予であろう緑の島影。


 高くうめき声を上げながら、突然大蛇は身を翻した。海に竜巻を起こし、その中心へと身を沈めていく。傷を負って泣きながら、逃げるように。


 そうしてやがて、大蛇は海の底へと去っていった。


 静けさを取り戻した遥かなる海を、稚武は力なく見つめていた。それから、手のうちの柄に視線を落とす。


(――負けたのか、俺は……)


 神器の破壊とは、つまり、神器の主の死。そう語った石上の大巫女の言葉を、稚武は思い出していた。


(なら、なぜ俺は死なない? 神器だけが砕けるなんて、そんな事があるのか)


 稚武が考え込んでいるうちに、カムジカはゆっくりと地上へ向かって下りていった。咲耶は稚武の背中にぎゅっと身を寄せて、恐る恐る足の下の景色を眺めた。だんだんと近づいていてくる大地には、四角く囲まれた大きな都が見えた。


阿依良アイラだわ」


 思わず咲耶は大声で言った。


 大蛇を追いかけ、こんなところまで来ていたのか。後ろを振り仰ぐと、遠く白雲をかぶる高千穂の峰が見えていた。


 カムジカは阿依良の宮に降り立つつもりのようだった。立派に造られた宮城が大きくなるにつれて、咲耶はその都の異様な雰囲気に気づいた。


「――稚武……見て。なんだか阿依良の様子がおかしいわ」


 言われてやっと正気に戻り、稚武は下を見やった。


 たしかに、阿依良は先日訪れたときと空気を異にしていた。陽の下に出ている人々はまばらで、あちこちに武装した兵士の姿があった。驚いたことに、その兵士たちは刺青をしていなかった――秋津兵だったのだ。


「どうしたんだ、いったい。なんでこんなところに、みんなが」


 その頃には、阿依良の人々も舞い降りてくる白銀の姿に気づき、口をあけて見上げていた。そのうちの一人に、稚武は見覚えのある人物を見つけた。


「松山のおっさん」


 カムジカの背から身を乗り出して呼びかけると、大門の前でこちらを仰いでいた松山は仰天したようだった。けれど、すぐにその声の正体を知り、顔を明るくした。


「稚武! おお、無事だったか」

「何をしているんだ、こんなところで」


 ふわりと弾んで地に足をつけたカムジカから飛び降り、稚武は松山に駆け寄った。他の者よりいくらか質のいい鎧を着けている松山は、稚武にも見覚えのある熟田津にきたつの衆を数人従えていた。そしてしかめっ面になって、稚武の顔を覗き込んだ。


「事情は聞いたぞ、大変だったな……水臭いではないか、なぜ、わしたちに相談もなしに倶馬曾に乗り込んだりなんぞしたのだ。――いや、無事に帰って来てなによりだ」


 真実安堵したらしい松山に、少し弱気になって稚武は眉根を寄せた。


「そんな事より――これはどういうことだ、なんで秋津のみんなが倶馬曾に。しかも、こんなところまで来ているんだ?」

「おお、このあいだ、桐生どのが熟田津に帰って来てなぁ」


 腕を組み、うなるように松山は語った。あたりにはしだいに人垣ができはじめていた。


「聞けば、倶馬曾の女王制は崩壊し、新しき王は倭を滅ぼす禍だというじゃないか。しかも王は霊峰に向かい、稚武と『鏡』の主の娘は二人でそれを追いかけて行ったと――我らが皇子が単身戦っているというのに、なぜわしらが熟田津でゆっくり温泉につかっていられる? 久慈くじ将軍もようやっと回復に至り、諸々の隊長とで話し合ってな、わしらも旗を掲げて乗り込もうということになったのだ。その上、禍の王はすでに都を留守にしているという。この機を逃す手はないと、思い切って奇襲をかけたのだが……」


 そこまで言って、松山は言いようのない難しい顔で肩を竦めてみせた。


「それが、来てみたらどうだ。わしらが来るよりも先に、ここの連中は何か化け物でも見たように怯えきっていてな。『黄泉還った者たちが一斉に朽ちて骨になった』、『ヒミコは偽者だった、祟られる』と我らに泣きついてきたのだ。全く、理解しがたい」


 聞きながら、稚武は阿依良の城壁や宮を見回した。どこもかしこも秋津軍の旗が高く掲げられており、ここが完全に占領されたことを明らかにしていた。


 なるほど、と稚武はさとった。


(ヒミコが阿依良を離れたせいで、亡骸を操っていた術が解けたんだな……それで皆やっと、あれが神の娘などではないと気づいたのか)


 そして途方に暮れた阿依良の人々は、鼻息を荒くしてやってきた秋津軍にあっけなく宮を明け渡したのだ。


 行方知れずであった皇子が帰ってきたとあって、にわかに辺りが騒がしさを増してきた。部下たちがあまりにもうるさいので、松山は肩眉をひそめて言った。


「そうだ稚武、急ぎ召集をかけよう、皆に顔を見せてやってくれ。久慈将軍も宮の中におられる。早く皇子の帰還をお伝えしなければ」


 誰かに伝達を頼もうとして顔を上げ、松山はやっと見知らぬ少女の存在に気づいた。


 男ばかりの人垣の中で、咲耶はこの上なく居心地悪そうにカムジカに身を寄せていた。彼らの物珍しそうな遠慮なしの視線に、吐き気さえ覚える。けれど誰にも弱気を見せるわけにもいかないと思い、かろうじて足の震えをこらえているのだった。


「稚武、あの娘は……あれが、鏡の主か。陽巫女の後継者であったという」

「まぁな」

「ふむ……本当にただの娘のようなのだな。桐生どのを黄泉還らせたというが、とても信じられん。……しかし、あの白い鹿は?」


 稚武は肩を竦めた。


「あいつは……なんか色々と、縁があって」

「神獣だろう、初めて目にする。なんと神々しい……」


 目を奪われたように言って、松山はハッと正気に返った。


「そうだ、こんなのんびりとしている場合ではなかった。――稚武、先ほど空に現われた化け物は一体なんなのだ。まさかあれが、禍というやつなのか。お前はあんなものと戦っていたのか」


 稚武は頷き、うつむいたまま声を重くした。


「あれは……風羽矢だよ」


 松山が息を止めたのを感じた。けれど稚武は振り切るように顔を上げ、国の皇子、一軍の将として強い声音で言った。


「まずは俺を久慈のところへ案内してくれ、松山。とにかく今の事態を把握したい」

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