第71話


 無事に生還した大泊瀬皇子おおはつせのみこの姿に、久慈くじを始めとする秋津の人々は涙さえ浮かべて歓喜した。しかし再会を喜び合っていられる時間はつかの間で、それからの日々は目の回る忙しさだった。


 稚武は大胆で迅速だった。倶馬曾クマソの驚異的な復興は、そのほとんどが稚武の決断力によるものと言って良かった。


 稚武は方々の郡に使者という名目で軍を送り、片っ端から降伏させていった。しかし、そこに血が流れることはなかった。混乱を極めた倶馬曾の国々は互いに孤立し、相手が大国秋津の兵というだけで戦意をくじかれたらしい。こちらが和議を申し込むと、渋る様子もせずに下ったのだ。それどころか目も眩むほどの貢物の山を差し出してきて、必死に命乞いするありさまなのだった。


 強力な指導者であった穂尊ホタカやヒミコを失い、かつての女王もいなくなった倶馬曾は、あっけなく秋津の統治を受け入れることとなった。


 稚武は冬の間阿依良アイラの宮に留まり、なだれ込んでくる仕事を昼夜をおかずこなしていた。倶馬曾攻略に成功したことに浮かれもせず、ひたすら働き続ける若き皇子に、久慈は感心しきって言った。


「皇子、離れていたのはわずか数ヶ月のことでありますのに、ずいぶんと急に一人前になられましたね。いや、立派でありますよ」

「そうかな」


 嬉しそうな顔もしないで、書簡に目を落としたまま稚武は答えた。


「もとはといえばすめらぎのせいで倶馬曾は混乱したんだ。せめて、早く落ち着いた生活に戻してやりたい」


 目を通し終えた書簡の束をどかし、稚武は一息ついて顔を上げた。


「彼らは皆、悪い夢を見ていたんだ。それはきっと、現実の生活の厳しさに、つかの間でも夢に救いを求めずにはいられなかったのだろうと思う。同じことを繰り返させてはいけない。そのためにも、倶馬曾は慎重に立て直す必要がある」


 大人びた声音で言い切った稚武に、久慈はますます顔を甘くした。二の腕から先を失った左肩に手をおき、目を細めて言う。


「この左腕はもはや使い物になりませんが、わたしにはまだ右の腕が残っております。この一本の腕でできる限り、皇子のお力になりましょう。石上であなたの帰りを待っていらっしゃる大王と、倭の未来のために」


 おう、と稚武は微笑んだ。それからすぐ、また次の書簡を手にする。


 久慈であっても、稚武がここまで精力的に仕事ばかりしているのは、他の辛い現実を忘れていたいがためだとは気づいていなかった。神器の剣は、柄とわずかに残った刃の一部だけで、死んだように稚武の傍らに置かれていた。


 稚武が倶馬曾復興のために忙殺されているあいだ、咲耶は宮の奥の離れを与えられて生活していた。周りの世話をしてくれるのが女ばかりというのは、確かめたわけではないが稚武の指示によるものに違いないだろう。


 咲耶が鏡の主であるということ、そしてかつて姫巫女とならんとしていた女であることは、陣営の皆が知るところだった。しかし、彼女が皇の血をひき、風羽矢の妹であることを知る者は、稚武の他にいない。


 その事実を伏せようと言ったのは稚武であった。


『風羽矢が禍だっていうことは、秋津のみんなも知っているんだよ。余計なことは明かさない方が得策だろう。……秋津には、大王のためを思うあまり過激なことをやる連中もいるから。彼らにとって、薙茅皇子かるかやのみこの子はそれだけで敵なんだ』


 さらに、わずかに憂えた表情を見せて彼は言った。


『本当ならこんなことは言いたくないが、俺以外の奴は信用しない方が無難だ。……みんな、悪い奴じゃないんだけどな』


 カムジカとともに暮らしていた咲耶は、時折り、遠くから稚武の姿を見かけることがあった。稚武はいつも何か忙しそうに、てきぱきと動き回っていた。そして彼の周りには常に誰かしらがついていた。


 薄汚れた服を着て咲耶の隣にいたはずの稚武が、きっちりとした衣に身を包み、威厳を持った皇子として人々を動かしていることに、咲耶は戸惑いを隠せなかった。


(本当に、稚武は秋津の皇子なのだ――いつかは王となり、倭を統べる人になる。わたしよりもずっと重いさだめを背負った人……)


 咲耶を抱きしめて静かに泣き、手を取ってありがとうと言った稚武であったが、こうして見るとやはり遠い人物のようだった。


 忙しさゆえに、稚武が咲耶のもとを訪れることはなかった。そして咲耶もまた、稚武に声をかけることをしなかった。


 ひょっとして自分のことなんか忘れてしまっているのではないか、と咲耶は思い始めていた。ありえなくはなさそうなのだ。しかし、ようやく日差しが柔らかくなってきたある朝、咲耶のもとにひょっこりと稚武がやってきた。


 そして彼は唐突に告げた。


「お前、秋津に来てみる気はあるか?」

 



        * *




 船から下り、浜辺に両足をつけると、稚武は大きく伸びて息を吸った。


「うーん、懐かしい。やっと帰ってきた」


 稚武たちの一行が船を寄せたのは、伊予いよ熟田津にきたつの港であった。


 冬の終わりとともに、倶馬曾は一応の落ち着きを取り戻した。人々は控えめながら笑顔を取り戻し、市の賑わいは日増しに大きくなっていった。やっと一つの区切りをつけ、稚武は一部の兵を連れて引き上げてきたのだった。しかし、西方の国々の軍を中心に、松山などの隊にはまだ向こうに留まってもらっている。これから先、倶馬曾は彼らと協力しながら、少しずつ以前のような活気を取り戻していくであろう。倭はとうとう皇のもとに一つになったのだ。


 だが稚武には、まだ秋津の都――大王のもとに帰れない理由があった。


「稚武!」


 出迎えの人々で賑わっている港に、一際大きな声が上がった。その姿を見、稚武はぱっと顔を明るくした。


紅科くしな、久しぶり」

「お帰りなさい、よく無事で」


 頬を上気させて稚武に抱きついたその女性を、咲耶はぽかんとして見ていた。稚武が女性と親しげにしているところなど、それまで見たことがなかったのだ。


「ああ、紅科も元気そうで良かった」

宇受うずもよ」


 くるりと振り向いて、紅科は背に負ぶった宇受を稚武に見せた。稚武は寝入っている赤ん坊を覗き込みこむと、柔らかな頬をつついた。咲耶が見たこともない甘い顔をして。


「おぉ、ちょっと大きくなったんじゃないか、宇受」

「あ、分かる? そうなのよー」


 にこにことして紅科は笑う。


「稚武」


 船から下りたまま動けずに、思わず咲耶は訊ねた。


「その子、もしかしてあなたの子供?」


 きょとんとした顔で、稚武と紅科は咲耶を振り向いた。それから同時に表情を崩す。稚武は心底苦々しそうに、紅科は楽しげに笑って。


 咲耶は声音を小さくした。


「……違うの?」

「違うよ」


 この上なくきっぱりと稚武は答えた。おかしそうにお腹を抱えて笑いながら、紅科がさらに言う。


「違う違う、この子はあたしの妹。稚武みたいな鈍感な子に、子供をこさえる器量なんかあるわけないわよ」

「紅科」


 怒った様子で稚武は彼女を睨んだ。「はいはい」と答えながらまだ笑って、ふと紅科は気づいたようだった。その大きな目をぱちくりとさせ、咲耶を見つめる。


「ところで稚武、その子、誰? ……やだ、もしかしてあんた、とうとう―」


 ひやかすように声音が弾んだのをすばやく聞きとがめて、稚武は真面目に言った。


「そいつは咲耶。神器の鏡の主だよ」


 さすがの紅科も浮ついた表情を消し、今度はまじまじと咲耶を見た。


「そうなの――この子が」


 ああ、と言いながら、稚武は横目で周囲をうかがった。皆が兵たちの帰還を喜び合うのに夢中であることを確認してから、耳打ちするように小さく言う。


「咲耶は風羽矢の妹なんだ」


 息を呑んだ紅科に無言で頷いてみせ、稚武は、今度は咲耶に向かって言った。


「紹介するよ、この女は紅科。背中のちびは妹の宇受。紅科は巫女なんだ、お前とは色々話が合うかもしれない。……それから」


 稚武は声を落とした。


「赤ん坊だったお前を連れて高千穂タカチホまで逃げた女の人というのは、多分、紅科のお母さんだよ」

「え……」

「紅科のことは信用していい」


 言って、稚武は真剣な顔つきで紅科に振り返った。


「ところで、紅科。俺がここに来たのは、愛比売えひめさまに聞きたいことがあるからなんだ。今、会える気配はあるだろうか」


 聞いて、紅科はわずかに顔をかたくし、眉を下げた。


「それが……実は最近になって、愛比売さまの御声がめっきり少なくなってしまったの」


 稚武の顔が曇るのを見て、紅科はさらに視線を落とした。


「きっと、宇受が成長してしまったからなの……少しずつ、この子自身の自我が強まってきているから。宇受が自分の言葉を持ったときに、愛比売さまの御声は途絶えるわ、次の湯守りの巫女が下されるときまで。仕方のないことなのだけど」

「……そうか」


 伏せ目がちに呟き、稚武はくるりと踵を返した。そして紅科と咲耶に背を向け、港から波打ち際を沿うように歩き出す。


「ちょっと、そこらへんを散歩してくる。久しぶりだから」

「まって、稚武」


 追いかけることこそしなかったが、紅科は鋭く彼を呼びとめた。


「ねぇ、風羽矢は? 風羽矢は、一緒に帰ってきたんじゃないの」


 咲耶は息を吸い込んだ。けれど、稚武の後ろ姿を見守るしかなかった。


「……ごめん」


 稚武は振り返らずに、向こう側にうつむいて言った。


「俺、紅科との約束を守れなかった。あいつは……帰って来ない」

「そんな、だって」

「悪い、あとは咲耶に聞いてくれ」


 それだけ言って、稚武は行ってしまった。賑わう港の明るいさんざめきの中、孤独な背中を隠せずに。


 彼を見送る咲耶と紅科の間には気まずい沈黙が下りた。だが、やがて紅科のほうが咲耶に向かって明るく笑いかけた。


「ねぇ、あなた、あたしの家にいらっしゃいよ。色々話が聞きたいわ――それに、話したいこともたくさんあるわ」


 見知らぬ土地に来ていることもあって、咲耶も最初は気が引けていたが、紅科の屋形で彼女とあれこれ話をしているうちにしだいに打ち解けていった。


 紅科は質問の仕方がうまく、また聞き上手でもあった。咲耶が笑って話せること、生き生きと語れることを引き出した。


 女同士の他愛もないおしゃべりの時間を共有してから、紅科は本題となるべき話題を持ち出した。覚えている限りの十七年前の記憶、風羽矢と咲耶が生まれた夜のこと、その後の動乱と、赤ん坊を連れて熟田津を去った紅科の母のことを。


 紅科の誠意に応えるように、咲耶は胸の痛みに耐えて知る限りのことを語った。時折り相槌を打つ紅科の顔が曇り、最後には涙を浮かべるのを見つめながら。


「風羽矢は……禍に呑みこまれてしまったのね……」


 こくん、と咲耶は頷いた。


「あの人がまだどこかにいるのか、それとももう二度と戻ってこられないところまで行ってしまったのかは、わたしには分からない。けれど……少なくとも風羽矢自身には、戻ってくる意志はないように思えるの。あの人はこの世界の全てに絶望したんだわ。そうでなければ、自ら禍に身を委ねるなんてとてもできない」

「自分は生まれてくるべきではなかったと、風羽矢がそう思っているってこと?」


 哀しげに言い、紅科は改めて咲耶の目を見つめた。


「あたしね、風羽矢とあなたが生まれたとき、そばにいたのよ。おぼろげな記憶しかないけれど、とても嬉しかったことだけは覚えてる……」


 涙を堪えながら、紅科はささやかに微笑んだ。


「人は生まれてくるだけで、誰かを幸せにすることができるわ。死んでもいい人間なんてどこにもいない。やがて本当に禍が倭を滅ぼしたとしても、あたしは風羽矢がこの世界に生まれてきたことを呪いはしないでしょう、最後まで」

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