第69話


 雪で真白に化粧された山の中腹に、大仰な「王」の一行は蟻の行列のように見えた。遥か上空のカムジカの背からでも、稚武はその列のどこに目指す人物がいるか容易に知れた。見えない糸のような力に導かれて視線をめぐらすと、風羽矢が輿から降りてこちらを見上げているのが見えた。そしてその胸に灯る、小さな赤い光。


 真っすぐにそれを目指し、稚武を乗せたカムジカは舞い降りていった。


 まさに「降ってきた」常ならぬ白鹿と、輝く剣を手にした少年に、風羽矢以外のすべての阿依良アイラ兵たちは大きく後ずさった。怯えているが、決して逃げ出そうとはしない。


 風羽矢は驚いた様子もなく、十歩ほどの間をおいて稚武を見つめていた。その目はただじっと稚武を見るだけで、感情のかけらもなかった。


 知らぬ間に奥歯を噛みしめ、稚武はカムジカから降りた。――緊張を自覚しているから厄介だ。だが、引くわけにはいかない。


 しばらくの沈黙があった。稚武がいくら挑むように見つめても、風羽矢は無表情に黙りこくるばかりで、眉一つ動かさなかった。


 これは風羽矢ではない、という思いが、稚武の中で静かに固まった。息をゆっくりと吐き出したとき、肩が震えた。気を抜いたら泣き出してしまいそうだった。


 それから何度かつばを呑み、稚武はようやく口を開いた。視線を周りの兵士たちに投げて、しいて感情のないように。


「そいつらを下がらせろよ、どうなるか分からないぞ」

「君に命令されるいわれはない」


 あっさりと風羽矢は答えた。それからふと、思い出したように微笑んだ。柔らかな、誰よりも見慣れた風羽矢の笑み。


「風羽矢」


 稚武は思わず名を呼んだ。希望の光が胸を差した――けれど。


「稚武はいつもそうだったね」


 思い返すような言いようには、明らかな侮蔑の色があった。


「君、僕が君の言うことなら何でも聞くと思ってただろ」

「……なっ」

「僕はね、稚武」


 ゆっくりと、子供に言い聞かせるような甘い声音で、風羽矢は言った。


「僕は、ずっと君と対等になりたかった。ずっと、ずーっと。……でも、僕ら、対等であったことなんて一度もなかったろう」


 微笑みながら、風羽矢の声音は無機質だった。


「僕は君の小間使い、奴隷、飼い犬」

「違う!」

「そうだったよ!」


 稚武が叫ぶと、風羽矢も突然叩きつけるように怒鳴った。唖然とする稚武に、風羽矢は肩で荒く息をしながら言った。


「……でも、ほら。見て」


 にこり、と人形のように笑う。


「僕ら今、この上なく対等だろう」


 稚武は茫然と突っ立っていた。これは絶対に風羽矢ではない、風羽矢ではない――


「僕は君の禍で、君は僕にとっての禍だ。敵というかたちで、僕らはやっと同じ土俵に立ったんだよ」


 うっとりとして、風羽矢は震えながら弱々しく笑い続けた。


「……昔、よく言ってくれたよね、稚武。まだ僕らが泊瀬はつせにいたころにさ。僕たちは『同じ』だって。それが今、やっと実現したんだ……ねぇ、嬉しいだろ?」


 風羽矢の笑みは壊れていた。今にも泣き出しそうに、怒り出しそうに、笑っていた。


「……嬉しくない……――嬉しいわけ、ないだろ!」


 やっと声が出たかと思うと、稚武は怒鳴っていた。けれど、口に任せて言えば涙を抑えられなくなることも分かっていた。


「お前……お前、ずっと俺のことをそんな風に見ていたのか。俺がお前を見下しているとでも思ってたのかよ……ッ」

「違うって言えるの?」


 嘘のように風羽矢は表情を消した。黒い冷めた目で、稚武を見やる。


「だって、君がここに来たのだって、僕が君と同じだけの力を手に入れたことが気に食わないからだろ? いつまでも後ろについて来ると思っていた僕が、急に隣に並んでムカついてるんだ」

「違う」

「違わないよ」


 風羽矢は優しく目を細め、胸をつくほどいつもの風羽矢の顔で言った。


「君が欲しかったのは従順な召使いだ。だけどそれは僕じゃなくて、ただの人形だよ。君は僕を都合のいい人形に閉じ込めて、隣に置いておきたかっただけなんだ」

「黙れ!」


 真っ赤になって稚武が怒鳴ると、風羽矢は「ほら、また命令する」と笑った。


「うるさい……黙れ」


 稚武は震えていた。怒りと、哀しみと、そして暴かれることへの恐怖。


 ――風羽矢と同じ表情で、同じ口調で、壊される。昔の二人まで。


 何の気兼ねもなく笑いあっていた泊瀬の二人が、汚される。


「……許さない」


 稚武は剣を両手に構えた。きつく、胸に玉を下げた少年を睨み据える。


「俺はお前の存在を許さない。お前がそこに立って、風羽矢の姿で存在していることを絶対に許さない」


 くす、と笑ったあと、恐ろしく低い声で風羽矢は答えた。


「この僕が、どうして君に許しを乞う必要がある?」


 ――『このわたしが、誰に許しを乞う必要がある?』


 その一瞬は、稚武の脳裏を鮮やかに照らし、思い出させた。稚武の薄紅色の御祝玉が見せてくれた過去の日々の、薙茅皇子かるかやのみこを。


 稚武は息を呑んで、そこに立つ風羽矢を食い入るように見つめた。それは誰よりも親しんだ友ではなく、妹への思慕に狂った滅びの皇子の忘れ形見だった。


 そう思った瞬間、稚武の中で何かの留め金が弾け飛んだ。


「お前は呪われてる……」


 何を口走っているのか、実のところ自分でもよくわかっていなかった。


「お前の存在を、誰も許しはしない。あま神々かみがみだって許さない」

「……へぇ?」


 風羽矢は笑いそこねたように頬を歪めた。


「稚武、君は父親のために一生懸命ここまで来たんだよね。僕の父を殺した大王――だったら僕だって、僕の父さまの仇を討つために戦って何が悪いの。呪われてるなんて、君に言われたくないよ。歪んだ存在は君だ、正統な日嗣ひつぎは僕なんだから。僕がこっちにいるおかげで、稚武はそこにいるんじゃないか」

「お前は日嗣になんかなれない。薙茅皇子は自分から滅んだんだ……妹との恋に狂って」


 風羽矢が表情をなくしたのを見たけれど、稚武の口は止まらなかった。


「お前は血のつながった兄妹の間に生まれた子供だ。天地の理に背いた子だ。生まれてくるべきじゃなかった……」


 風羽矢は無心な、幼い子供のような顔で稚武を見つめていた。稚武は言い切ってから、自分の口を出た言葉を知った。その言霊の取り返しのつかなさに、自分で自分が信じられなかった。


 ぼう、と風羽矢の胸の勾玉が、大きく燃えるように揺れる。


 風羽矢は目の前に久慈くじの影を見ていた。熟田津にきたつで彼に殺されかけたときの、手ひどく浴びせられた罵りの言葉を思い出していた。


 ――お前は汚らわしい、呪われた子なのだよ。禁忌の子だ。

 ――生まれてくるべきではなかった子だ。


 赤く、神器の御祝玉が燃え上がる。


「……あ、あァ」


 風羽矢は瞠目して体を震わせ、後ずさった。


「風羽矢」


 思わず稚武が踏み出すと、「玉」から無数の赤い光の矢が飛んだ。それらは稚武の肩や腕をかすっただけだったが、それ以上宿主に近寄ることを許さなかった。


「風羽矢、聞いてくれ」


 風羽矢が苦しんでいるのを見て、稚武は矢継ぎ早に語りかけた。もしかしたらもとの風羽矢に戻るかもしれないと、思わずにはいられなかった。すがりつかずにはいられなかった。


「大王は、玉座が欲しくて薙茅皇子をおとしいれたんじゃない、決して。本当は兄と戦うのなんか嫌だったんだ、だけど」

「――ヒミコ……!」


 風羽矢は必死で耳を塞ぎ、叫ぶように妹を呼んだ。思わず稚武は言葉を途切れさせる。


「ヒミコ……ヒミコ、来てくれ。嫌だ、助けてくれ、ヒミコ!」


 稚武は立ちすくんで、目の前の奇妙な光景を凝視するばかりだった。


 背中を丸める風羽矢の両肩の上の空間がひずみ、小さく渦を巻いた。かと思うと、その中央から二本の青白い腕が現われ、後ろから風羽矢に絡みつく。そうして空白の宙から姿を現したのは、年若く小柄な少女だった。


 不気味なほど長い髪が、風羽矢の体に沿って下りる。怪しげに微笑む少女の足は浮いていた。しなだれかかるように風羽矢の肩に手をおき、深海にも似た闇色の大きな目で、声を失っている稚武を見やった。


 ふふ、と赤ん坊をあやすように甘く笑む。


「どうなさったの、お兄さま。またこの男に傷つけられてしまったの?」

「ヒミコ……」


 妹の手に触れ、風羽矢はなんとか落ち着きを取り戻そうとしていた。


「お前が……偽者のヒミコか。本当に風羽矢の妹なのか……?」


 ヒミコは微笑み、ええ、と笑って見せた。しかし、その声音と目は鋭く切り込むような冷たさを持っていた。


「……あなたにわたくしたちの邪魔はさせない、穴穂皇子あなほのみこ宮古みやこの子だという日嗣皇子。あなたにだって、わたくしとお兄さまの間に入り込むことはできないのよ」


 風羽矢の胸に頬を寄せて、ヒミコは稚武を見た。


「滅びなさい、若きすめらぎ末子すえご。わたくしとお兄さまが創る新しき倭に、あなたはいらない」

「……許されるもんか、そんなこと」


 稚武は剣を両手で握り締め、ヒミコを睨みつけた。


 そのとき、眩暈を起こしたように両手で顔を覆っていた風羽矢が、あえぎながら口を開いた。


「ヒミコ……、ヒミコ、怖い。嫌だ。稚武が……ッ」

「ええ、あのひどい男は一体何をしましたの? お兄さま」

「うぅ、……ッ稚武、が」


 風羽矢はまるで母親に泣きつく子供だった。自分で立ち向かうことを知らない、脆弱な赤ん坊のようでさえあった。


「僕たちのことを、禁忌の子だって言った。僕らの父さまたちは兄妹だったって……呪われてるって。僕を、僕のこと、」


 生まれてくるべきじゃ、なかったって。


 ああ、と濁ったような声を上げて、風羽矢は膝をついて頭を抱えた。感情をむき出しにして、言葉にならないうめきをあげている。


 その弱々しい背に、ヒミコが哀しげに手をおいた。


「落ち着いてくださいませ、お兄さま。どこに嘆くことがありまして? わたくしたちには何も後ろめたいことなどありませんわ。それよりも、どうぞその身に流れる血の清さを誇ってくださいませ」

「…………ヒミコ……?」 


 風羽矢はゆっくりと顔を上げ、青ざめて見開いた目を震わせた。その眸に映るヒミコは、花のように笑んでいる。


 風羽矢は肩まで震わせながら訊ねた。


「君は、知っていたの……」


 ヒミコは目を細め、いっそう甘く微笑んだ。


「兄と妹が恋をして、何がいけないのです? いいえ、それこそが本来の男と女の在り方なのですわ。この倭を生んだ我らが始祖神、イザナキノミコトと妻のイザナミノミコトもまた、兄妹だったのですから。――そう……お兄さまとわたくしは、新しき倭のイザナキとイザナミになるのです」


 息さえも止めてヒミコを凝視する風羽矢にかまわず、彼女は赤く燃える御祝玉みほぎだまを指先でそっと撫でてささやく。


「そう、約束しましたものね」


 うっとりと、恋する少女が夢見るように。


「あともう少し……もう少しで、わたくしたちの願いが叶う。やっと……。あぁ、お兄さま、もうすぐですわ。あの娘さえ手に入れば……」

「……あの娘……?」

「咲耶か」


 気圧されていた稚武だったが、ハッと我に返って鋭く訊ねた。


 ゆらりと頭をもたげ、ヒミコは笑う。


 今さらになって、稚武は自分の至らなさに気づいた。


(まさか)


 さっと辺りを見回すも、あの男――穂尊の姿はなかった。


 稚武の慌てたさまがおかしいとでも言うように、ヒミコは口元を隠して軽やかに言った。


「そんなに心配しなくても結構よ。あの娘は殺しはしないわ」

「なぜ……『鏡』が狙いか」


 合点が言ったように稚武は言ったが、ヒミコはつまらなそうな顔をした。


「鏡? ああ……あんなもの、何の役にも立たない。わたくしたちの邪魔ばかりして。――そんなものより、わたくしに必要なのはあの娘自身。あの、尊き天つ神の血をひく器」


 稚武も風羽矢も、耳を疑った。


「なん、だって?」


 かすれたような声で稚武が聞き返したとき、雪の沿道のほうがにわかに騒がしくなった。


 緊張が走って見やると、現われたのは穂尊だった。


「ヒミコさま、ただいま戻りました」


 稚武が眉根を厳しくしたことには、穂尊は部下らしい阿依良兵を引きつれており、彼らに両手を取られて咲耶がそこにいたのだった。


「咲耶」


 咲耶は何とか男たちから逃れようと暴れていたが、名を呼ばれてやっとこちらに気づいたようだった。


「稚武―」


 だがヒミコの隣で怯えている風羽矢の姿をとらえ、さっと咲耶の目の色が変わった。


「風羽矢――離れて、その子から、今すぐ!」


 咲耶は高い声で叫んだ。その勢いで男たちの腕を振りほどく。


「ヒミコはあなたの妹なんかじゃない。だってその子は――生きてない!」


 咲耶は右手の鏡を高くかざし、真白な雪明りを集めてヒミコを照らした。神宝なる鏡から放たれた光を浴びて、ヒミコは短く悲鳴を上げた。そしてなんとか逃げようと風羽矢にすがる。


「ヒミコ」


 とっさに彼女をかくまおうとした風羽矢は、その肩に手をおいて息を止めた。悪寒ともいえないようなものが頭から身を貫き、声も出せずに全身で悲鳴を上げる。


 そこにいたのは、娘の衣装をかぶった骸だった。真白く硬い骨と、冷たい暗闇だけの目の窪み。


「うああッ」


 やっとのことでその骨ばかりの死骸を突き放すと、風羽矢は自分も後ろに倒れこんだ。倒れ伏した骸骨はガシャンと乾いた音を立てて崩れる。


「それから、こいつらもよ!」


 咲耶は振り返り、今まで自分を捕らえていた兵士たちに神器の光を当てた。すると彼らは声もなく白骨へと朽ち果て、カラカラと地に落ちた。


 今まで呆気にとられていた周りの阿依良兵や官人たちが、一斉に悲鳴を上げて逃げ惑う。腰を抜かし、それに躓いて転ぶも者もいれば、泡を吹いて失神する者も多くいた。そういう人間は、咲耶の鏡の光が触れても何の変わりようもなかった。――生きているのだ。


「咲耶、どういうことだ」


 剣を片手に、稚武は咲耶に駆け寄った。


「あの、骨になった奴らは一体なんなんだ」

「見ての、とおりよ……」


 突然、咲耶はがくりと倒れこんだ。意識は失っていなかったが、ひどく顔色が悪い。神器を呼び起こした反動だろう。


「咲耶」


 慌てて稚武が抱き起こす。


「しっかりしろ、大丈夫か」

「わたしは平気。……それよりも」


 稚武の手を借り、咲耶は顔を上げた。その厳しい目が見据える先で、ヒミコの亡骸がスゥ、と姿を取り戻しかけていた。むき出しの歯ばかりの口に肉がつき、やがてあらわれた赤い唇が呟く。


「そう……『鏡』の力に目覚めてしまったの。厄介なこと」


 見る間にヒミコはもとの少女の姿に戻り、乱れた髪を手ぐしで撫でた。けだるそうな彼女に、咲耶は厳しい口調で言う。


「あの阿依良兵の亡骸は、あなたが黄泉還らせたという人たちね。……死体を操っていたのね、本当は……!」


 ヒミコはしばらく何の感情も示さずに座り込んでいたが、ふいにフフ、と笑みをこぼした。


「だから、なに? 偽りであっても、信じる者にとってそれは真実よ」

「あなた――なんてことを。その体も亡骸ね。生命への冒涜だわ」


 ヒミコは体を重そうにして立ち上がり、薄く笑んだまま言う。


「それでも人は、愛する人と共にあることを望むものなの」


 ねぇ、とヒミコは首を傾げるようにして穂尊を振り返った。


 穂尊は愕然として、木偶でくのように突っ立っていた。そうして、ただヒミコを見ている。ヒミコという天女の魂を宿した、愛しい女性の姿を。


「……なぜ……ヒミコさま」


 震える声で、穂尊は目元を歪ませた。


「それでは、黄泉還りなどというのはでたらめであったのですか。では……美津保みつほは、その美津保の身体は」

「わたくしが離れれば、すぐにも朽ちて骨の塊となってしまうでしょうね」

「そんな……!」


 穂尊は何か口を空回せて叫び、やっとのことで声にした。


「あなたはおっしゃった……! 新しき依坐よりましに姫巫女の肉体さえ手に入れば、美津保の体と魂を返すと。だからこそわたしはあなたに従い、この手を血に染めてきたというのに」


 激昂する穂尊の姿に、咲耶は悟った。


(じゃあ、今ヒミコが依り憑いているのが、穂尊が愛したという前の姫巫女……)


「美津保……」


 もう、十数年も昔のことになってしまった。

 陽里を追い出され、ぼろぼろになって阿依良まで穂尊を尋ねてきた美津保には、天女が憑いていた。死人を黄泉還らせ、予言をする神の娘。美津保はいつしかヒミコと呼ばれるようになり、阿依良になくてはならない存在になっていった。しかし、それとともに美津保が美津保である時間はだんだんと短くなってゆき、ある日とうとう現われなくなった。


 突然妻が消えうせて困惑するばかりの穂尊に、天女なるヒミコは微笑んで言った。


『心配することはないわ。ただ少し、わたくしの意識の大きさにこの娘の自我が薄まってしまったの』

『わたくしが宿れる新しい依坐さえ見つかれば、この娘はすぐ元に戻るわ』

『欲しいの……陽里にいる、神器の鏡を持った娘の体が。けれど、「鏡」があってはわたくしは近寄れないのよ。あの鏡は魂を弾くの』

『ねぇ、穂尊。――協力してくれるでしょう?』


 頷き、穂尊は耐え忍んだ。軍を鍛え、ヒミコのもとに阿依良をまとめながら、陽里を滅ぼすその日を待ち続けた。代替となる姫巫女の体を手に入れ、そして美津保をおとしいれた陽巫女たちに復讐する日を。


 少しずつ確実に年を重ねる自分と、何年経とうとも十六の姿まま変わらない美津保とに焦りをつのらせながら。


「では、わたしがしたことには一体何の意味があったのだ……憎き陽里を焼いて……せっかくこの手で陽巫女を殺したというのに、美津保はもう」


 力を失って呟く穂尊に、ヒミコは唇を歪めた。


「――愚かな男」


 火花のように顔を上げた穂尊にも、ヒミコは怯まなかった。彼が愛したその娘の姿で、微笑んでみせる。


「ねぇ、どうしてわたくしが美津保に憑いたと思う?」

「……何を……?」


 穂尊は訝しむように眉を寄せた。ふふっ、と楽しそうにヒミコは笑う。


「陽里から追い出されたなんて嘘。この娘はね、みずから川に身を投げて命を絶ったのよ。巫女の身でありながら、穂尊……あなたに恋をしたゆえにね」


 穂尊は無言で目をむいた。


「あなたに心を奪われた美津保は巫女になどなれるはずもなく、けれど陽里を抜けて男のもとへ走ることなんて誇りが許さなかった。そうして苦しみぬいて、五瀬川イツセガワに身を投じることを選んだのよ。――その哀しみと怨みの念がわたくしを呼び、一つになったの」


 膝から崩れ落ち、茫然としている穂尊に、ヒミコはさらに言った。


「わかるかしら、あなたに。……美津保が怨んでいたのは陽里じゃない。あなたよ、穂尊。あなたさえ現われなければ、美津保はいずれ陽巫女としてこの国の唯一の女王となる将来が約束されていた。あなたに恋をして、巫女である身をおとしめなければ……。そしてね、怨みと愛しさは同じところから溢れてくるものなの。愛しく思えば思うほど、怨みもつもる。そんな美津保の苦しみが、あなたに分かる?」


 穂尊は食い入るようにヒミコを見つめ、つっかえながら尋ねた。


「では……では、美津保の魂は今、どこに。まだそこにいるのか、美津保」

「あの娘の魂はとうに消滅したわ」


 穂尊を覗き込み、可愛らしく小首を傾げてヒミコは語る。


「わたくしと一つになって永らえた美津保は、阿依良にたどり着いてあなたと再会した瞬間に満たされて、この地上を離れたの。今頃は、黄泉の国の底闇に還っていることでしょう。――邪魔だったから、ちょうど良かったわ」


 ヒミコを凝視したまま、ふらりと穂尊は立ち上がった。


「しかし……では、あの美津保は。わたしとともに、阿依良での日々を過ごした美津保は」


 完全に自我が消えてしまうまでの数年間、夫婦として過ごした美津保は――


 くす、と突き放すような笑みがこぼれた。


「良い夢を見られて幸せだったでしょう?」


 非情な笑顔で言い放たれた瞬間、穂尊は怒声を上げて剣を振り上げていた。


 愛しき姿のままの娘の瞳に、変わり果てた自分が映る。そしてその深い目が蒼く燃えたのを、見た。


 そのとき何が起きたのか、稚武たちには一切分からなかった。穂尊がヒミコに切りかかろうとした瞬間、彼は青い炎に包まれて燃え上がったのだ。とつぜん、あたかも自ら炎を発したように。


 そうして一瞬で、穂尊は灰になった。骨も残らず、そのまま風にさらわれて、消えた。


 人々が己の目を疑い、しんとなった中で、ヒミコが呟いた。


「哀れな男……」


 それがきっかけとなって、阿依良兵たちは我に返ると同時に悲鳴を上げ、我先に山を下ろうと駆け出した。彼らは隊長の死をもってやっと承知したのだった。今まで自分たちが崇めていたのは救いをもたらす天女などではなく、恐ろしく残酷な化け物であると――


 悲鳴と怒号とで騒然とする中、ヒミコは何事もなかったかのような顔で風羽矢を振り返った。茫然自失の態でへたり込んでいた風羽矢は、顔を強張らせる。だが、ヒミコは穏やかに微笑んだ。


「もうすぐですから、そこで待っていて下さいませね、お兄さま。今すぐ、わたくしがお助けしますから」


 ヒミコはそれだけ言うと、今度は咲耶を見やった。そして白い雪を踏みしめ、歩み寄る。


 先ほど神器を使った反動で精気を失っていた咲耶は、立ち上がることもままならなかった。かばうように稚武が立ちふさがる。


「咲耶をどうするつもりだ」

「邪魔をしないでちょうだい、穴穂皇子の子。あなたを殺すのはわたくしじゃないの、あなたはお兄さまに裁かれるべきなのだから」


 無表情で言うヒミコに、膝をついたまま咲耶ははっきりとした声音で尋ねた。


「あなたは……本当は誰? なぜ魂になって他人の体に依り憑きながら永らえているの。どうして、わたしの身体が必要なの。――わたしが『鏡』を持っていることと、何か関係があるの」


 ヒミコは立ち止まり、目を細めて咲耶を見下ろした。  


「あなたは、わたくしの依坐となるために生まれてきたの。わたくしが再びこの地に黄泉還り、お兄さまと新しき倭をひらくための大切な鍵……」


 スッ、とヒミコの瞳が冷える。


「……なのに、あの愚かな女が赤ん坊のあなたを連れて逃げた。たどりついたこの高千穂に、正月であったために陽巫女が来ていたの――前代の陽巫女は恐ろしく呪力の強い巫女だった。事情を知って『鏡』をあなた中に封じ、わたくしから遠ざけてしまったのよ。そしてこともあろうに、鏡ごとあなたを陽里に連れ帰った」


 咲耶は瞬きも忘れてヒミコを見つめた。


「……じゃあ、わたし、高千穂の生まれではないの? その女の人というのが、わたしのお母さん」

「いいえ」


 ヒミコは優しい笑みを浮かべた。


「あなたの母親は、このわたくしよ」


 その衝撃に、咲耶は耳を殴られた気さえした。


「よく覚えている……暗くて寒い夜だった。冬の森の……暗い谷の底で、生んだんだわ。風が強かった」


 ヒミコはどこか遠くを見るような、頼りない声音で語った。


「生まれたのは、元気な男の子と女の子。可愛い双子だったの」

「――そして、お前は、自分の娘にとり憑いて生きつづけるつもりなのか」

「そうよ」


 瞠目する稚武に、ヒミコはにっこりと頷く。


「すべてはお兄さまとわたくしの夢を叶えるため。二人の誓いを果たすためには、そうするしかなかったの」

「……お兄さま、というのは誰のことだ。風羽矢を、誰と間違えているんだ」


 怒りを込めて稚武は訊ねた。


 咲耶を生んだというからには、ヒミコが風羽矢の妹であることなどありえなかった。ということは、ヒミコは風羽矢に誰かを写し見ているのだ――彼女の慕う「兄」を。


 しかしヒミコは表情一つ変えなかった。


「お兄さまは、お兄さまよ。全てを超えて一つになろうと誓ってくれたお兄さま。正統なる皇の血を引く、正統なる倭の王……。そうして、約束のとおりにわたくしのもとへ来てくださった」


 ヒミコはくるりと踵をかえし、風羽矢にしなだれかかった。風羽矢は息をのんで全身をこわばらせるのが精一杯で、座り込んだまま動けなかった。


 風羽矢の胸元で燃える勾玉に向かい、ヒミコは愛しそうにささやきかけた。


「けれど、お兄さまはいまだ封じ込められたまま。――そう……きっと、わたくしに足りないから。わたくしたちの命を継いだ双子の兄妹の、お兄さまは男子に、わたくしは女子となって再び手を取り合おうという約束を、わたくしがまだ果たしていないから……」


 稚武も咲耶も、風羽矢さえ耳を疑ってヒミコを凝視した。


 まるで夢を語るように、魂魄のみとなった女は続ける。


「わたくしとお兄さまは、一つになって命を絶ったの。そして、目印として子供たちに持たせた神器の光を頼りに、暗き海の底から地上へ戻ってきた。……けれど玉は、あろうことか秋津に渡っていたのよ、子供とともに。わたくしは娘の鏡を追いかけて、お兄さまとはぐれてしまった。その上、鏡はわたくしを拒むように弾いて……倶馬曾をさまようしかなかったわたくしは、美津保の思念に引かれるままに彼女の屍に宿った。――信じておりましたわ。お兄さまは必ず迎えに来てくださると。二人の約束を果たしてくださると……」


 咲耶に視線を向け、ヒミコは声を強くする。


「あとは、わたくしがあなたさえ手に入れれば完成するの。お兄さまは解き放たれ、わたくしはわたくしであることを確かにするんだわ。失われたわたくしの名を取り戻して、お兄さまの名を取り戻して……。お兄さまに、わたくしの名を呼んでもらえる日が来るのよ」


 まさか、と稚武は喉を震わせた。


「なら、生まれた双子の……女が咲耶で、男は、まさか風羽矢なのか。お前の言うお兄さまは――薙茅皇子かるかやのみこのことか!」


 稚武は悲鳴のように叫んでいた。


「お前、飛七ひなだな」


 その言霊が矢になって風羽矢の胸を射たのを、稚武は見たような気がした。何か鋭い衝撃を受けたかのように、風羽矢の唇が震えたのだ。


「――ヒ、ナ……?」


 瞬間、炎のように揺らめいていたくれない御祝玉みほぎだまがいっそう明るく燃え上がり、風羽矢を呑みこんだ。それは一瞬のことで、稚武が悲鳴を上げる間もなかった。

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