第68話



 痛みに耐えかねてうめき声をもらしながら、咲耶は何とか洞窟からはいずり出ようとした。


(風羽矢と戦ってはだめ……稚武)


 稚武はきっと気づいていないのだ。彼にとって風羽矢の存在がどれだけ大きく、影のように絶えずそばにあるか。影を切り落とすことは、同時に自分も破滅させなければかなわないことだというのに――


 止めなくては、二人を。


 痛みで視界がぐらつき、手を使えないことで立つことすらままならなかった。それでも歯を喰いしばって、何とか表に出ようとする。


 汗がにじみ始めた顔を上げたとき、洞窟の入り口の縁に人影が降り立った。


「稚武?」


 思わず声をかけて、返ってきた声音に愕然とした。


「――ようやく見つけたぞ、姫巫女」

穂尊ホタカ


 雪の照り返しで逆光を受けていた顔が、洞窟の焚火に照らされた。その目元に踊る、黒い炎。忘れもしない、陽巫女の返り血を浴びて微笑んだ顔。


 痛みさえ忘れて、咲耶は穂尊を凝視した。


「どうして……こんなところに」

「本物のヒミコさまのお導きでな」


 穂尊はくっと笑いをもらして答え、うつぶせの咲耶に歩み寄った。そして、威嚇するように厳しく睨みあげる彼女のあごを軽く持ち上げる。


「言え、神器の『鏡』はどこだ」

「……っ、知らない」


 パン、と咲耶は頬を打たれた。


「言え」

「言わないわ……!」


 咲耶はキッと穂尊を睨みつけた。


「渡さない。あなたたちは神器を持つべき人じゃないわ。わたしは何一つ知らないけれど、それだけは分かる。在るべきところにない神器は歪んだ力を生み出すのよ。あなたたちが持てば、禍を呼ぶだけよ!」

「知ったような口をきくな、陽里の小娘が」

「――あァッ」


 穂尊に右の手首を踏みにじられて、咲耶は悲鳴を上げた。苦痛に歪む咲耶を見下ろす目は、恐ろしく冷たい。


「いい気になって、自分は神器に選ばれたとでも言うつもりか。魔女め」

「……魔女はあなたのところの偽ヒミコよ……!」


 咲耶は奥歯を噛みしめるように、うなるように言った。


「あの子は風羽矢をいいように操っているんじゃないの。そうなんでしょう? どうしてあなたはあの子に付き従うの……そのために何人の人を殺したの!」

「黙れ、何も知らないくせに」


 ギッと咲耶の細い腕を踏みつける足に力を込め、穂尊は低く言った。そこには抑えきれない怒りがあった。


「お前たちこそ、陽里で無邪気に笑っているだけの自分たちの暮らしのために、どれだけの民を食いつぶしたと思っている。お前が慕い崇める陽巫女という女王のせいで、どれだけの人間が不幸になったことか」


 咲耶は言葉を失った。そんなこと、考えたこともなかった。


「……知らない……」


 素直に咲耶の口をついた言葉に、穂尊が頬を歪めて笑う。


「知らないか、そうだろうよ。お前たちのせいで倶馬曾クマソは腐ったのだ。それを、陽巫女という汚らしい女たちはひた隠しにしてきた。自分たちで国を滅びに導いておいて、被害者ぶるのもいい加減にしろ」


 ――穂尊は本当に陽巫女を、陽里を憎んでいるのだ、と咲耶は直感した。そこにあるのは燃えるような怒り。けれどその奥に、凍りついた哀しみが溶けずにあるような気がしてならなかった。


「どうして……。あなたは、陽巫女さまのために何を失ったというの」


 我知らずに訊ねていた。すると穂尊も驚いたのか、厳しい表情のまま黙ってしまった。それから一、二度焚火の枯れ枝が弾けて、ようやく穂尊は口を開いた。


「……どうせお前は分かっていないのだろう。陽里の女たちの姑息さと恐ろしさを。そして醜い嫉妬心を」


 穂尊は落ち着いた声音で、それでも嫌悪をにじませながら語った。


「お前が仇を討ちたいと思うまでに慕っている陽巫女は、本来は女王になるべき女ではなかった。あの娘は己の身の可愛さに、既に決まっていた姫巫女をおとしいれて里から追い出し、まんまと成り代わったのだ。たいした力もないくせに……もう、十五年も昔の話だがな」


 咲耶は目を丸くして、初めて見るような顔で穂尊を見つめた。


「あなたは、その追い出されたという姫巫女を……愛していた?」


 穂尊は表情を変えず、何も答えなかった。だが、沈黙は肯定に違いなかった。


「じゃあ、その人は追い出された後、どうなったの」

「――つまらんおしゃべりを長々とする気はない」


 穂尊が指を鳴らして合図すると、降って沸いたように阿依良兵たちが姿を現した。どの男もどこか生気の欠けた表情で、わらわらと洞窟の入り口に集まってくる。あまりの不気味さに、咲耶は思わず息を止めていた。


「この娘を運べ」


 はい、と答え、男たちはのったりと咲耶に歩み寄った。無数の腕が伸びてきて、咲耶は座り込んだまま身を引いた。逃げようにも、手の神器の痛みで思うように動けない。


「やだ……ッ」


 とうとう腕をつかまれ、抵抗もむなしく咲耶は担ぎ上げられてしまった。ゾッとしたことは、咲耶に触れた男たちの手が思いがけず冷え切っていたことだった。いくら雪山にいたとしても、これほどまでに温かみがなく、氷のような手があるだろうか。


「離して。離しなさいよっ」

「ふん、そんなでも大事な娘だ、傷つけず、逃がさんようにな。――行くぞ」


 咲耶は諦めずに暴れていたが、聞きとがめて穂尊を見やった。


「いつも……あなたはそう言うわね。わたしの体に傷がつくことを気にしてる。どうしてなの」


 陽巫女の宮で初めて会ったときも、阿依良の宮でも。穂尊は何か、咲耶を生け捕りする命令を受けているような口ぶりだった。


 穂尊は歩みを止めずに咲耶を振り返り、にやっと笑って見せた。


 咲耶は峰の麓にいた山賊たちを思い出した。


「まさか、わたしを売り飛ばすつもり」


 ぽかんとするような間があり、穂尊の足が止まった。咲耶としては的を射たつもりだったのだが、穂尊は高らかに笑い飛ばした。


「お前なんぞを買う物好きがどこにいる」

「じゃあ、どうして」


 ふっと笑いを抑え、口元は楽しそうに歪ませているものの、穂尊の目はいつもの冷徹な光をたたえていた。


「お前のその肉体は、ヒミコさまの新しき依代よりしろとなるのだ」

「……な……?」


 耳を疑う咲耶の視界に、ぼんやりとした光があった。見やってさらに目を見開いたことには、いつのまにか痛みはなく、右手に『鏡』が現われていた。


 そして、その神宝なる鏡が映し出している白きものは、一瞬で咲耶の喉を凍てつかせた。

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