第65話

  

 いつものように穴穂に手を引かれて、宮古は花畑に立っていた。花は可愛らしい白い卯の花だった。稚武の知らぬ間に季節は揺れ、いつの間にか景気は夏の色に染まろうとしていた。


「そなたに白は似合わないね、あまり」


 穴穂あなほは微笑んで宮古を振り返った。


「そなたにはもっと明るい色がいい。もうすぐ姫百合が咲くだろう、楽しみだな」

「……姫百合が咲く頃、皇子は都にいらっしゃるのですか」


 宮古は沈んだ声音でうつむいた。穴穂は瞬いたが、やがて目を細めて言った。


「どうであろうな……確かに、倶馬曾クマソとの戦は激しさを増している。そろそろ父上も、わたしを出陣させる頃合いと思っておられるかもしれぬ」


 穴穂は座り込んで花を撫でた。


「劣勢になっているらしい。兄上かわたしか……あるいは二人とも、早いうちに出て行かなければ」

東宮はるのみやさまも?」


 宮古は顔をしかめ、胸に手を抱いた。


「そんな……」

「――宮古?」


 穴穂は立ち上がって宮古を覗き込んだ。口元は悪戯に微笑んでいる。


「なんだ、そなた。わたしよりも兄上がいなくなることのほうが寂しいのか」

「いえ、そうではなくて……ッ」


 宮古は慌てて首を振った。


「ただ……それでは、東宮さまと飛七ひなが離れ離れになってしまうんだなって思って」

「……飛七?」


 目を丸くした穴穂に、宮古はこくこくと頷いて言った。


「わたしと親しい人で……東宮さまに仕えているんですけれど。お二人は恋人同士なんです」


 身分違いの二人の恋とはいえ、穴穂になら明かしてもいいだろうと宮古は考えていた。自分と穴穂もまた、身分を踏み越えた恋をしているのだから。


 穴穂はわずかに眉を寄せて、軽く笑った。


「それは……何か、勘違いをしているだろう。男女が仲良さそうに見えるからといって、恋人とは限らぬ。女子おなごたちの目にはすぐそう映るかもしれないが……」

「いいえ、お二人は仲睦まじい恋人同士ですよ。東宮さまは、お忍びで毎晩のように飛七のところへ通っていて……ときどき惚気られちゃいますもん」


 ひそやかに笑って、他に誰が聞いているわけでもないのに宮古は穴穂に耳打ちした。


「飛七は、東宮さまの『鞘』なんですって」


 息を呑んだきり、穴穂は何も言わなかった。宮古が不思議に思って見ると、彼は恐ろしく顔色をなくしていた。


「穴穂皇子……? あの、どうしました。あたし……とんでもないことを口にしたでしょうか」


 宮古は焦った。これで穴穂が飛七を咎めでもしたら、自分のせいで二人の恋が台なしになってしまう。


「でも、皇子。皇子は二人を咎めたりしませんよね。だって、いくら身分違いだからって……それでは、あたしもここにはいられなくなってしまう。二人を引き裂いたりしませんよね」


 突然、穴穂は無言で宮古を抱きしめた。遠慮のない、男の力強さを感じさせる熱い腕だった。


「皇子……?」


 夏の匂いのする風が吹き、花々を撫ぜていった。


 東の空に、にわかに入道雲がわきたっている。激しい夕立を予感させる、晴れすぎた蒼い空だった。



 日暮れごろ、明るかった空は急にかげり、真っ暗になった。どしゃ降りの雨と雷が鳴り出したのは同時だった。


 人々は雷を神の怒りと恐れ、すぐさま部屋に引きこもっていく。そしてひたすら怯える。


 宮古は度胸の据わった娘だったが、やはり雷はありがたくなかった。にわか雨に降られてびしょぬれになってしまってから、やっと殿に上がって雨を避けることができた。


 人気の薄れた殿から、端女たちが控える部屋へと足早に駆け抜ける。どうせ誰も見ていないのだ、しなしなとした歩き方ではいつまでたっても帰り着けない。


 ピシャリと雷鳴が響いた。宮古が飛び上がったと同時に、雷とは違う厳しい声が耳についた。


「兄上!」


 驚いたことに穴穂皇子の声だった。廊の角の宮古は、思わず脇の部屋に飛び込んで隠れた。いつになく憤りを帯びた穴穂の声は、廊の向こう側からこちらに向かってきていたのだ。ただ事ではないとすぐに知れた。稚武も、穴穂が声を荒げているところなど見たことがなかった。


「兄上、お待ちください。兄上!」


 やってきたのは穴穂だけではなかった。彼は、敬愛してやまない東宮・薙茅皇子の背に必死に呼びかけながら追いかけてきたようだった。


「兄上。わたしは、わたしは恐ろしいことを耳にいたしました。あなたが……飛七と通じていると。まことですか、兄上」


 宮古はぎくりとした。座り込んだ身をこわばらせ、息を殺す。


「うるさいぞ、穴穂」


 宮古の隠れている部屋の前まで来た薙茅はようやく立ち止まり、ひどく苛ついた様子で弟を振り返った。


「本当だとしたら何だというのだ」


 穴穂は愕然として声を震わせた。


「……何という……恐ろしいことを。気は確かですか、兄上」

「この上もなく確かだ」


 すげなく答えて再び歩き出そうとした薙茅の肩を、穴穂が引く。


「目を覚ましてください――罪です」

「罪ではない」


 言い切って、薙茅は鋭い眼差しで弟に切り込んだ。


「お前だって、あの宮古に骨抜きになっているらしいではないか。わたしはお前を咎めはしない。だからお前に口出しされる筋合いもない」

「宮古は関係ありません。宮古と飛七は違う。飛七は……あの子は知らぬのでしょう」


 息巻いて兄を覗き込む穴穂に、薙茅は口をつぐんで視線をそらした。


「兄上……あなたのしていることは、狂っている。歪んでいる……。愛ではない」

「馬鹿を言うな」


 嘲るように薙茅は笑った。


「愛だ。わたしと飛七は結ばれるさだめのもとに生まれたのだ」

「さだめ? 飾らないでください! 許されると思っているのですか」

「このわたしが、誰に許しを乞う必要がある?」


 穴穂は言葉を失って青ざめる。ギシ、と床板を鳴らし、一歩あとずさった。


 うめく空に稲妻が走る。


「……許されません、誰も許しはしない。飛七は、血のつながった我らの妹なのですよ」


 世界を裂く落雷があった。見開かれた宮古の瞳に、明るい稲妻がひらめいた。


「――誰にもわたし達を引き裂くことなどできない」


 薙茅は穴穂の胸ぐらをつかみ、吐息がかかるほど顔を近づけて低く言う。その目は怪しく輝いていた。


「たとえ神であってもだ」


 息を呑む穴穂を乱暴に押しやり、薙茅皇子は廊を立ち去っていった。


 雷はひっきりなしに鳴り続いた。神々が怒り、罪の恋を激しく責め立てているようだった。


 取り残された穴穂は、深くうなだれて立ち尽くす。しばらく両手で顔を覆っていたが、前触れもなく叫んだ。


「何者だ」


 勢いよく戸が開かれて、潜んでいた宮古の心臓は凍りついた。穴穂の目は火花が飛び散るようだった。けれども、彼は色を失う宮古に目をむき、しばらく凝視していたが、やがて穏やかな顔つきになった。


 哀しげに眉を下げ、目を細める。


「……聞いていたね」


 この期に及んでしらをきるわけにもいかず、宮古はぎこちなく頷いた。口封じに切り殺されても文句は言えないと思った。


 しかし穴穂は、他に人影がないのを確かめると、膝をつき、怯えきった宮古の頬を撫ぜた。


「そなたという子は……夏だというのに、こんなに冷え切って。ずぶぬれではないか」


 微笑んで、穴穂は宮古を立ち上がらせた。


「わたしの部屋においで。……話そう」


 にぎりしめた手は優しく、温かかった。しかし震えていた。それが自分なのか、穴穂の方なのかは、宮古にはわからなかったけれども。


 しばらくしてたどり着いた穴穂の寝所は、暗い。いつのまにか雷は遠ざかり、くすぶるような遠雷がうなるだけだ。


「寒くはないか?」


 穴穂は濡れそぼっていた宮古の服を脱がせ、薄衣をかぶせてくれた。宮古が恥らうあまり、ずっと苦笑している。肌に触れることはなかった。


 宮古の隣に腰を下ろし、寄り添うようにして穴穂は静かに語りだした。


「……兄上とわたしと飛七は、同腹の兄弟だ。けれど飛七だけは……父が違う」


 薄暗い中、穴穂の声音は雨上がりのように落ち着いていて、それでいてはっきりとしていた。


「かつて、母上……皇后は近習の者と過ちをおかされた。けれど大王おおきみは……すべてを闇に覆い隠すことで母上をお許しになったのだ。――当然、生まれた不義の子も暗い淵へと葬られた」

「それが……飛七?」


 穴穂は頷いた。


「このことを知る者は少ない。近臣の中には、赤ん坊の飛七を殺すべし、もしくは地方まで流すべきだと言う者もいたらしいが……。けれど父上は、飛七を臣の家に下げ渡して、いずれは宮仕えさせるようにとなさった。母上は泣いて喜んだという」


 穴穂は目を閉じた。過ちを犯した母――許す父。自分の子でない、けれど愛する人の子を、そばに生かし置く。その気持ち。


 父の心情を思う穴穂の感情が、そのまま稚武にまでなだれ込んできた。宮古も同じ気持ちになっているのかもしれない。


(すごい……)


 稚武は祖父についてよく知らない。けれどもこの時、初めてその輪郭をとらえたような気がした。


 宮古がささやくように言った。


「大王は、皇后さまを本当に愛していらっしゃるんですね……」

「わたしもそう思う」


 穴穂はわずかに微笑んだ。苦笑するように。


「けれど、本当のところはわたしなどには解らぬよ。どうだろうな……母上を許したのは、皇后の罪を民に知られまいとしただけかもしれない。それに飛七を生かしたのだって、罪の『証』を見えるところに置くことで母上を責め続けておられるのかもしれぬしな」


 穴穂は遠くを見据えるような目で、宮古にもたれかかった。


「……人の心は複雑だ。愛と憎しみが同じところから生まれることもある。父上は母上を深く深く愛し……だから許せないのだと、わたしは思う。単純に母上を想うなら、飛七をご自分の子と認めてしまえばよかったのだから。――そうであったなら、兄上がこのような罪を犯すこともなかったろうに」


 悲痛に眉根を寄せ、穴穂はうつむいた。


「飛七は何も知らぬはずだ。自分の本当の親も……兄上との血のつながりも。それが天地の理に背く愛などとは」


 宮古は穴穂にとりすがった。


「どうすれば……こんなのはあんまりです。飛七に真実を告げるなんてとてもできない。あの子は敬虔な子なんです、それが、こんな……。それに、東宮さまは全てを承知していて隠していたのだと知ったら、それはあの子にとって裏切りです。飛七は、誇りも愛もいっぺんに失うことになるんだわ」


 青くなって震える宮古を、穴穂は黙って抱きしめた。


 それから、宮古が飛七の部屋に行くことはなかった。行けなかった。あわせる顔が、なかった。何も知らず、幸せそうに薙茅への愛を語る彼女に、同じ顔で頷き返すことなどできようはずもない。


 だから次に宮古が飛七に会ったのは、もう何もかも遅すぎたときだった。




 稚武が気づいたとき、宮古は走っていた。蝉の声が煩い真夏の日差しのもと、汗だくになりながら。


 行き着いたのは、都のはずれ。いかつい兵士たちに囲まれ、後ろ手を縛られた飛七が、衆目に晒されながら歩いていた。


 深くうつむき、ぼさぼさの髪で顔を隠す彼女の表情は知れない。


「……怖いわぁ、なんでも日嗣の皇子さまに取り入って財を集めようとしたらしいじゃない」

「違うわよ、色香で皇子さまを騙して、毒殺しようとしたのよ」

「あら? あたしは、皇子さまの他の妃さまたちを殺しかけたのだと聞いたけれど」


 噂好きの少女たちの声音は、流罪になった飛七を嘲笑していた。


「流れ先は倶馬曾との境でしょ、どうせ長くは生きられないわね」

「かわいそうに……身の程を知らずに皇子さまに近寄ったりするから」


 同情の言葉と裏腹に、くすくすと非情な笑いが零れる。


 茫然と飛七を見つめていた宮古の頭に、カッと血が上った。


「あんたたち――」

「おやめなさい」


 思わず少女たちにつかみかかろうとした宮古を、冷静に抑える男がいた。


久慈くじさま」


 宮古を追ってきた久慈は、息を切らしながらも、彼女の手を取った。


「言いたい者には好きに言わせておきなさい。あなたが手を上げて何になります」

「ですけど、久慈さま……!」


 宮古は怒りで声を震わせた。


 久慈と宮古は、穴穂を介して顔見知りだった。親しく会話することはあまりなかったが、久慈は何かと宮古と穴穂とのことを応援してくれていた。


 今回は、飛七が流罪になったと聞いて宮を飛び出した宮古を、気軽に行動できない穴穂皇子にかわって追いかけてきたのだった。


「どうか落ち着いて。自らを抑えてください」

「だって、こんなのは許せません。どうしてですか……ッ、まるで、飛七が東宮さまを騙したみたいに!」


 なぜ、薙茅皇子と飛七のことが大王の耳に入ったのか。それは宮古にはわからない。けれども、あっけなく露見した二人の道ならぬ関係を、大王は再び闇に沈めようとしているのだ――飛七一人にあらぬ罪をかぶせて。


 宮古は強く憤った。


「あんまりだわ。飛七は何も知らなかったのよ。本当よ。なのに、どうして飛七だけがこんな目に遭うの。東宮さまはいったい何をしていらっしゃるの」

「……宮に幽閉されておられます。大王から、『頭を冷やせ』と」

「そんな……――なら、穴穂皇子にお頼みするわ。皇子ならきっと飛七を助けてくださる」


 息巻く宮古に、久慈は瞑目して首を振った。


「これでいいと、あの娘が言ったのですよ」


 目を見開き、宮古は久慈を仰いだ。


 久慈はわずかに同情するような眼差しで言った。


「大王が直々に、あの娘に全てを話しました。……薙茅皇子との血の縁も。そして、この国のために身を引いてほしいとおっしゃったのです。 ――あの娘は、承知したのですよ」


 宮古は目を大きくしたまま、ゆっくりと飛七を振り返った。


 何も知らない人々に口さがなく言われながら、罪人として独り、暗い道を行く飛七。無垢な愛と誇りを汚された飛七――


 宮古は叫んだ。


「飛七!」


 本当は駆け寄ろうとしたのだが、すかさず久慈が手をつかんで許さなかった。それでも、声は届いた。飛七は足を止め、背中を丸くしたまま、静かに振り向いた。


 ――笑っていた。けれどそれは、いつもの花のような笑みではなかった。すべてに裏切られ、汚されて、絶望を見た眸。泣きはらし、黄泉の国の奥底から何かを呪うような。


 自分を生み落としたこの世界への怨みだけで、飛七は笑っていた。


 宮古は何も言えず、飛七の目に厳しく突き放されて、一歩後ろにぐらついた。慌てて久慈が支える。


 囲う兵士たちに乱暴に背を押され、そのまま、飛七は行ってしまった。


「……飛七……」


 遠ざかる親友の姿を見つめる瞳に、涙がにじんだ。



 そののちの薙茅皇子の荒れようは凄まじいものだった。目についた者をたいした理由もなく処刑し、日に何人もの女を犯して、悲鳴を聞いて悦ぶようになった。しまいには父王を殺して玉座を奪おうとしたが、これに失敗した。そして日嗣の座を取り上げられ、臣たちが次の日嗣に穴穂皇子の名を声高に上げると――穴穂に向かって挙兵した。

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