第64話



 意識が飛んで、再び稚武が気づいたとき、事態はさらにおかしなことになっていた。


 暗闇の中で目を覚まし、たくさんの端女が眠っている部屋を、ひそかに抜け出す。長く、さらさらと肩を撫でる黒髪。柔らかく白い肌。何よりもおかしな、低い目線。――稚武の意識は穴穂皇子あなほのみこを抜け出し、宮古みやこに移っていた。


(なんでこうなるんだよ)


 わけのわからなさに憤慨する稚武であったが、しばらく考え込んで、いよいよ謎が解けてきた、と思った。つまりこれは、あの薄紅の御祝玉みほぎだまの「記憶」なのだ。これまで穴穂が持っていたあの勾玉が、宮古の手に渡ったことによって、稚武の意識もそちらに移ったのだろう。


 稚武が一人で納得している間に、宮古は暗い宮の庭を裸足で駆け抜けていた。彼女は身軽で足が速く、衛兵たちの目に付くことなくずんずんと目的地を目指している。


 稚武は最初、宮古は穴穂のもとへ忍んで行くつもりなのだろうと思っていた。だが、どうも見当はずれのようだった。宮古は何の心残りもないさまで穴穂の宮を出ると、まっしぐらに東宮はるのみや――薙茅皇子かるかやのみこの宮を目指していた。


(おいおい……)


 怪しい雲行きになってきたぞ、と稚武は内心焦った。このような夜ふけに人の目を盗んで、誰のもとに何をしにいくというのか。


 まさか、宮古には穴穂の他に想う男がいるのでは……などと稚武が思い悩んでいるうちに、宮古はとうとう東宮にたどりついてしまった。そして息を切らしながら、暗い殿の壁にささやきかける。


飛七ひな


 すると返ってきたのは、柔らかな女の声だった。


「宮古、来てくれたのね」

「うん、聞いてほしいことがたくさんあるよ」


 宮古は微笑み、打ち解けた口調で語った。


「あたし、ちゃんとお伝えしたの、穴穂皇子に……お慕いしていますって」

「それで、皇子はなんて?」


 えへへ、と宮古は含みのある笑いを聞かせた。壁の向こうの、飛七という少女はもどかしそうに言った。


「じらさないで、早く聞かせて。うまくいったんでしょ」

「……うん」

「やっぱり」


 二人は壁越しに笑いあった。


 会話から察するに、どうやらこの二人は気心の知れた親友同士らしかった。宮古は以前こちらの宮に仕えていたのだから、そういう相手がいてもおかしくない。逢引の相手が女であったことに、稚武はほっと胸をなでおろした。


「ねぇ、穴穂皇子は何ておっしゃったのよ。隠さなくてもいいでしょ、教えて」

「ええ? ……へへへー。それは内緒、恥ずかしいもん」

「なによぅ、出し惜しみしないでよ」

「じゃあ、とっておきを見せてあげる」


 宮古は立ち上がり、格子戸から中を覗き込んだ。


「皇子がね、勾玉を下さったの。御祝玉にしようって……」

「まぁ、本当に?」


 中の飛七の声はいっそう弾んだ。


「素敵だわ。見せて見せて」


 宮古は首から下げていた薄紅の勾玉を手にし、格子の隙間に掲げた。


「どう、見える? 暗すぎて見えないかな?」

「待って……よいしょっと。――あら、きれいな……石竹色かしら?」

「そうそう、薔薇水晶っていう珍しい石なんだって。でも、薔薇よりは桜みたいな色なの」


 その時、雲に隠れていた月が顔を出した。にわかに闇が薄れ、格子の影の向こうに飛七の顔が垣間見えた。その顔に見覚えがあって、稚武は息の止まる思いがした。


(風羽矢――)


 けれど、飛七はどう見ても少女だった。まずこんなところに風羽矢がいるはずがない。まさか、という思いが稚武の中をめぐり、やがて確信になっていった。


(風羽矢の……母親……)


 考えてみれば、ここは風羽矢の父――薙茅皇子の住まう東宮なのだ。風羽矢の母がいても何ら不思議はなかった。


 けれども端女にすぎない宮古が、皇太子の妻のような高貴な女性と親しくしていることは、おかしいといえばあまりにおかしなことだった。


「それで、飛七のほうはどうなの、最近。東宮さまとは」

「どうって……」


 かぁ、と飛七が赤くなったのが、夜闇の中でさえわかるほどだった。彼女がしどろもどろになっているときに、中から楽しそうな笑い声があった。


「わたしに隠れて誰との逢瀬かと思えば、以前穴穂のところへやった娘ではないか。二人はそのような関係だったのかな?」

「皇子さま」


 宮古も飛七も声を跳ね上がらせた。飛七の部屋には薙茅皇子がいたのだった。眠っていたはずの彼は薄衣を羽織り、くつろいださまで飛七を抱き寄せた。


「浮気とはひどいな、飛七姫。隠れ忍ぶ我らの恋ゆえに、寂しかったか?」

「ち……っ、違います違います」

「誤解です、皇子さま」


 二人が慌てて首を振ると、薙茅は愉快げに笑っていた。どうやらからかっているらしかった。その胸に、神器の玉――八尺瓊勾玉やさかにのまがたまが揺れているのを、稚武はぎくりとして見た。暗くてはっきりとした色は分からなかったが、少なくとも光ってはいなかった。


 薙茅は格子戸から宮古をのぞきこんだ。


「そなたらは夜ごと、このような艶めいた逢瀬を重ねていたのか。女子おなごの考えることは面白い」


 宮古は恥ずかしさに肩を竦めた。


「だって……」

「無茶をする娘だ。――ところでどうなのだ、そなた、穴穂とは。うまくやっているのか」

「えっ」


 今度は宮古が真っ赤になった。薙茅の腕に抱かれた飛七が柔らかく微笑む。


「とてもうまくいっているようですわ、皇子さま」

「それは良かった。穴穂は不器用なやつだからな、女子を喜ばせるのは苦手だろうと思っていたが……」


 薙茅は飛七の頬に唇を寄せた。


「あいつもようやく『鞘』と出会ったようだ。わたしの宮の端女がほしいなどと言いだしたときには驚いたものだが。やはりわたしの弟、恋する相手も似ていると見える」

「皇子さまが、侍女であった飛七に心奪われなさったように?」


 思わず宮古が明るい声で訊ねると、薙茅はくつくつと笑った。


「そういうことだ。身分があるとはもどかしいことだな、こうして隠れてでなければ、真に愛しいと思う者を抱くこともできない。――けれど本当は、恋に身分や年齢など関係ないのだ。ただ魂が惹かれるかどうかだけがすべて……。愛し合うということは、もともと魂が一つであったということなのだから。ちょうど、刀身と鞘が二つで一つの剣となるように」

「素敵ですね」


 うっとりとして宮古は言った。


「つまり、飛七は皇子さまの『鞘』なんですね」


 薙茅は微笑んで頷き、照れきっている飛七をきつく抱きしめた。


「わたしと飛七は一つだ。離れては生きていけない。誰もわたしたちを引き裂くことなどできない」


 この薙茅皇子という色男を、稚武は唖然として見ていた。なんて恥ずかしいことを臆面もなく口に出すやつなんだ、というのが率直な感想だった。これが風羽矢の父かと思うと、悪い夢を見ている思いがする。


 薙茅は真に熱い男だった。目は火のように輝き、口から出る言葉は自信と情熱にあふれていた。


 けれども薙茅はこの先、穴穂と対立して神器を呪う男なのだ。その男と宮古が楽しげに会話しているとあっては、さすがの稚武であっても穏やかではいられなかった。すぐにでも穴穂に告げ口してやりたい。けれど今の稚武には、情けないことに口どころか手も足もないのだった。


「では、そのようなお二人の邪魔をしてはいけませんね。わたくしは部屋に戻ります」


 宮古はさっと庭に下りた。


「いつかまた、お邪魔するようなことがあるかもしれませんけど……」

「よいよい、その時は三人で語らおう。――穴穂には内緒にしておきなさい。秘密をつくるのは楽しい」

「はい」


 くすくすと笑い、宮古は温かな土を踏んで駆け出した。

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