第63話

 いつだったか、大王おおきみが自身のことを「覚悟を決めたら迅速な男」と言っていたのを、稚武は思い出していた。それはまったく真実だった。


 次に稚武が気づいたとき、いつ間にか日付けは変わり、翌日の朝になっていた。


 そして目を疑ったことに、穴穂は宮古と再会していた。彼は昨夜中に兄である薙茅皇子かるかやのみこに頼み込んで、宮古を自身の宮の端女に据えたのだった。


 穴穂より五つ年上の薙茅皇子は、このとき日嗣皇子ひつぎのみこであった。穴穂はたった一人の兄である彼と親しかった。薙茅の方も、懐いてくる弟を可愛がっていた。穴穂の知る薙茅は、男気があってたくましく、豪快ながら情の厚い男だった。宮古という端女を譲ってほしいと、珍しく頬を上気させている弟に、薙茅皇子は楽しげに笑って快諾してくれたのだ。


 そして今、穴穂に呼び出された宮古は、ひたすら平伏して震えている。穴穂がこの宮の主であり、皇子であることを知ったときの彼女の青ざめようは、見ていた稚武が気の毒に思ったほどだった。


 朝の薄暗い部屋には、二人きりだった。


「顔を上げてくれ、宮古」


 優しい声音で穴穂は告げたが、宮古は見るからにびくついて、恐る恐る蒼い顔を持ち上げた。


「怯えなくていい、そなたを咎めるつもりはないのだよ」


 微笑みながら、穴穂はゆっくりと彼女に歩み寄った。膝をついたまま、宮古は後ずさる。


 穴穂は哀しげに眉を下げた。


「昨日のことは謝ろう。わたしは性急過ぎた」

「いえ――そんな、めっそうもありません」


 宮古は全身で額ずいた。


「わたくしこそ、何という……何というご無礼を。お許しを願いはしません、どうぞご処罰を」

「許すと言っているのに」


 穴穂は膝をつき、冷え切っている宮古の頬に優しく触れた。


「どうか怖がらないでくれ、宮古。わたしは、そなたになら殺されてもかまわないとさえ思っているのだから」

「ご冗談を」


 宮古は思い切り身を引いた。


「冗談ではない。宮古……そばにいてほしい。わたしは本気だ」


 深くも熱のある瞳で、穴穂は彼女を見つめた。宮古は震えながら見つめ返していたが、やがて視線を落とした。


「無理強いはしない」


 穴穂はわずかに眉を下げて微笑み、身を離す。


「わたしは待とう、宮古。そなたが振り向いてくれるまで。……必ず振り向かせてみせるよ」


 宮古は赤くなって困りきっていた。稚武も頬が熱くなる思いがしていた。父と母のこととはいえ、こんなにも情熱的な愛の告白の場面に出くわそうとは、夢にも思っていなかった。さらに奇妙な気がして落ち着かないのは、このときの穴穂は今の稚武よりも年下なのだ。宮古もまた、まだあどけなさのうかがえる年頃だった。


 待つと言ったくせに、その後も穴穂は積極的だった。彼はよく宮古を花摘みに誘った。周囲の目もはばからずに彼女の手を引き、飽きず花畑を眺めている。他愛もない話をして、彼はいつも宮古に花を贈った。それから、にこりと微笑む。


 そして、だんだんと、宮古も柔らかく微笑む返すようになっていった。


 そのような優しい情景を、流れゆく川の水面を見つめているような感覚の中で、稚武はぼうっと眺めていた。



 ある朝、穴穂の朝の着替えを手伝いにやってきたのは宮古だった。それだけで穴穂は心の弾む思いがしたのだが、宮古の表情は沈んでいた。


「どうかしたのか、宮古」

「……いいえ」

「そなたに嘘は似合わぬ」


 穴穂は真摯な眼差しで宮古を覗き込んだ。けれど目をそらされて、やっと思い至った。


「そなたが、わたしの妃たちからつまらぬ嫌がらせを受けているという噂を聞いたが……本当だったのか」


 宮古は顔を上げ、何か言おうと口を開いたが、そのまま閉じた。やはり嘘は通じないと考えたのだろう。


「心配するな、わたしが彼女らにきつく言っておこう」

「おやめください」


 ぴしゃりと宮古は言った。


「そのような……いらぬことです。よけいに姫様たちの機嫌を損ねます」

「しかし、あれらがそなたをいたぶっているというのなら、わたしが黙っているわけにはいかないだろう」

「……そうおっしゃるなら、どうぞわたくしをお離しください。お戯れはもう充分でしょう」


 宮古は静かに言った。穴穂は顔色を変える。


「宮古。それは……わたしに望みはないということか」


 彼女はうつむいて答えなかった。


「どうしてもか」


 宮古の両肩に手を置き、必死に目を合わせようとする穴穂に、彼女は突然泣きだした。


「あたしは――わたくしには、お慕いしているおかたがおります」


 身を引き裂かれる思いで穴穂は表情を失った。けれども、やがてそっと訊ねた。


「……それは誰だか、聞いてもいいだろうか」


 すると宮古は弾かれたように穴穂の胸に飛び込み、顔をうずめた。


「高貴なおかたです。とても、わたくしには手の届かない……決して届くはずのないかた。だけど惹かれずにはいられません。素晴らしいかた、愛しいかた……。――どうして……ッ」


 宮古はとうとう打ち明けた。


「どうして、あなたはあたしなんかに声をかけたの。どうして……あなたは皇子だわ。あたしなんか物の数にも入らないような立場のひと。なのにどうして」

「――宮古」


 穴穂はぎゅっと彼女を抱きしめた。


「わたしにはわかる。そなたとわたしは愛し合うために生まれてきた。どのような身に生まれようとも、こうして出会うために」

「皇子……だけどあたしは、怖いの」


 宮古は涙をぬぐった。


「あなたを愛しいと思えば思うほど、捨てられたときのことを考えてしまう。あなたの愛におぼれてしまうの。気まぐれかもしれないのに」

「気まぐれなどではない。どうしたら信じてくれるのだ、そなたは」

「……ずっと、抱きしめていて」


 すすり泣き、宮古は言った。


「それだけで、あたしは強くなれる。他の姫様たちに何を言われようとされようと、いっこうに気にならない。ただ、あなたがこうしていてくれるなら」

「誓う」


 穴穂は彼女の頬を両手で包み、涙に濡れた瞳を見つめた。


「宮古……わたしはそなただけを愛しぬこう。一生そばにいて、誰よりも何よりも大切にする。誓うよ、宮古」

「皇子」


 二人はきつく抱き合い、ゆっくりと唇を重ねた。稚武はたじろいだが、やっと幸福をつかんだ二人の姿に、自分も幸せを感じていた。


「……今度は拳が飛んでこなかったな」


 長い口づけのあと、穴穂はからかうように言い、宮古は「意地悪ですね」と都合が悪そうに頬を赤くした。


「――そうだ」


 穴穂は何か思いついたように、首に下げていた首飾りをはずした。稚武ははっとする思いで、その薄紅色の勾玉を見た。


「そなたに、これを」


 宮古は素直に受け取った。美しい桜色の勾玉に、目を細め、頬を染めて見入る。


「きれい……」

「大陸の、はるか西の方でとれた石だ。幸せを呼ぶ霊力が宿っているという。――これを、そなたに贈るよ。御祝玉みほぎだまにしよう」


 宮古は瞬いて穴穂を見た。穴穂ははにかむように頷く。


「わたしの妻になってほしい、宮古」


 宮古はほのかに瞳を潤ませ、大きく頷いた。その微笑みはさながら女神のようであった。こんなにも美しい女性を、稚武は見たことがなかった。

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