第62話
「では、すぐに戻ろう」
にこにことして
「
瞬いた
「獲物がいる。兎か何かだろうが」
今日、穴穂は兄に誘われて狩に来ていたのだった。帰りがけ、勝手にふらりと隊を抜け出した彼だったが、獲物を手に帰ればおとがめもないだろう。
ぺろりと唇をなめ、穴穂は弓矢を引き絞った。そして一瞬の集中の後に放つと、矢は狙ったところに見事に的中した。けれど狙い通りでなかったのは、茂みから女の悲鳴が上がったことだった。
「きゃっ」
穴穂は仰天して、手綱と弓矢の一式を久慈に放り投げると、すぐさま茂みへと駆け入った。
「すまぬ、まさか人であったとは」
春のみずみずしい草木をかき分け、穴穂は茂みの向こう側へと出た。するとそこには、一人の年若い娘が、足元に突き刺さった矢を凝視して腰を抜かしていた。
どうやらすんでのところで、彼女には当たらなかったらしい。ホッと息をついて、穴穂は涙ぐんでいる少女を覗き込んだ。
「すまなかったな。こんなところに人がいるとは思わなんだ。……怪我はしなかったか」
少女はまだ怯えた目で、それでもこくんと頷いた。
「良かった。――そなた、名は? なぜこのようなところをうろついていたのだ」
はっと正気づいて、少女は頬を赤くして座りなおした。服装からして、穴穂が身分のある者だとわかったのだろう。
彼女はおずおずと答えた。
「名は、
雷に打たれたような衝撃だった。穴穂の中で、稚武は大きく目を見開いた。
(宮古――この子が。この子が、俺の母……)
大王が、今も恋してやまない唯一の女性。
「今日は……その、山菜取りに。仕事ですので」
見ると、それは本当だった。しりもちをついた拍子にひっくり返したらしく、宮古のすぐそばには籠が落ちており、あたりには薇やら蕨やらがぶちまけられていた。宮古もその惨状に気づき、思い切り眉を下げる。
思わず穴穂は笑った。
「宮に仕えている子か。見かけたことのない顔だが、どこのだろう」
この山は宮の裏手にあり、関係者しか立ち入ることができないのだ。仕事というからには、宮に仕える端女なのだろう。
「
少々誇らしげに、宮古は答えた。
「そうか……」
兄上の、と穴穂が喉の奥でつぶやいたのを稚武は感じた。
「あの……あたし、そろそろ戻らなくては」
宮古が急いで山菜を拾い始めたので、穴穂も手伝った。
「あ、すみません」
「いや、わたしが驚かせてしまったのだ。まこと、すまなかった」
宮古は始終恐縮しきっていた。顔を赤くして、散在した山菜をすばやく拾い集めると、ぱっと立ち上がって頭を下げる。
「では、失礼しますっ」
そして回れ右をした拍子に、あまりに勢いが良かったせいだろう、長い髪が茂みにからまって彼女を引き止めた。
「わきゃっ」
気づかずに駆け出してしまった宮古は、思い切り頭を後ろに引かれ、間の抜けた悲鳴を上げる。
穴穂は吹き出して大笑した。
「ははは……待ちなさい、ほどいてあげよう」
「す、すみません」
心底恥ずかしそうに、宮古はさらに真っ赤になっていた。
穴穂が枝にからまった宮古の髪をほどいている間、二人は不思議と黙っていた。けれどそれは温かな沈黙だった。宮古は弱り顔で火照った頬に手を当て、穴穂は目を細めて微笑んでいた。春の森の新鮮で生き生きとした空気が、若い二人を包んでいた。
「……よし、とれた」
穴穂が言うと、宮古はほっとしたように顔を明るくした。
「ありがとうございます」
けれど、すぐまた緊張の面持ちになった。穴穂が彼女の髪を離さなかったのだった。
「宮古」
穴穂が甘い声でささやくと、彼女は赤い顔でうつむき、全身をこわばらせる。穴穂は宮古の真っすぐな黒髪を己の唇へもっていった。そして彼女を抱き寄せ、さらに唇を寄せ――
(うわ)
稚武は目を覆いたい衝動にかられたが、その必要はなかった。唇と唇が触れ合う前に、景気のいい鈍い音が森中に響いた。あえて言うなれば、ゴッと。
「端女だからって軽く見るな!」
宮古は穴穂の横っ面に拳を叩き込み、さらに山菜の籠を投げつけて走り去っていった。
穴穂も稚武も、ただただ呆気にとられて、遠ざかっていく彼女の黒髪を見つめた。頬の痛みが、しだいに熱を帯びてくる。
しばらく茫然としてたたずんで、穴穂は打たれて熱くなった頬にそっと手を当てた。次にこみ上げてきたのは、怒りでなく、笑みだった。穴穂は笑った。こんなに屈託なく笑ったのは初めてだった。
「みっ……皇子? いったい何があったのです。今、すごい怒鳴り声が……」
馬を手近な木につなぎ、茂みを分け入ってきた久慈が見たものは、頬を真っ赤に腫らして笑い転げている穴穂皇子の姿だった。
――このようにして、若き穴穂皇子は、己の唯一の「鞘」との出会いを果たしたのだった。
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