第66話


 宮のはずれの林の中に一人、穴穂皇子あなほのみこは立っていた。身を包むのは重い甲冑。皇太子のための金の鎧に、金の兜。そして腰には、神宝なる大きな大刀たち


「……どうしても、行くのですか」


 振り向くと、宮古がいた。その表情は、今にも雨が降り出しそうだった。


 穴穂は微笑んだ。


「行かねばならない。……今日そなたに会えて、よかった」


 歩み寄り、宮古の頬に触れると、堰を切ったように彼女の瞳から涙があふれ零れた。


「このごろ、そなたはいつも泣いているな。……わたしの代わりに、泣いてくれている」


 宮古は穴穂に抱きついた。けれど冷たい鎧が邪魔をして、彼の温もりに触れることはできなかった。


 さき薙茅皇子かるかやのみことの戦は、穴穂皇子側の圧勝で終わった。あっけなかった。父である大王も臣たちも皆、迷うことなく穴穂についたのだ。


 しかし解決には至らなかった。薙茅はわずかな軍を引き上げ、都落ちして西に向かったのだ。伊予――飛七ひなの流れ着いたその地へと。


 それだけであったなら、大王もわざわざ穴穂に追捕を命じたりはしなかったかもしれない。


「それでも、わたしは兄上のもとへ行く。神器を返していただいて来る」


 あろうことか薙茅は、もともと胸にしていた神器の「玉」と、大巫女の宮に祀ってあった「鏡」を、戦乱に乗じて都から持ち出してしまったのだ。三種の神器は、お互いを呼び合う力が強すぎる。分かたれてはその力が歪み、どのような災厄をもたらかすかわからない――大王はそれを案じているのだった。


 穴穂は宮古の頬を両手で包み込み、濡れた瞳に微笑む。


「……すぐには帰って来られぬやもしれぬ。かの地は今、倶馬曾との戦乱のさなかにあるという。兄上のことがなくても、わたしは西に行かねばならないのだ」

「皇子」


 涙に濡れていっそう赤くなった唇に、柔らかな口づけがあった。優しく慰めるように、そして慰めを乞うように。


 唇を離し、穴穂は言った。


「そなたはわたしの『鞘』だ、宮古」

「……薙茅皇子にとって、飛七がそうであったように?」


 哀しげに眉を下げた宮古を、穴穂は力強く抱きしめた。そして、腰の大刀が狂喜するように鳴り響いているのを感じていた。


 その鳴動を、宮古の中の稚武も聞いた。


(この感じ――そうか。これが「剣」と「鞘」の響きなのか……)


 戦乱の中、薙茅皇子は二つの神器を奪って行った。しかし、なぜか「剣」だけは置いて行ったのだ。


 日嗣であった薙茅が反旗を翻したことで、大王はすぐさまあらたな日嗣を立てた。もちろん、次子の穴穂である。


 先日行われたその「皇の試煉」を、宮古も端女の一人として祭殿の隅の隅から見守っていた。それは、稚武のときとはだいぶ違っていた。祭殿には正装した臣や女官たちがかしずき、正式な儀式の礼をとって、穴穂は「剣」を戴いたのだった。最初矛の形をしていた天叢雲剣は、穴穂が触れた瞬間、見るも見事な輝ける大刀へと転変した。


 そのとき、段上で見守っていた父王は、わずかに目を細めて言った。


『それはお前が持っているといい、穴穂。「剣」がお前を選んだ、新しき日嗣はお前の他にない。その大刀を手に、薙茅を征伐してまいれ。正統な皇を引くのはお前だ』

『……承知いたしました』


 穴穂は大刀をかたわらに、膝をついて叩頭した。


 見守っていた宮古の胸が、大きく跳ねる。稚武には彼女の内なる声が聞こえるようだった。


 宮古は決して喜んではいなかった。胸に渦巻くのは不安だ。愛しい人がますます遠くなっていくことへの、そして、彼の手の黒々と輝く大刀への。言いようのない、不気味な予感。


 その胸をかき回すような、嫌な声があった。


『大王、ご安心召されよ。産声を上げたばかりの日嗣の皇子が明日死のうと、まだわたくしが残っていますからね』


 日下皇子くさかのみこの声だった。まだ二十なかばの、大王の弟である。穴穂には叔父にあたる人物だ。


 縁起でもないことを口走った彼を、キッと宮古は睨みつけた。同じ視点にいる稚武も同様だった。


 稚武は、直接日下皇子に会ったことはない。なぜなら彼はこの後、征西から凱旋した穴穂に暗殺を企て、返り討ちにあった人物なのだ。きっと今も、自分が日嗣になれなかったことに、内心腸を煮えくり返しているに違いない。皮肉は負け惜しみだ。


(ああいうやつが、他にもたくさんいるんだろうな……)


 稚武はふと、穴穂が救いのない孤独の淵に立たされているような気がした。兄と敵対し、混乱した都の中で日嗣に立った穴穂皇子。彼を支援する臣もいれば、当然日下皇子のような人物につく者もいるだろう。穴穂はこれから、兄だけでなく、そういった連中とも戦わなければいけないのだ。その勝利が、さらなる孤独を招くのだとしても――



 ようやく、穴穂は宮古を抱く手の力を緩めた。そして、彼女のまつげに口づける。


「……泣かないでくれ、宮古。そなたに泣いてほしくない。どうか笑ってほしい」


 言う穴穂は、微笑みながら哀しんでいた。宮古は自分がよけいに彼を哀しませているのだと気づき、慌てて笑おうとした。だが、どうしても素直な笑みにはならなかった。


 今日、穴穂は行ってしまうのだ。兄と、そして倶馬曾と戦うために、遥か西へ。


「……どうか、ご無事で……」


 やはり、涙をこらえることはできなかった。

 穴穂は苦笑し、宮古の胸元の勾玉――彼が贈った薄紅色の御祝玉みほぎだまに口づけた。そしてもう一度、唇を重ねる。


「そなたもどうか、元気で」


 そのとき、林の向こうから穴穂を呼ぶ声がした。どうやら、出発前に急に姿を消した穴穂皇子を、久慈たちが血相を変えて探し回っているらしい。


「……そろそろ、時間のようだ」


 宮古の頬の涙をぬぐってやり、穴穂は微笑んだ。


「わたしが帰ってきたときには、いつものような笑みで迎えてほしい。約束してくれ。そうすればわたしは、何が何でも生きて帰ってくる。そなたのもとへ」

「……はい」


 宮古は大きく頷いた。うん、と穴穂も嬉しそうに頷き返す。


「では、行って来るよ」


 宮古を見つめたまま何歩か後ずさり、手を振って、穴穂は行ってしまった。探し人の姿を見つけた久慈の大声が聞こえる。そしてそれを笑って受け流す、愛しい彼の声。


皇子みこ……」


 宮古はその場で泣き崩れた。その胸が哀しみであふれているのを、稚武は自分の痛みとして感じた。同時に、穴穂の痛みもわかるような気がした。


 これが最後だった。やがて、稚武の視界は桜色の靄の中に溶けた。耳にはまだ、遠くに宮古の泣き声が聞こえる。


(どうしてなんだ)


 やるせないような怒りに突き動かされ、稚武は宮古に向かって怒鳴った。


(そんなに哀しいなら、なんであんたは都で待ってなかったんだ。穴穂皇子を置き去りにして、泊瀬はつせに帰ってきたんだ。待っていると約束したくせに……!)


 そうなのだ。この後、宮古が穴穂と再会することはない。宮古はこのまま誰にも告げずに都を去り、泊瀬で稚武を生むのだ。ひっそりと逃げて、隠すように。


(大王はどんなに嘆いただろう――宮古のいない都に帰って)


 そうして孤独の中で、笑い方を忘れてしまったのか。宮古の前では常に穏やかに笑っていた、あの人が。


(宮古、教えてくれ。なんで俺は泊瀬で生まれたんだ。なんであんたは大王のもとを去ったんだ。あの人が孤独になることを知っていて……俺やあんたがいたら、少しは大王の救いになったに違いないのに)


 宮古、と稚武は何度も叫んだ。けれど答えはなく、宮古の泣き声はどんどん遠ざかっていった。


(宮古――) 


 怒りで熱くなっている稚武の意識に、何かひやっとしたものが触れた。


(――あ……)


 そこで稚武は、やっと気づいた。自分は今、目をつぶっている。体中が熱を上げて、熱い。けれど……何かひんやりとした優しいものが、手に触れている。


 ――リン。


 聞き覚えのある音に、ぴく、と稚武の指先が跳ねる。


 ――リン。


(剣……が、鳴ってる……)


 ぼんやりと思っているうちに、今度は稚武の額に冷たいものが触れた。少し遠慮がちな、柔らかな手。


 リンッ、と喜ぶように剣が鳴る。そう、喜んでいるのだ。まるで、宮古を抱きしめた穴穂の大刀のように。


 額に触れる手。稚武の手を包む、柔らかく心地よい手。――以前にも一度、こうして稚武を癒してくれた、彼女の手。


 今度こそ逃がさないように、稚武はその手をぎゅっと握った。前と同じに、彼女は驚いたようだったが、改めて握り返してきた。


 すぅ……と熱がひき、頭にまとわりついていた靄が晴れていく。


「『鞘』……?」


 絶対離すもんか、といっそう彼女の手を強く握ってから、稚武は目を開けた。かすむ視界に最初に見えたのは、暗い洞窟の中に踊る焚火の影。そして、それにぼんやりと照らしだされる少女。


 「鞘」がちゃんとここにいることに驚きながら、もっとよく見ようと稚武は目を凝らした。


「『鞘』……」

「なに?」


 仰天したことに、「鞘」は口をきいた。


「気がついたの、稚武。何か欲しいの?」


 稚武の額に置いていた手をどかし、心配そうに眉を下げて覗き込んできたのは、咲耶だった。


「……咲耶」


 ぽつりと、稚武はその名をつぶやいた。


 うん、なに、と咲耶は真剣な眼差しで瞬きする。


 その顔を見ていて、我知らず稚武の口元が緩んだ。目を細め、微笑んだ。


「……また、助けてくれたんだな」

「え?」


 稚武の声はひどくかすれていたが、耳を澄ましていた咲耶にはきっと聞こえただろう。


「ありがとな……」


 なんだか安心したような、気が抜けたような心地で、稚武は目を閉じた。そしてそのまま、深いまどろみの淵へと溶けてしまった。

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