第61話
山賊たちが追いかけてこないのを知って、稚武はやっと足を緩めた。つもりはじめた雪の上に咲耶を下ろすと、さすがに息が切れて、両手をついて座り込む。
「稚武、大丈夫?」
咲耶は眉を曇らせて彼を覗き込んだ。
「ごめんなさい、無理をさせたわ」
「ああ……火事場の馬鹿力ってやつだな。自分でもびっくりだ。もう一度はできない」
何とか息を落ち着けてから、稚武は咲耶を見た。
「あいつらに何かされたか」
「いいえ、何も。何もされていないわ」
「そうか」
気が抜けたように稚武は笑った。
「なら……良かった……」
言い終わるかもわからないうちに、稚武は目を閉じて倒れこんだ。突然のことに咲耶は目を見張り、うろたえながら彼をゆすった。
「わ、稚武? 稚武!」
触れてみると、彼は全身から熱を放っていた。とくに額のあたりは汗ばみ、頬は赤く火照って、息も苦しそうにしている。
(どうして……なんで突然、こんな)
はっとして口にする。
「――毒」
まさかさっきの矢に、毒が。
真相はわからないが、とにかくこのまま放っておいてはいけない。
(どこか……火を起こせて、休ませてあげられるところへ)
咲耶は急いで稚武の腕を肩に回して担ぎ、ずるずると引きずりながら歩いた。
しかし、小柄な咲耶にとって、稚武を担ぎながら歩くことは容易ではなかった。すぐに息が上がって、足元がふらつきはじめた。さらに吹雪いてきた雪が足を阻み、視界を遮る。山を下って人里に下りた方が利口だったかもしれないが、そちらにはまだあの山賊たちがうろついているに違いない。前に進むしかなかった。
どこに行けばいいのか。真白い、雪ばかりの山道をどこまで行けば、稚武を助けられるのか。答えはなかった。いくら念じても祈っても、右手の「鏡」の痣はなんの光も放たない。
(どうして……こんな肝心なときに。どうすればいいの、どうしたら……!)
それでも、咲耶は歩みを止めなかった。必死に涙を呑み込んで、吹雪の中をひたすら進んだ。ここでくじけたら、稚武も自分も凍え死んでしまう。自分を助けてくれたせいで毒矢を受けた稚武を、死なせてしまう――
諦めることだけは、許されなかった。
無心に雪山を進み続けた咲耶であったが、ついに意識が薄れてきた。足の感覚はとうにない。白い闇へ呑みこまれていくような錯覚を覚え、わずかに残った気力だけで歩んでいた。
(寒い……)
背の稚武の体から熱は伝わってくるが、それもやがてわからなくなってきていた。朦朧とした意識の中、諦めるもんかと歯を喰いしばる。しかし、自分でも気づかないうちに、とうとう咲耶は気を失った。
よろめいた咲耶と一緒に倒れこんだ稚武は、その衝撃でわずかに正気を得た。毒からくる熱で混濁した意識を抱え、ゆるゆると瞼を持ち上げる。
視界は薄暗い白一色だった。ところどころに寂しい枯木の影が見えたが、冷たく吹きつける雪に、何もかも白く覆われていた。
稚武はぼんやりと、感情を忘れてその景色を見つめていた。自分が生と死の狭間にあることとか、神器のこと、国や呪いのことさえ、頭になかった。ただ、この景色と同化してしまえたらどんなに楽だろうと思っていた。
望んだとおり、稚武の意識は再び白くかすんできた。けれども、思い切って手放すことはできなかった。手放せばこれきりだとどこかで知っており、それを拒む自分がいた。
引きずりこもうと襲いかかってくる眠気に耐えながら、稚武はじっと目を開いていた。すると、どれくらいの間そうしていたのか、いつしか稚武は、薄暗い白の景色の中に光を見出していた。曇天の空よりも、降りてくる雪よりも真白く、混じりけのない澄んだ光。わずかに顔を歪め、稚武は目を凝らした。
輝く真白の光は少しずつ膨らみ、形を得ると、やがて近づいてきた。
その正体を知り、稚武は力なく微笑みかけた。
「……よう」
久しぶりだな。
ほとんど声にはならなかった。けれど、やってきたケモノ――白銀の牝鹿には、きっと届いただろう。
白鹿は、その毛並みと対照的な漆黒の瞳で稚武を見つめた。
「……今度は、何のために来たんだ?」
白鹿は答えず、しばらくして稚武に背を向けた。そして何歩か森の奥に進むと、立ち止まって振り返る。じっと――稚武を待っているようだった。
(今度はどこへ連れて行くつもりだ……いよいよ
自嘲するように稚武は考えた。しかし、飽きもせず見つめてくる白鹿の瞳に、とうとう思い切りをつけて立ち上がった。
「……くそっ」
かたわらに倒れこんでいる咲耶を担ぎ上げ、口で大きく息をしながら白鹿のもとへ向かう。稚武がやってきたのを見て、白鹿はさらに何歩か前進した。そしてまた、彼が追いついてくるのをじっと待つ。
そのやりとりが途方もなく繰り返され、あたりがすっかり暗くなってきたころに、稚武は、白鹿が洞窟の入り口に立っているのを見た。
やっとその穴にたどりつき、入り口からいくらもしないところで、稚武は力尽きて座り込んだ。咲耶を横に寝かせ、冷え切った壁を背にして息をつく。
疲れ果てて目をつぶっていると、温かな気配に起こされた。見ると、白鹿が目の前までやってきていて、稚武の胸元の御祝玉に鼻先を押しつけていた。
「なんだよ……食うなよ?」
白鹿の温もりは心地よく、稚武はうとうととしてその毛並みを撫でた。そして、再び瞼を下ろしかけたときだった。突然、彼の胸の薄紅の勾玉が強烈な光を放った。
「な--」
目を突き刺すような、淡い紅の光。それが視界を覆ったかと思うと、光はかけらとなって降りそそいできた。
(桜吹雪みたいだ……)
きれいだな、と思って稚武は眺めていた。そうして、本当に自分が桜吹雪を見ていることにぎょっとした。
気がつくと、稚武は明るい森の中に立っていた。見るからにうららかな春の森だ。桜が咲き乱れ、足元には柔らかな若草が生えそろい、空はうっすらと白んだ青色をしている。鼻をくすぐる甘い花の匂い。
さらに驚いたことに、稚武は整った衣服に身を包み、弓と矢筒を背に、馬を引いていた。
(あ……あれ? なんだ、これ)
声に出して言ったつもりが、体がちっともいうことを聞かなかった。ますます混乱する。こんなことは、夢でさえ覚えのない事態だった。
「
呼ばれて、稚武は振り返った。やってきたのは久慈だった――思わず稚武は目を疑った。こんなところに久慈がいるはずがない。だが、そんなことよりも問題なのは、目の前で息を切らせている久慈が、とんでもなく若いということだった。まだ十代の半ばほどだろう。けれど間違いなく、彼は久慈だった。
「こんなところにおいででしたか、皇子。なぜ隊列を離れ、お一人で?」
「桜を眺めていたのだ」
稚武の口は勝手に答えていた。しかしそれは、稚武の声ではなかった。かすかに聞き覚えのある……誰であったろう。
久慈は顔をしかめた。
「また、そのような勝手な……
「兄上が?」
顔は微笑んで聞き返しながら、心中の稚武は愕然としていた。彼はやっと気づいたのだった。自分が、
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