第39話


 馬に乗って西の山に入った風羽矢と久慈くじの一行は、しばらく乗馬を楽しむことにした。久慈が連れてきた部下は十数人ほど、皆たくましい体つきの猛者ぞろいで、都にいたころから風羽矢にもなじみのある顔ぶれであった。


 山の奥まで入る間、風羽矢と久慈は取り留めのないお喋りをしていた。といっても、久慈はいつもより口数が少なく、風羽矢が一方的に話している時間の方が長かった。だが、それが気にならないほど、風羽矢には師に話したいことがたくさんあった。


 熟田津にきたつで出会った人々のこと、海の大きな魚のこと、漁に出たけれど貝を開くぐらいしか仕事がなかったこと、愛比売神えひめがみのこと。


 そして、風羽矢はこの地で生まれたということ。聞いた久慈は無言で目を見張り、はにかむように笑う風羽矢を見つめていた。


「ねぇ、師匠は誰か知りませんか。十七年位前に、伊予に流された女の人。師匠はずっと都にいたんでしょう?」

「――……さぁ……、十何年前というと、もう昔のことですね。わたしは裁判に関わる身分のものではありませんし、思い当たる人はありませんが」

「そうですか……」


 風羽矢は目に見えてがっかりした。


「でも、都に戻れば少しは記録が残っていますよね。調べてみようかな」


 久慈はこれに答えなかった。しだいに赤みを増していく空を仰ぎ、手綱を引いて馬を西に向かわせる。


「さぁ、だいぶ奥まで来ました。そろそろ狩りを始めましょう。帰るころには真っ暗になってしまう」

「そうですね。一頭も持って帰らなかったら、みんなががっかりする。松山にも馬鹿にされるし」


 言って風羽矢は馬を止めた。久慈は後ろの部下たちを振り向きながら指示する。


「では、風羽矢はここから西の果てまで徒歩で進んでください。馬では獣たちに気づかれますからね。わたしどもが周りを囲むようにして獲物を追い立てますから、あなたは逃げてきたものを仕留めてください」

「わかりました。師匠にしては珍しいやり方ですね」


 久慈は薄く笑った。そして西を指差す。


「海から見たとき、この先に突き出た崖がありました。獲物を追い詰めるにはよい地点でしょう。そこを目指して進んでください」

「じゃあ、着いたら合図に鳴矢を飛ばします。楽しみだな」


 風羽矢は馬を下りて手綱を久慈に預けると、素直に西に向かって駆け出した。狩りはすばやさが命であるから、重い甲冑などは一切つけていない。


 そのような風羽矢の後ろ姿を、久慈は冷たい沈黙で見送った。



 稚武たちが向かった浴場は、風羽矢や久慈が狩りをしている山の麓にあった。天山からはずいぶん離れているが、もとは同じ湯らしい。


 石を積み上げて造られた湯船のなかには、のんびりと猿の親子がつかっていた。


「何だ、先客がいたのか」


 残念がるように言いながら、稚武はかまう様子もなく衣を脱ぎ捨てようとする。とたんに紅科くしなが悲鳴を上げて殴った。


「なんで女の前でいきなり脱ぎだすのよ、あんたって子は」

「いってぇ~。いいだろ、べつに。減るもんじゃあるまいし」

「馬鹿言いなさい」


 ちぇ、と殴られた頭をさすりながら、稚武はひねくれたようにぶつぶつと文句をたれた。


 そうしているうちに、あれ、と思う。こんなとき、普段なら容赦ない桐生の拳が脳天に直撃するのだが。


 不思議に思って見やると、桐生はぼうっと、心ここにあらずというさまでつっ立っていた。


「桐生兄、オーイ?」


 ふりふり、と桐生の目の前で手のひらを振る。そこでやっと桐生はハッと正気づいたようだった。


「あ……ああ、どうした」

「どうしたじゃないだろ、桐生兄こそ。何か考え事?」

「いや――」


 何でもない、と彼の唇は空振りした。取りつくろっていた笑顔が、鉄が冷えるように沈んでいく。思いつめた目で、兄は稚武を見つめた。

 稚武は首をかしげる。


「なに」

「……稚武、あのな…………いや」

「なんだよ?」


 煮え切らない桐生の態度に、稚武はにわかに苛立つ。


 ――迷うてか。


 この世のものとは思えない響きを耳奥で聞いて、紅科ははっと息を呑んだ。慌てて腕の中の宇受を覗き込むと、神の依り代となる赤ん坊は無機質な瞳で空を見ていた。


「愛比売さま」


 思わず叫ぶと、少年たちは彼女を振り返った。状況のつかめない桐生は怪訝そうに眉をひそめる。


「エヒメさま? 一体何を言っているんだ?」

「この赤ん坊には、伊予の国つ神さまが降りるんだよ。紅科は託宣を伝える巫女なんだ」


 へぇ、と桐生はまだ不審の残る面持ちで宇受をのぞく。すると宝玉のような瞳に出会い、思わず気圧された。


「紅科、愛比売さまが何かおっしゃったのか」


 のん気に訊ねた稚武に、紅科は厳しく「黙って」と返した。そして、聞き漏らさないように耳を澄ませながら、愛比売の言葉を口にした。


「『迷うてか、泊瀬はつせより来たる男子おのこ。なにゆえ迷う』……」


 稚武はきょとんとしたが、桐生は息を呑んだ。


「『お前は知っているのだろうに。己の守るべきものと、正義がどこにあるかを。秋津の大巫女めが言うた託宣は偽りにあらず。お前の考えは真実を射ている』」

「何のことだ?」


 ちんぷんかんぷんな稚武は隣の兄に問う。だが、桐生はおそろしく青ざめていた。


「桐生兄――」

「嘘だ!」


 突然桐生は激昂し、半覚醒状態にある宇受に怒鳴りつけた。


「あなたが神だというなら嘘だといってくれ。……違う……っ、あんなのは嘘だ」


 うめくように言いながら、桐生は崩れ落ちた。慌てて稚武もしゃがみこむ。


「どうしたんだよ、桐生兄。大巫女の託宣って何だ。俺たちが軍を離れている間に、何かあったのか」

「稚武……稚武」


 桐生は泣き出しそうになっていた。この兄の泣いている姿など、稚武は記憶に無かった。


「『黙っていようが言霊ことだまにしようが、事実は変えられぬ。呪われし神器は倭を滅ぼす。神器を止められるのは神器のみ。……あの人間どもの愚かなことよ。早くせねば手遅れになるぞ。愚か者が何人死のうが、我はかまわぬがな』」


 神器という言葉に稚武は顔色を変えた。


「愛比売さま、呪われた鏡と玉のことを知っているんですか」

「『知っているとも。だが、秋津の大巫女は一つだけ誤ったようだ。呪いを受け、禍を呼ぶのは玉のみ。鏡はその本性に守られ、呪いを弾いた。――天つ神の子、お前は先日、尋ねていたな。玉と鏡はどこにあるのかと。答えてやろう。鏡は倶馬曾クマソにある。そして、呪われし禍の玉は』―」


 そこで声は途切れた。いや、途切れたのは紅科の声だけであって、愛比売ははっきりと告げていた。だが紅科は声の出し方を忘れていた。それどころか呼吸の仕方も忘れ、すべての感覚を取り落としていた。気を失ってさえいたかもしれなかった。


 ――どうした、湯守り。我の「口」よ。おのが務めを忘れてか。


 ぼんやりと愛比売の声が意識の裏を滑っていく。


「紅科?」


 呼ばれて、紅科はゆっくりと素直に稚武を見た。その隣では桐生が声もなく唸って、深くうなだれている。


 感情を取り戻せないまま、巫女はとうとう、国つ姫神・愛比売の託宣を告げた。


    

 風羽矢が久慈に言われたとおりに真っすぐ西に進み、ようやく森を出ると、そこはもう海に切りだった崖だった。


 風羽矢の足は反射的に止まった。唐突に現われた、紅の光景に。それは鮮烈な夕焼けだった。太陽が真っ赤な口を開いて小島を呑み込みながら、水平線に下りていく。曇天にどす黒い闇を呼び込む。


(血の色だ)


これは人の血の色だ、と風羽矢は思った。初めて海を見た、あの難波津の夕陽と同じ光景だった。遥か下ではうめくように波が岩崖に打ち寄せて砕けている。


 風羽矢はよろめいて一歩あとずさった。この不吉な赤い光景と、崖の高さに目が眩んだ。


 その時、風の裂かれる音を聞いた。それから、何か重いものがドッと背中にぶつかった。


 なんだろう、と風羽矢は振り向こうとした。だが振り向けなかった。一瞬の空白の後に衝撃は何発も続き、鎧を着けていない背中に突き刺さっていた。――矢だった。


「え……?」


 いつの間にか膝は崩れて地についていた。両手で何とか体を支え、風羽矢は瞠目する眸を震わせながら背後の森を見た。


 そこには久慈がいた。見知った顔の秋津兵たちがいた。だが、彼らの表情には見覚えがなかった。冷たい――凍りついた、敵を見る目。親しさのかけらもない目で、彼らは風羽矢を見ていた。


「師、匠……?」


 声だけでなく、全身が震えていた。久慈は手に弓を持ち、他の兵士たちはさらに次の矢を番えて構えていた。すでに背に何本もの矢を受けた、丸腰の風羽矢に向かって。


 めまいがした。血の滴る背中が火傷したように熱い。


 久慈は無表情で口を開いた。


「……まだ死なんか。やはり、お前は化け物だ。大王おおきみのおっしゃったとおりだ」


 風羽矢は耳を疑った。ありえないことが起きていた。久慈の、あの優しく丁寧な口調はどこへ消えたのだ? 宮の下女にさえ高圧的な物言いのできない温厚な彼は、どこへ?


「だが、もう動けまい。やはり大泊瀬皇子のお手をわずらわせるまでもなかったな」

「師匠」


 風羽矢はわけもわからず彼を呼んだ。だが久慈の目が温まることはなかった。そこにあるのは青白い殺意だけだ。


 どうして、とわななく唇でつぶやいた。喉がかすれてほとんど声にはならなかった。


 久慈は鋼鉄のような目に少年を映した。


「何も知らなかったのか、お前は。本当に? ――そんなはずはあるまい。つまらん芝居はもうよせ。いくらあがこうとも、お前は今、ここで死ぬ」

「なぜです!」


 じわじわと絶望が近づいてくるのを感じた。まるで、白い衣がゆっくりと血に染められていくように。師匠と呼んで親しんでいたこの男が、見知らぬ獣のように見えた。飢え、鋭い歯の間からよだれをたらし、よどんだ目で風羽矢を襲おうとする野獣――


 ふん、と久慈は鼻を鳴らして風羽矢に歩み寄った。そして刃の切っ先のような目で見下ろす。


「玉を隠し持っているだろう、お前は」

「……玉……?」


 崖の下から風が吹き上げ、風羽矢の背の矢を揺らした。風羽矢はうめき、こぶしを握って耐えた。


「とぼけるな。皇子やお前と同じ船に乗っていた者が、みな見たと言っているのだ。お前の胸の玉が、妖しく赤い光を放ったと。それが嵐を呼び、海神の怪物を呼び出したのだと」

「ち……違います!」


 風羽矢は青ざめた。だが久慈の目はさらに冷えていくだけだった。


「今さら何を言うか。お前はその玉を、三年以上もわたしや大王の目から隠し通してきたというのに」

「違う……っ。僕のはただの御祝玉みほぎだまです! 僕を生んだ母と父が唯一くれた―」

「そうだ。お前の父と母が呪う、大王家の御祝玉。神器の八尺瓊勾玉やさかにのまがたまだ」


 今度こそ、これは夢だと思った。血のような夕焼けに染まった世界など見たことがない。憎しみの目をした久慈など見たことがない。これは、悪夢だ。


「大王はお調べになっておられた。お前の素性をな。そして、全てをお知りになった」

「……何、を」


 久慈は口の端を歪めて笑った。冷酷な笑みだった。


「お前が、大王の亡兄・薙茅皇子かるかやのみこの子であることをだ。お前は汚らわしい、呪われた子なのだよ。禁忌の子だ。卑しむべき子。生まれてくるべきではなかった子だ」


 風羽矢は息ができなかった。そのうちに耳が麻痺し、ただ呆然として久慈を見つめた。風羽矢の瞳に映るその獣は、汚い牙を見せながら続ける。


「お前は秋津を滅ぼすために生まれたのだろう。禍め。おぞましい、禍々しい子よ。いたいけな面をして、よくも騙してくれたものだ。まんまと皇子にとりいって……まさかこの久慈の懐で温めてやっていたとはな。しかし、大巫女さまによれば、お前はまだ神器の主として目覚めていないと言う。ならば大王に代わり、今ここでわたしが殺してやる」

「……違う……何かの間違いだ。僕は禍なんかじゃない」


 風羽矢は弱々しい呼吸の中でもはっきりと言った。久慈は一つ瞬いた。 


「……ああ。そうかもしれない。お前は本当は禍の子でなく、ただの男子かもしれない」

「師匠」


 風羽矢は顔を明るくしかけたが、久慈は笑んだまま彼を凍てつかせた。


「だが、可能性の話など必要ない。お前は禍の子かもしれんと大王がお疑いになっておられる。それだけで、もはやお前に生きる資格はないのだ」


 ごうと寒風が吹き荒ぶ。黒ずんだ陽が沈む。風羽矢は手の先が冷たくなっているのを感じた。寒い。だが背中は焼けたように熱い。そして、それとは違うところに新たな熱が生まれようとしている。胸だ。……嵐が来る――


「あのかたの憂いは、この久慈がお断ちする。どのようなわずかな可能性のものでも、全て」


 心臓がドクンと不気味に跳ねた。


「僕は……僕は禍じゃない」


 風羽矢がうめくように繰り返しても、久慈の目に希望が灯ることはなかった。風羽矢は失われた血と痛みのせいで眩暈を起こし、とうとう倒れ伏した。


 だが暗く歪む視界の中でも、目を凝らして必死に久慈に呼びかけた。


「違う……違う! 僕は……っ」

「そうか。だが、お前はここで死ぬ」


 無機質な響きだった。


 風羽矢の胸がつかえたように痛んだ。――久慈はかけらも自分のことなど好いていてくれなかった。彼が見守っていたのは大王であり、稚武だった。


 風羽矢に稽古をつけてくれたのも、励ましてくれたのも、全て稚武のため。若い皇子のために役に立つから。風羽矢の面倒を見てくれたのは思いやりではなく、乳兄弟という存在に利益があったからだった。決して風羽矢自身のためではなかった――分かっていたはずなのに、風羽矢にとってそれは裏切りだった。


 久慈は風羽矢の髪を無造作に掴み、痛みに歪む顔を覗き込んだ。


「……ふむ、こうして改めて見ると、お前は確かに母に似ているよ。汚らわしく、みだらなあの女……」


 風羽矢は目を剥いた。


「母を、僕の母を知っているのか」


 ――『彼女は逃げていたわ。多分、秋津の兵士から』


「……あなたか」


 光が差したように紅科の言葉を思い出し、風羽矢は久慈を凝視した。


「あなたが、母を、殺したのか」


 うつろな彼の言葉に、久慈は目を細めるだけだった。一変して激情を得た風羽矢は声の限りに叫ぶ。


「母をどうした、父をどうした、師匠!」

「ふん」


 ドッと風羽矢の頭を地に叩きつけ、久慈は彼との間に距離をとった。それでも風羽矢は我を忘れて叫び続ける。


「母を殺したのは……父を殺したのは誰だ。あんたか、大王か!」

「奴らは勝手に死んだのだ。自らの罪も省みず、正義のもとにある大王を怨みながらな。まったく、お門違いもいいところだ。お前も、怨むならお前を生んだ父母を怨め。お前のようなおぞましい子を生んだ愚か者をな」


 薙茅皇子は、日嗣の地位を弟に追われ、伊予で自害した――その弟の名は、穴穂皇子。今上きんじょうの大王。


 風羽矢は奥歯を噛んだ。それは痛みのせいだけではなかった。哀しみとも少し違う、もっとどろついた感情が胸にうごめく。


 久慈はもはや、自分を喰らおうとする獣だ。


「――……稚武……」


 風羽矢は自分が泣いていることにも気づかずに、乞うようにその名を叫んだ。


「稚武、稚武!」


 それは助けを求める悲鳴だった。久慈は耳障りというふうに顔をしかめる。


「お前なんぞが軽々しく皇子の御名を口にするな。汚らわしい」


 だが風羽矢は狂ったように稚武の名を呼び続けた。


「皇子はいらっしゃらん。お前とは二度とお会いにならない」

「嘘だ!」


 陽は完全に落ち、世界は闇に覆われようとしていた。崖の下の波が怒るようになく。


 久慈はわずかに目を細めた。


「奇縁だが、これもせめてもの情けか。ここはかつてお前の父と母が身を投げた崖だ。さぁ、お前もここで死ね」


 無情に言いはなち、後ろの兵士たちに合図する。


「これはまがつ災厄の主だ。射よ!」


 びょうっと弦が鳴った瞬間、風羽矢の中で何かが割れて砕けた。それは粉々になり、一瞬のうちに濁流となって風羽矢を呑み込んだ。風羽矢は今まで、こんなにも誰かから憎まれたことはなかった。憎んだこともなかった。


 激流の中で風羽矢は叫んだ。それは憤怒の声であり、捨てられた者の悲鳴であり、そして産声だった。胸の熱は弾け、そこに下げていた御祝玉――神器の『玉』が輝く。裂かれた天に黒雲が生まれ、赤い稲妻が閃いた。

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