第38話
その晩、稚武はまた夢を見た。いつもの嵐の海の夢だ。ただ一つ今までと違ったのは、男の腕に抱かれた女が顔を上げたことだった。
荒れ狂う風に髪を躍らせ、ゆっくりと頭をもたげる。憂いを帯びたまつげが震え、目蓋が持ち上がる。あらわれた黒い瞳が、稚武をとらえた。
女の顔は、風羽矢のものだった――。
(風羽矢)
叫んで腕を伸ばしたと同時に、稚武ははっと目を覚ました。
みずみずしい朝の光。鳥の声音。いつものように、寝台の上に横たわっている自分。
(……夢か)
額の嫌な汗をふきながら、稚武は隣のふとんを見やった。風羽矢はまだ安らかに眠っている。ほっとして息をついた。
(やっぱり酒はよくない。おかしな夢ばかりを見る……)
二日酔いする体質じゃないのがせめてもの救いだ、と稚武は苦い気持ちで考えた。
普段と変わらない朝餉の途中、里の漁師が血相を変えて紅科の屋形に飛び込んできた。
「た、大変ですぜ。港の方に、秋津の軍艦が押し寄せてきやした」
少年たちはむせこみ、慌てて残りをかき込むと、表へ飛び出した。
港へ続く道には里の衆が詰めかけていた。彼らは口々に言う。
「そりゃあすごい数だそうよ」
「もしや、
「ありえんことではない。ほかの
「おう、
「安心してくれ」
稚武は大きく呼びかけた。一気に注目される。
「俺がちゃんと説明してくる。決してこの里を攻めさせやしないから」
皇子、皇子さま、と人々は拝むように稚武を見つめた。
「行こう、風羽矢」
きりっとした皇子の口調で言う稚武に、風羽矢は頷く。そして二人は港に向かって堂々と歩き出した。
後ろで見送る紅科と松山は、不安を隠せない。
「大丈夫かしら……」
「あやつらを信じるしかありますまい。なに、稚武は皇子なのですから、きっとうまく言ってくれるでしょう」
いかめしい面ながらも松山は言った。しかし紅科の表情は晴れない。
「そうね。……けれど、どうしてかしら。胸騒ぎがするのよ。嵐の前のような」
「
いいえ、と紅科は首を振った。
「わからない……情けないわね、ごめんなさい。けれど、港のほうからよどんだ気を感じるの。敵意を秘めているような、くぐもった刃……」
朝日はまぶしい。今日もよく晴れそうだ。
「……気のせいだといいのだけれど」
大きな軍艦から小船を下ろし、使者らしき兵士たちが港に上がってきた。甲冑に身を包んだまま、おびえる漁師や海女たち向かって朗々と告げる。
「我らは
「あれ、
騒然とする船着場に、なんとも気楽な声が上がった。やってきて目を丸くしたのは稚武、そして風羽矢だった。
「皇子ぉっ」
あごが外れるくらいの勢いで磯城は叫んだ。目玉が飛び出して転がり落ちそうだ。駆け寄ろうとして転びながら、磯城は稚武の膝元に取りすがった。
「皇子、皇子ですね。ああ、本物の我らが
何を答える間もなく磯城はわんわんと泣き出した。呆気にとられている少年たちに、磯城隊長の後ろに控えた兵士の中から一人、進み出て来る者があった。
「稚武、風羽矢。ようやく会えた」
「
今度はこちらも驚いて叫んだ。かぶとをかぶったままであったから一目では気づかなかったが、それは二人の兄・桐生であった。
すぐさま風羽矢が飛びついた。
「桐生兄……! 良かった、本当に無事だったんだね」
「ああ、お前たちも、元気そうで良かった」
言い、桐生は微笑んで風羽矢の頭を撫でた。風羽矢も明るく笑ったが、ふいに、桐生の笑みが薄青く陰ったように見えた。
「桐生兄?」
「あああっ、磯城、いい加減に離しやがれっ」
稚武もすぐに桐生に駆け寄りたかったのだが、なにぶん足にまとわりつく磯城が邪魔であった。たまらず怒鳴る。
そのような喧騒を見守ってか、軍艦から小船が次々に降りてきた。その中から最初にやってきたのは
「皇子」
彼は稚武の姿を認めるなり、小船から飛び降りて浅瀬を走ってやってきた。そしてなりふりかまわず稚武を抱きすくめる。
「皇子……! これは夢でしょうか、こうしてまた御身に触れることができようとは」
「大げさだな、師匠。俺も風羽矢も無事だよ」
久慈は少し身を離し、稚武を覗き込む。そして眉を曇らせた。
「迎えが遅くなりましたこと、どうぞお許し下さい。皇子を失い、探す術も無いわたくしどもは、一度都に戻ったのです。そして大巫女様の霊眼でもって皇子がこの地に捕らわれていることを知り、急いでやってきたしだいであります。……聞けば、ここは倶馬曾と通じている者も少なくないという『まつらわぬ者』の里とか。そのようなところにおいでとは、気が気ではありませんでした」
ムッと稚武は気色ばんだ。
「熟田津の人たちにはよくしてもらった。ここの浜辺に流れ着いてから、ずっと世話になったんだ。師匠たちに、ここのみんなを悪く言ってほしくない」
「皇子」
久慈は目を見張り、まじまじと稚武を見つめた。
「それに、熟田津のみんなは秋津に味方して戦ってくれると言っている。これからは仲間だ。将軍である師匠がそんなふうに言ってはいけない」
「……分かりました」
久慈は落ち着きを取り戻し、背筋を伸ばして立ち上がる。その時、じっと見守っていた松山が進み出た。
「……秋津の名のある将とお見受けします。わたしの名は松山、この熟田津で頭領をしている者です。我らに大王に背く心はありません。皇子につき、ともに戦いたいと思っております」
彼が膝をつくと、一斉に周りの里の衆も額ずいた。
久慈は驚いたが、松山の手の内にある力をみとめ、いつも以上にかしこまって言った。
「わたしは大王より秋津全軍を預かっている久慈という者です。よろしければ、この地で皇子がどのように過ごされていたか詳しくお聞きしたい。しばらくの逗留を許していただけますか」
「歓迎いたします」
松山は顔を上げて微笑んだ。
「急いで男衆にも戦支度を整えさせましょう。それまでの間、熟田津の湯にでもゆっくりとつかり、兵士方の疲れを癒されませ」
そのあと、松山は思い出して久慈に告げた。
「我らが巫女が申すには、なにやら嵐が近い様子。船が流されませんよう、お気をつけ下さい」
風羽矢はじっと久慈を見つめていたが、どうしても話しかけることができなかった。親しんだ師であるはずの久慈が、なぜか一度も風羽矢に視線を向けてくれなかったのだった。
紅科の屋形の広間で、久慈をはじめとする秋津の諸隊長たちと、松山たち熟田津衆はにぎやかに酒を飲み交わして語り合った。
稚武や風羽矢も座らせられたが、なにぶん稚武は酒が苦手だ。そうでなくても昨晩あれだけ呑まされているのに、こんな昼間からあおる気にはなれなかった。
隣の風羽矢も、稚武が呑まないのに自分だけ呑むわけにはいかず、二人はなんとも手持ち無沙汰だった。
夕暮れ近くまで耐えたが、とうとう稚武は限界に来て、里の中にもいくらか湧いているという愛比売の温泉に入ってみたいと言い出した。
「風羽矢も行くだろ」
当然のように稚武は風羽矢を立たせようとしたが、風羽矢は苦い顔をして渋った。
「温泉って……結局は水だろう? おぼれる気がする」
「温泉でおぼれる奴なんかいないよ。なんだよ、一人で行ってもつまらないじゃないか」
拗ね始めた稚武をなだめるように、久慈が桐生を指名した。
「桐生殿、皇子について差し上げてくれませんか。久しぶりでしょう。兄弟水入らずもよいのでは」
「は……俺がですか」
桐生は瞠目して久慈を凝視する。久慈は「ええ」と人当たりのよい笑みで返した。二人の間の微妙な空気になど気づかず、稚武は無邪気に喜んだ。
「よっしゃ。じゃあ行こうぜ、桐生兄。――紅科、案内してくれよ」
「いいわよ」
紅科は寝入っている
稚武と桐生が席を外すというので、風羽矢は急に心細くなってしまった。その不安が顔に出ていたのか、久慈がにこりと笑って言った。
「ああ、そうです、風羽矢。どうですか、久しぶりに狩りにでも出ませんか。湯から帰っていらした皇子たちのために、わたくしどもは猪の一頭でも獲ってきましょう」
再会してから初めてかけられた言葉だった。なんだかよそよそしく思えたのは勘違いだったのか、と風羽矢はホッとして頷く。
「名案ですね、師匠」
「よもや、弓の腕が下がっているなどということはありませんでしょうね」
「まさか」
風羽矢は顔を明るくして言った。
「そうだ、都で修業していたときみたいに、どっちが大物を獲れるか勝負しましょうよ。今のところ引き分けでしたよね」
「いいですね。――わたしの隊の者も、船での生活が長く身体がなまっているようです。連れて行ってもかまいませんか」
「もちろん。じゃあ、みんなで誰が一番大きい獲物を獲れるか勝負ですね。きっと稚武たちが食べきれないぐらいになっちゃうな」
少年と将軍の会話を聞いていた松山は楽しそうに言った。
「はは。なら、戦のために、肉を干して携帯食にしてしまえばいい。いくらあっても足りんよ。期待しているぞ、風羽矢」
彼はだいぶ酔っていた。同じくらい呑んでいるだろうに、久慈の方はいたって常のとおりだ。久慈は都にいたときから酒に強かった。
風羽矢はふくれて松山を睨んだ。
「馬鹿にしているね、松山。僕が弓を射たところを見たこともないくせに」
「ぎゃふんと言わせてやればいいさ」
稚武はにやりと笑い、桐生と紅科を連れ立って戸口へ立った。その桐生の横顔が、いつになく緊張しているように見えた。そう気づいたのは風羽矢だけだったかもしれない。
「桐生兄? どうしたの、さっきから元気がないね」
「え、いや――そんなこと、ないさ」
桐生は笑って否定する。
「桐生殿」
だが、久慈に呼ばれて明らかにその表情はこわばった。久慈はいつものように穏やかに微笑む。
「皇子のこと、頼みましたよ。桐生殿」
「……はい」
桐生は視線を泳がせ、かすかに震える声音で答えた。
もしかしたら体の具合が悪いのかもしれない、と風羽矢は案じたのだが、兄の異変に全く気づいていないらしい稚武がさっさとその手を引いてしまったので、しかたなく「行ってらっしゃい」とだけ言って見送った。
「では、我々も出かけましょうか、風羽矢。日が暮れてしまわないうちに」
久慈が杯をおいて腰を上げる。
風羽矢は久しぶりの狩りとあって胸が高鳴った。
「はい、師匠」
―――嵐の、予感。
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