第37話
風羽矢は
「椿沼はこっちよ。
今度は紅科が手を引く。風羽矢は真剣な面持ちで頷き、駆け出した。
「急ごう。稚武が心配だ」
やがて二人は濃い靄の立ちこめる中に入っていった。あまりの勢いの蒸気に、風羽矢は顔の前を仰ぐ。
「何だ、これ……」
「気にしないで、体に悪いものじゃないわ。……愛比売さまよ」
「え?」
風羽矢が聞き返したと同時に、前方で笑い声がはじけた。屈託のない少年の声だ。聞き覚えのあるその声音に、風羽矢は思わず声を上げた。
「稚武」
声のする方を見やると、だんだんと靄が薄れ、見慣れた黒髪がのぞいた。椿の花に囲まれた泉の前で、稚武が腹を抱えて笑っていた。
彼はこちらに気づき、笑いによる涙をぬぐいながら手を振る。
「おー、風羽矢。無事だったんだな」
「稚武、君こそ」
風羽矢はすぐに駆け寄り、まじまじと彼の顔を見た。
「怪我はない? 愛比売さまはどうしたの。……何をそんなに笑っていたんだい」
「はは、愛比売さまなら、これだよ」
稚武が視線で指したのは小さな泉だった。季節外れの椿の花びらを浮かせ、静かに湧き上がる水。おびただしい量の湯気はここから湧き上がっている。これは、どうやら、
「……温泉?」
「そうよ」
二人の後ろで紅科が答えた。
「愛比売さまは古よりこの地を潤してきた慈愛の湯。森を育て、獣たちを癒し……あたしたち人間にもそのお力を分けてくださるわ。椿沼と呼ばれるのはその源泉なの。山を下れば、里の中にもいくつか湧いているわ」
「温泉……」
ぷ、と風羽矢も思わず笑ってしまった。確かに神に違いない。だが畏れも恐れもどこかへ飛んでいってしまった。
紅科は笑い転げる少年たちをムッと睨み、泉の前に進み出て一礼する。そして祝詞のようなものを小さく口ずさみ始めた。
何だか気が抜けて、稚武は後ろ手を組んでその様子を眺めていた。しかし風羽矢はすぐに気づいた。
「そうだ、宇受は。宇受はどこだろう」
「……いらっしゃるわ」
紅科は瞑目していたまぶたを開き、空を仰ぐ。つられるように少年たちも見上げると、そこには白い影が群れとなってやってきていた。
「白鷺だ」
風羽矢が言ううちに、白鷺の群れは急降下して泉に舞い降りてきた。そして身を寄せ合うように固まり、気持ちよさそうに目を細める。
「宇受」
紅科はその名を呼び、白鷺たちの中央をかき分けた。すると、どこに隠されていたのであろう、羽と羽の間から、すやすやと眠っている宇受が抱き上げられた。目の前の不思議な光景に、少年たちは声をなくして見入る。
紅科は妹に頬を寄せ、微笑んで抱きしめた。
「良かった……宇受」
あけすけな顔で眠っていた宇受が、ふいに目蓋を持ち上げる。うっすらと開かれた玉のような瞳は、赤ん坊と思えないほどの精錬された輝きを持っていた。表情はない。
泉がかすかにざわめいた。ささやくように。
(何だ……?)
少年たちは不気味さを覚えたが、宇受を見つめていた紅科が彼らに真摯な眼差しで告げた。
「愛比売さまがおっしゃっているわ。稚武、あんたは神器の剣を振るったのね」
稚武は一瞬きょとんとし、首をかしげながら頭をかいた。
「ああ……そういえば。夢中だったからよく覚えていないや」
紅科はまた宇受を覗き込む。だがそれは姉の顔ではなく、巫女の顔をしてであった。
「これで真の目覚めに少しは近づいたはず……手助けしてやったんだから感謝しなさいってさ」
「よく言うよ、愛比売さま。本気で殺そうとしたくせに」
難しい顔をしながらものん気に口を尖らせる稚武と違い、風羽矢は真面目に眉を寄せていた。紅科と宇受の様子に不自然なものを感じる――はっとして、風羽矢は思わず訊ねた。
「紅科、まさか宇受って」
にこ、と紅科は笑う。
「ええ、そうよ。愛比売さまは宇受を依り代にしてあたしに語りかけていらっしゃるの。宇受が眠りと覚醒の狭間にあるときだけね。その御声はあたしにしか聞こえないみたい。だからあたしが、巫女の役目をつとめているの。愛比売様の託宣を伝える、湯守りの巫女として。……本当は宇受と血のつながりはないの。この子は愛比売さまから下された、次の巫女となるべき子だから」
宝玉の瞳で少年たちを見つめる宇受を抱きなおし、紅科は伊予の国つ姫神の巫女として言った。
「稚武、風羽矢。あんたたちは確かに宇受を助け出してくれたわ。ありがとう。熟田津は勇敢な秋津の皇子に感謝します……」
一度きっちりと頭を下げ、顔を上げた紅科は微笑んでいた。
「あんたたちを軍に帰すわ。信用する。あんたたちならこの倭から戦をなくしてくれるって。男衆もきっと力を貸すでしょう。だてにならず者の集まりじゃないのよ、武器も船も、食べ物も揃っている」
今度は手を合わせ、紅科は丁寧に辞儀をした。
「この度の
日暮れ前に宇受をつれて戻った稚武たちに、待ちわびていた松山は目を見張った。そして感じ入ったようにうなり、両手をついて秋津の皇子に額ずいた。
「度重なりました無礼をお許し下さい。……これより、我ら熟田津衆、全力をもって皇子に尽くしましょう」
稚武は照れて頬をかいた。それから風羽矢と手を打ち合い、勝利を得て喜び合った。
熟田津に帰ると、里の衆はわっと歓声を上げて彼らを迎えた。特に男たちは、松山が戦に参戦すると宣言したものだからいっそう興奮して盛り上がり、その晩は大宴会となった。
宴の会場となっている集会所は小高い丘の上にある。宴たけなわというところで風羽矢はこっそり抜け出し、丘に座り込んで彼方に海を眺めていた。
といっても、暗くて波もよくわからない。海の上に広がる夜空には月が薄く浮かび、あたりの雲の影を照らしていた。
背後の集会所からは宴会のさんざめきが響いている。ぼうっとしていた風羽矢の隣に、ふいをついて稚武が座り込んだ。
「よう」
「わっ……驚いた。なに、びっくりさせないでよ」
へへ、と稚武は笑う。少し酔っているらしかった。彼は自分が酒に弱いのを承知しているのであまり呑まないのだが、酔いが回るのもやはり人一倍早いのだ。
「お前こそ、一人で何してんだよ」
「別に……」
風羽矢が膝をかかえると、稚武は隣に寝転んだ。空は曇りがちだが、ところどころに星がのぞく。風は日ましにゆっくりと涼しくなってきていた。
「……お前、ここに残るか?」
酔いを感じさせない澄んだ声だった。
弾かれたように風羽矢は稚武を見る。けれども稚武はじっと空を見上げるばかりで、ちらりとも視線を返さなかった。
「……どうして」
稚武は一つ瞬いて答えた。
「お前はここで生まれたんだろう。本当の両親もまだこの辺りにいるのかもしれないぜ。ゆっくり探してみたらどうだ」
椿沼からの帰路で、稚武は風羽矢の出生のことを聞いた。それから、風羽矢がふとした時間の隙間に独りで考えこんでいることに気づいていた。
風羽矢はしばらく沈黙し、うつむいて言った。
「……会いたいとは思う。本当の母さんや、父さんに。それから、僕の弟妹に。……だけど」
そこでまた静寂が下りた。賑やかな宴の騒ぎは耳から離れ、遠くの波の音が大きくなったような気がした。柔らかな風が吹き、二人を撫でていく。
「だけど。――僕は、君と一緒に戦いたい」
言ってしまうと張りつめていたものが流れて楽になった。素直な気持ちだった。
「君がどこかで戦っているというのに、離れて一人でいるのは嫌だ。おいていかれるのは嫌だ――それは君のためにならないかもしれない。でも、できる限り君の力になれるように努力する。だから……おいて行ってしまわないでくれ、稚武」
稚武は長く答えなかった。やはり風羽矢の方を見もしなかった。
風羽矢は灯火が風に吹かれて小さくなっていくのを見つめているような心地で、じっと待った。
やがて、稚武は夜空に向かって答えた。かすれた小さな声だった。
「何がお前のためになるのか、正しいのか、俺には分からないんだ……。俺はやっぱり、皇子だから。お前を引っ張り回して危険な目に遭わせることしかできない。それなのに、お前に隣にいてほしいと思うのは、俺のわがままだ」
「稚武、違う、それは」
稚武はやっと身を起こし、風羽矢を見た。
「お前はようやく生まれ故郷に帰って来ることができたのに。なのにまた、俺が引き離していいものなのかと思う。お前はもう、ここで親を探しながら、静かに暮らしたっていいはずなんだ。俺に付き合って戦わなくたっていいはずなんだ。……だけどお前は、ついて来ると言ってくれる……」
稚武は静かにうつむき、声を潤ませた。かろうじて涙は見せなかったが。
「ありがとう……」
ぽつり、とそう呟いた。
風羽矢は微笑んだ。
「馬鹿だね、わがままを言っているのは僕の方なのに。聞いただろう、僕の母は罪人だったらしいって。僕はその子供なんだよ。皇子さまのそばにいていいような奴じゃないんだ」
「かまうもんか」
怒ったように短く稚武は答えた。風羽矢も微笑みの中で視線を落とす。
「……うん。――そうだ、
「ああ……約束だぞ。約束しないなら連れて行かない」
風羽矢は笑顔のまま頷いた。
「約束する」
「……必ず一緒に泊瀬に帰ろうな。絶対に――死んだりしないでくれ」
優しい夜風が流れていく中で、風羽矢はハハ、と笑う。
「君をおいては死ねないよ。酔っているね、稚武」
そうかもしれない、と思う稚武であった。
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