第36話


 稚武に迫る炎は容赦なく勢いを増していた。赤々と渦巻き、火の粉を巻き上げる。四方から押し寄せてくる熱風は耐えがたいものだった。


「くそ……っ。どうしろっていうんだよ」


 紅科くしなの姿をした愛比売神えひめがみは、炎の波の上をふよふよと浮いている。彼女は直接には手を出さずに、悠々と稚武を観察していた。


(どうする……どうする。『殺してもいい』なんて言いやがって、余裕かよ)


 武器は腰の神器・草薙剣くさなぎのつるぎだけだ。だが、とうてい刃の届く距離ではない。やけくそになって投げつけてやろうかとも思ったが、やはり効果はないだろう。


 そうこうしているうちにも火は迫ってくる。稚武はとにかく落ち着こうと気持ちを鎮め、宙の姫神に真っ向から語りかけた。


「愛比売さま、あなたは俺に何を望んでいるんです」

『気安く我に答えを求めるな、愚か者。言っただろう、ただ生き残って見せればよいのだ』


 予想はしていたが手厳しい。愛比売はつまらなそうに言い放ったが、それからふいに口元を歪めて笑った。


『それとも素直に死するか。それもまた一興じゃ。この愛比売が魂まで喰ろうてやるぞ』

「遠慮します」


 稚武は苦い顔をして即答した。


「困ったな。どうやったらこの火は消えるんだろう。やっぱりあなたを倒すしかありませんか」


 なんとものん気な言いようである。愛比売も思わず高らかに笑った。


『ははは、やれるものならやってみるがいい。せっかくそのような大それた剣を手にしているのだ。ほれ、早くせねば焼け死ぬぞ』

「じゃ、降りてきてください」

『阿呆か』


 突然冷たい目をして愛比売神は鼻を鳴らした。


『お前は神をなめている。救いようのない慢心よの。――人間どもは皆そうだ。特にお前らのような、天つ神の血筋はな。人間に身を堕としたくせに、真に倭を支配しようなどと……笑わせてくれるわ。おごり高ぶり、己を知らずにどこまで行くつもりだ。お前は迷走している、引き起こすのは破滅だけだぞ』

「そんなの、行ってみなければ分からない」


 稚武は覚悟を決めて、剣をすらりと抜いた。本気で神と対峙することになろうとは思ってもみなかったが、ここで諦めるわけにはいかなかった。まだ何も終わっていない――始まってさえいないのだ。こんなところで死ねるはずがなかった。


 愛比売の声はいっそう低くなった。冷たい響きで笑う。


『ほう、美しい剣だ。確かに、神器であれば神をも滅ぼすことができよう。しかし、どうやって我にその刃を打ち当てるつもりかな?』


 稚武は無言で睨んだ。正直、何の策もなかった。愛比売は怒りをにじませた声音で問う。


『お前のような小僧に何ができると思うてか。本気で倭を治めることができるとでも? 身の程知らずめ。お前など、神器を手にする資格さえない。我がここで一思いに殺してくれるわ』


 突如として火柱が立ち上り、目を見張ったうちに稚武を目指して襲いかかってきた。


「――くっ」


 とっさに火炎に向かって剣を打ちあてる。神器は真白の光を放ち、紅蓮の渦から宿主たる稚武を守った。だが赤い火の矢は続けざまに稚武を襲う。


『さぁ、お前の信念を示せ。まことにこの国を望むか。なにゆえに? 百年も生きていない分際で、なぜそのような大それたことを望む。己の財と名声のためか、それとも、倭の民のためとでもぬかすか』

「……うるせーやい……」


 剣の柄をかたく握り締め、稚武は答えた。


「そんなの、知らん。俺は確かに名を上げたいと思ってた。倭のみんなが幸せになってくれたらいいと思う。どっちも嘘じゃない。けど……知らん」


 稚武は思い切り剣を振るった。神器は眩しく輝き、稚武は力の解放を感じた。その中で、荒ぶる国つ姫神に向かって声の限りに叫ぶ。


大王おおきみが俺にそれを望んだ。倭を頼むと……だから俺は戦う! ――悪いか。父親のためにがむしゃらで、悪いかよ!」


 稚武に向かった炎は剣に薙ぎ払われて逆流し、渦巻いて愛比売を呑みこんだ。思わぬ反撃を食らった姫神は高く悲鳴をあげ、紅科をかたどっていた姿は霧散して消えた。


 同時に、息切れて肩を上下させる稚武の周りには濃い霧が立ちこめ、焼け野原の景色は遠のいていった。


「……幻、だったのか」


 当然といえば当然だ。山ばかりの島国である伊予に、あのような広大な原野があるはずがない。しかし幻影とはいえ、あの火炎に呑みこまれていたら、稚武は確実に黄泉の住人になっていただろう。


(これが……神と戦うってことか)


 迷いがあれば、魂を食われていたに違いない。 

 辺りには再び深い緑が姿を現し始めた。だが霧は消えない。どうやら幻影の名残ではなく、本当にこの周辺をただよっているらしい。


(なんだ、この霧……いや、――湯気?)


『天つ神の子』


 湯気のうちから愛比売の声が響く。敵意はなく、神妙な声音だった。


「ああ、愛比売さま。良かった、本当に殺してしまったかと思った」

『馬鹿を言え。我が自ら作り出した幻影に呑まれるものか』


 ですよね、と稚武は笑う。そして剣を鞘におさめると、愛比売の声はいくらか遠ざかった。


『しかし、お前の信念は認めよう。その源が父を慕う心とは思わなんだが……。ふ、面白い。――こちらに来るがよい』


 目をぱちくりさせながら、声に導かれるままに稚武は歩みを進める。無臭の温かな靄はどんどん濃くなり、視界を真白に覆うほどだ。


 やがて、稚武は赤い花の咲き這うところに出た。ずいぶん季節外れだが、花は椿であった。そして、水の音。


(ここが椿沼?)


『我は失われることのない伊予の国つ姫神。天つ神の血をひく最後の子、お前に我の正体を明かそう』

「……え?」


 稚武は湯気の出所を見、盛大なまでに目を丸くしたあと、思わず吹き出した。

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