第35話



 暗闇の洞窟に入ってすぐ、風羽矢は誰かに手をとられた。後ろから――ということは、


紅科くしな?」


 問うた瞬間に思いっきり引っ張られ、風羽矢は手ひどいさまで転んだ。


「うわっ。……って、いってぇ」


 目がチカチカするまま顔をあげると、そこはもう暗い洞窟ではなかった。だが、松山の待つ入り口の外でもない。ということは、出口なのだろうか。


 あたりを見回すと、岩ばかりの深い谷の底のようだった。どこか寂しい岩陰を吹き抜ける風は強い。


「ごめんなさい、乱暴なことをして」


 風羽矢の手を引いたのは、やはり紅科だった。彼女は心底申し訳ないと眉を下げて風羽矢を覗き込む。


「怪我はしなかった?」

「いや、大丈夫だけれど……。それより、ここは? 出口なのかな。稚武はどうしたんだろう」


 見回してみても稚武の姿はなく、出口らしい洞窟の穴も見当たらなかった。なんとも唐突に二人はここにいるのだ。


「ここは確かに出口よ。でも稚武はいないわ。出口は一つではないの。ここは隣のこおりとの境の谷。熟田津にきたつから反対側の、神域の果てよ。椿沼までは歩いていけるわ」


 風羽矢は耳を疑った。


「まさか。一瞬でそんな距離を飛び越えたっていうのかい」

「ええ、そうよ。これも愛比売えひめさまのお導きね……またここに来られるとは思っていなかった。でも、これで確信できたわ」


 紅科は神妙な顔をして立ち上がり、谷底から上を仰いだ。青空が眩しい。


 風羽矢も立ち上がる。


「確信できたって、何を? ……いや、そんなことより、君はなんで僕の手を引いたの。稚武はどこに行ったんだ――探さないと」

「探す必要はないわ。きっと愛比売さまと会っているに違いないから」

「違いないって……やっぱり君は、僕らを騙してここに連れてきたんだね。どういうつもりだ。松山も……愛比売さまもぐる?」

「ごめんなさい」


 紅科は素直に頭を下げた。


「そうなの。愛比売さまが……つるぎの主を試すとおっしゃって」

「試す、稚武を? どんなふうに」

「……分からないわ」


 紅科は顔を上げたが視線は下げたままだった。風羽矢の拳に怒りが湧く。


「分からないはずないだろう。稚武に何かあったらどうするんだ。僕を勝手にこんなところに連れてきて」

「風羽矢」

「こんな谷底に何の用があるって言うんだ。一刻も早く、椿沼に―」


 荒れる風羽矢を抑えるように、びゅうっと突風が吹いた。山を深くえぐったような崖の隙間を、強い風が続けざまに走る。


 紅科はうつむいたまま沈黙した。さすがに風羽矢も頭が冷えて、ばつの悪い声音で言った。


「大きな声を出してごめん。……椿沼に案内してくれるかい」

「……風羽矢」


 紅科は緊張したようにかすかに声を震わせていた。風羽矢は驚き、慌てて彼女を覗き込む。


「どうかした。僕はもう怒っていないよ」


 紅科は呼吸を整えるように息をつく。それから、決心したように訊ねた。


「風羽矢……あんたは、もしかして――もしかして、本当は、都の生まれではないんじゃないの?」

「ええ?」


 風羽矢は突然の話題に困惑し、声を跳ね上げた。しかし、紅科は巫女だ。それに以前、松山に泊瀬はつせで育ったことを話したこともある。あの時、確か彼女も聞いていたはずだ。今さら驚くようなことでもない。


「まぁ、うん……そうだよ。僕は孤児だったんだ。育ったのは泊瀬というところだよ」

「でも生まれは違うでしょう」


 早口で彼女は言った。


「うん、僕は……僕の生まれは」


 倶馬曾クマソとの境にある、西の果ての国。そう言おうとして、風羽矢ははっとした。思わず声をなくす。


 風羽矢は戦災孤児だ――熟田津は戦地になったと言っていた。……十七年ほど、前に。


 強い風が吹いて、棒立ちの風羽矢を揺らした。紅科の髪が千筋に乱れて踊る。少し背の高い風羽矢を真っすぐに見つめる彼女は、わずかに瞳を濡らした。


「風羽矢。ここは……この風の通り道は、風早かざはやというのよ」


 それから彼女は涙声で一気に語った。


「覚えている。ちゃんと覚えているわ。あたしがまだ四つぐらいだった時のことよ。伊予にきれいな女の人がやってきたの……その人は秋津の都からやってきた人で、罰として流されてきたのよ。何の罰かは知らないわ。けれど、本当に美しい人だった。お腹には子供がいたの……。彼女は逃げていたわ。多分、秋津の兵士から。匿ったのがあたしの母。そして子供を生んだのが、ここよ」


 紅科は涙目で風羽矢を覗き込み、彼の胸の衣を強く握り締めた。


「カザハヤと名づけたのよ」


 風羽矢は呆然として聞いていた。


「あんたね……あんたなんでしょう。風羽矢。あたし、あんたが生まれたときに隣にいたわ。一晩中ついていたわ……!」


 感極まったように泣きながら、紅科は風羽矢を抱きしめた。


「お帰りなさい、風羽矢……!」

「紅科……」


 風羽矢は震える手で彼女の肩に手を置いた。


「それじゃ……それじゃ、僕の母は? 今、どこに」


 紅科は腕を解き、涙をぬぐいながら首を振った。


「分からない……戦の中のことだったから。でも、かすかに覚えているのは、男の人がやってきたこと。多分、あんたのお父さん。二人は生まれたばかりの子供をあたしの母に預けたの。母はあたしを熟田津に残して、自分は預かった子供と一緒に姿を消したわ。それ以来、母には会っていないの。あんたのお母さんたちにも」


 風羽矢はしばし無言で紅科を見つめ、それから強風の吹き荒ぶこの谷底を見渡した。


 生まれたところ。ふるさと。


(ここが……)


 風羽矢は目頭が熱くなるのを感じ、慌ててうつむいた。それから、胸の御祝玉みほぎだまを握り締める。


(母さん……父さん)


 どこかで、まだどこかで生きているだろうか。会えるだろうか、いつか――


「ねぇ……風羽矢。あんたは知っている? 自分に弟妹がいることを」

「え」


 いきなりのことに風羽矢は仰天した。耳を疑う。


「本当かい、それ」

「やっぱり離れ離れになってしまったのね……。本当よ。ここで生まれた子供は二人なの。あんたには双子の弟か妹がいるはず。その子も名づけられていたけれど、覚えていないわ。男だったか女だったかさえ……ごめんなさい」


 紅科は膝をついてうなだれた。


「本当にあたしは役立たず。ごめんなさい……」

「そんなことはない」


 風羽矢は慌てて彼女の背を抱き、しゃがみこんだ。紅科の涙は止まらなかった。


「どうしてなの……あたしは巫女になんかなれないんだわ。愛比売さまからだって、いつも肝心なことを聞き出せない。あのかたの独り言を盗み聞きするだけ。こちらから訊ねる力なんて持っていないのよ。なのに、みんなはあたしを大切にしてくれる。こんな申し訳ないことってないわ」

「神の声を聞くだけでもすごいことだよ」


 紅科は弱々しく首を振った。


「それだけじゃだめなの。愛比売さまは、ぽつぽつと脈絡のない事実をつぶやくだけ……。それを聞いたあたしが何をするべきなのかは、一言も教えてくださらない。あたしは神の声を聞くしかできなくて、そこから民を導くだけの能はないのよ」

「それは違う、紅科」


 風羽矢は彼女の涙にとまどいつつも、熱のこもった声音で言った。


「君には知恵がある。――君はこの前、裏山の土砂が崩れやすくなっていると言ったね。次の日には本当に崖が崩れて川を呑み込んだ。けれど怪我人は出なかったろう。君が愛比売さまの御声をみんなに伝えてくれたからだよ」


 紅科は涙に濡れた目を少年に向けた。風羽矢はにわかに胸に熱を感じた。


「万能な人間なんて誰も求めてはいないよ。そんなのは信用できないから。紅科はそうやって、熟田津のみんなを幸せにしたいと一生懸命だ。だからみんなは君の言葉を信じてくれるんだと思う」


 紅科は涙をぬぐう。風羽矢は微笑んだ。


「それに、君の価値は巫女としてだけのものじゃないはずだ。――君は僕をここに連れてきてくれた。お帰りと言ってくれた……僕は、嬉しい」


 紅科は潤んだ目を丸くし、じっと風羽矢を見た。それから、気が抜けたように、嬉しそうに笑った。


「ぷっ、あはは……優しいね、風羽矢は。――ありがとう。ごめんね、こんな弱気なことを言っちゃって。みんなには内緒よ」

「紅科……」


 いきなり笑い出したことに驚きながら、風羽矢は心配した目で彼女を見た。


 紅科は気丈なさまで立ち上がる。


「あーあ、恥ずかしい。人前で本当に泣いちゃうなんて。絶対言いふらさないでよ。いいわねっ」


 びし、と強気な目で風羽矢を指差す。泣いたり笑ったり、かと思えば強気ないつもの彼女に戻ったりと忙しい。風羽矢もつい笑ってしまった。


「……うん」

「あっ、何よ、そのニヤついた笑いは」


 紅科は本気で焦る。そのさまを、風羽矢は面白いと思った。


「何でもないよ」

「何でもないことないでしょう」

「何でもないって。……それより、宇受うずがさらわれたって泣いていたのは、やっぱり嘘泣きだったんだね」


 紅科は肩を竦めた。


「まぁね」


 まったく悪びれる様子のない紅科に、風羽矢はため息をつく。


「それで? じゃあ、宇受は、本当はちゃんと熟田津にいるの。さらわれたというのも嘘?」

「いいえ――宇受は椿沼にいるはずよ。愛比売さまと一緒に」


 紅科は真顔に戻った。


「急ぎましょう。愛比売さまが稚武に何をしているか、見当もつかないわ」

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