第34話
稚武は無言で闇の中を進んだ。だが奇妙だった。入り口はあんなに狭かったというのに、一歩入るともう彼にぶつかるものはなかった。
壁が無いのだ。
前は闇。右も左も、ただ沈黙の闇だった。立ち止まることはできない。一度足を止めてしまったら、二度と歩き出せなくなりそうだった。
度胸だけはあるつもりが、足元から次第に恐怖がまとわりついてくるのがわかった。寒くはないが、下のほうには冷たい空気が流れている。
果たして自分が真っすぐに歩いているのか、早くも分からなくなっていた。それどころか、上っているのか下りているのか、進んでいるのか退いているのかという感覚さえ失われてくる。
見据えるのは、夜闇よりも重く暗い暗黒。
(……
万物の母神・
この虚無の闇はそこへ誘っているようだ、と稚武はぼんやり思った。だがハッと我に返り、舌打ちする。
(弱気になるな……!)
腰の
後ろの風羽矢たちはどうしただろう。全く気配がない。濃い闇に遮られて感じられないのだ。
振り返るな、と紅科は言った。だが声を出すなとは言っていない。しかし、ためらう。
悩んだが、稚武は大きく呼吸しただけで風羽矢の名を呼ぶことをやめた。
(『闇に目をそむけず、決して後ろを振り返らずに立ち向かえば、きっと会える』……)
ならば、それだけを信じて進もう。迷うことはない。
強く決心して前方を見据えた瞬間に、小さく光が見えた。出口か、と思ったとたん、その光は眩しく闇を消し去った。
「うわっ--」
あまりに鮮烈な光に、稚武は思わず両腕で顔を覆った。そして一呼吸の後にそうっと目を開く。だが視界は白く、すぐには何も見えなかった。
とりあえず、闇は抜けたらしい……そう思っているうちに、やがて景色が色を取り戻した。
茂る緑、花の赤、そして空の青。柔らかな風が吹くと、木々がさわさわと鳴った。まだ真昼のようだ。
「ここは……」
「やっと出てきたのね、稚武」
唐突に声をかけられて、稚武は振り向く。そこには微笑む
「紅科。……俺はいったい」
いくらあたりを見回しても、洞穴などはなかった。自分は一体どこから出てきたというのだろう。
周りは高い木に囲まれ、鳥たちの羽音が遠くで響いている。明るい。
「さぁ、椿沼はもうすぐそこよ。早く行きましょう」
紅科が指差した方を見やれば、そこには獣道のような細い小道があった。木々の間をうねり、森の奥まで続いている。
「待てよ、風羽矢はどうしたんだ」
さっさと歩き出そうとする紅科の腕をつかみ、稚武は訊ねた。紅科は一瞬目を丸くしてから、思い出したようににこりと笑う。
「洞窟の途中で引きかえしたわ。二人だけで行ってきてって」
「まさか」
「しかたないわよ。ほら、早く行きましょう」
つかまれた腕をするりと抜き、紅科ははしゃぐように稚武の手を引いた。引かれるままに、稚武は小走りでついていく。
だが、納得したわけではなかった。
「おい、待てって。風羽矢が途中で引き返したりするもんか。待っていればきっと来る。置いていけない」
「いいえ、来ないわ。――ほら、森を抜ければ野原よ。椿沼はそこにあるの」
紅科は振り向きもしなかった。
「紅科」
乱暴かと思ったが、稚武は力任せに彼女の手を振り解こうとした。しかし驚いたことに敵わなかった。いくら力をこめても、紅科の手はちっともはがれない。
ゾッと、背中に冷たいものが滑り落ちていった。
緊張が全身に走る。だが足は止まらない。
やがて、彼女の言ったとおり森の終わりが見えてきた。その向こうは野原だった。
遠く山脈を望む、広大な野原。それは東国の景色に似ていた。いや、東国の景色そのものだった。
さらにおかしなことに、野原は一面夕焼け色だった。確か真昼のはずだったのに――まさか、と稚武が思った瞬間、森が途切れ、風にさらさらと撫ぜられる野原に飛び出した。
思わず後ろを振り返ると、今の今までいたはずの森は蜃気楼のように遥か彼方にぼんやりと見え、原野はどこまでも続いていた。
「紅科……っ」
叫ぶように稚武は呼んだ。
すると、紅科は背を向けたまま立ち止まった。生温かな風に吹かれ、彼女の長い髪がなびく。丈の短い柔らかな草も揺れる。夕陽こそないものの、世界は陽の隠れる色に包まれていた。
見渡す限りの大草原。そこに存在するのは稚武と紅科の二人きりだった。兎や鳥の姿もなく、草が鳴る以外は静寂に包まれている。
稚武は勢いよく、今度こそ紅科の手を振り解いた。そして後ろ姿の彼女を睨みながら、訊ねる。
「紅科、ここはどこだ。……お前は、誰だ」
『――知れたこと』
振り向いた紅科は妖しいまでに美しく微笑んでいた。
『
言い、紅科は――愛比売はふわりと宙に浮いた。そしてさぁっと草の上を滑るように後方に飛び、赤い唇をあでやかに歪めて笑んだ。
『お前は問うたな。どうすれば認めるかと。今こそ、その答えの示される時』
「何を―-。本物の紅科は、風羽矢はどうした。宇受はどこにいる」
『他人の心配をしている場合か』
稚武は愛比売の目が赤く燃えるのを見た。その瞬間、炎は
「な……っ」
熱いと思ったときには既に周囲を囲まれていた。炎は踊るように草を焼き、天を焦げつかせ、じりじりと稚武に迫ってくる。
炎の上に浮く愛比売は、口元を微笑ませながら、燃え立つ火に追い詰められる少年を見つめていた。眼差しは鋭かった。
『さぁ、天つ神の子。お前がまことこの倭を救う
母のような慈愛に溢れ、美しいまでに残酷な声だった。
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