第33話


 山々はしだいに赤らんでくる季節だ。


 熟田津にきたつから内陸に向かうと、そこはもう山ばかりだった。棚田の続く坂を上り、しばらく行くと、やがて森の茂りが濃くなってくる。


 獣道さえ見当たらなくなってきて、頭上を木々の陰に覆われてしまえば、稚武と風羽矢はもう方位の感覚さえおぼつかなくなっていた。


 だが紅科と松山は力強い足取りで未開の森を進んでいく。歩みは速い。


 前を行く二人に稚武は尋ねた。


「なぁ、ここはまだ熟田津の領域か」

「いいや、隣のこおりとの境だ」


 松山が顔だけ振り向いて答える。


「だが、人に行き会うことはないだろう。この山には誰も近づかん。天山あまやま愛比売えひめさまの御山だからな。生贄をささげる儀式以外に立ち入ることはない」

「特にこの森は椿沼を守る神域だから、入ってくるのはよっぽどの命知らずか、本当に何も知らない人ね。それに普通は逆側からお参りするのよ。すごく遠回りになるけれどね」


 少年たちを振り返った紅科は首をかしげた。


「今からでも遅くないわ。引き返す? そうでなければ、逆の道から行く?」

「……いいや。時間を無駄にしたくない。近道ならこっちでいい」


 稚武がとがった声で返す。そう、と紅科は前に向き直ってさらに足を速めた。その時、稚武は見逃さなかった。紅科が小さく笑ったのを。


 稚武が眉を引き締めたとき、同様に難しい顔をした風羽矢がひそやかにつぶやく。


「……稚武。何か、変じゃない?」


 ああ、と稚武は頷いた。


 妹が荒ぶる神にさらわれたというのに、紅科はちっとも心配している様子を見せなかった。決して情が薄い性分ではないはず、とかく宇受うずへの可愛がりようには凄まじいものがあった。なのに、いくら平静を装おうと、この状況でそのように笑えるものだろうか。


 風羽矢はますます眉を下げる。


「罠にかかったかな、僕ら」

「かもしれないな」


 稚武はため息をつくように答えたが、それから不敵に笑ってみせた。


「だけど、それは俺たちにとっても望むところだ。何をしかけてきても打ち破ってみせるさ。そうでもしなければ、いつまで経っても軍に返してもらえないだろう。どうせ他にやることも分からないんだし、へん、いい機会だ」

「のん気だねぇ、君は。こんなときにまで」


 呆れたように言う風羽矢に、稚武は楽しげに笑う。


「なに言ってんだ。何が来ようと大丈夫だよ、俺とお前なら」

「うん」


 風羽矢もにやりとして微笑んだ。


 そのうちにも、森は深く、暗くなっていく。

 姿は見せないが、獣たちの匂いが満ちている。彼らは入り込んできた人間たちに気づき、遠巻きに様子をうかがっているのだ。その目は穏やかではない。だからこちらも、目をこらしてその姿をとらえようとはしない。ただ黙々と、気を獲られないように引き締めて前へ進むのみ。


 しかし、目に映るのは途方もない緑、そしてほのかに生気を失った暖色ばかりだ。樹海の名にふさわしい、と稚武は思った。朽ちた大木があちらこちらで倒れ、苔むし、鼠や虫の寝床となっている。終わりなき森、常世とこよへ続く森――濃い緑と土の匂い。


 眩暈がしてくる。


「松山のおっさん、その椿沼までは、あとどれくらいなんだ」

「もう少しだ」


 道のりは寡黙だった。目的が目的だけに、おしゃべりを楽しみながらの道程になどなるはずがないが、それ以上に、森の不思議な圧力を受けて口を開くことにも力が要った。


 身体の方は、喉の渇きはあるがたいして疲れていない。だが気力はどんどん吸い取られていくようだった。


(もう少し、って、どれくらいだよ)


 稚武は胸中で毒づいた。隣の風羽矢も同意見らしい。しかし松山も精神的に参っているらしく、問いを繰り返してもまともな答えが返ってくるとは思えなかった。


 少年たちの心の声が聞こえたように、紅科が振り返って言った。


「不用意に口を開かないほうがいいわ。つかれるわよ」

「黙っているほうが余計に疲れる」


 紅科は目元を厳しくした。


「そうじゃなくて、森の神気に憑かれるって言ってるの。心を食われるわ。本当にあと少しだから、我慢しなさい」


 巫女だからであろうか、紅科は松山や少年たちよりも疲れを見せていなかった。実際に目的地である椿沼がすぐそこに見えているかのように、真っすぐと進む。


 彼女のきりりとした後ろ姿に、女は強い、と稚武は生まれて初めて思わされた。


 同じような景色ばかりが続く中で、時間の感覚は極めて薄くなっていた。だからそれからが「少し」であったのかは計りようもなかったが、やがて紅科が足を止めたのは稚武たちが正気を保っているうちだった。


 それは、蔦に覆われた岩崖にぽっかりと開いた洞窟の入り口だった。高さはあるが、横幅は人一人がやっとだろう。だが、その入り口さえ、絡み合った蔓によって塞がれている。隙間からのぞく奥にはただ無限の闇があった。


「椿沼はこの先よ」


 紅科は恭しく手を合わせ、洞穴に向かって深く頭を下げる。そして何事かをつぶやいたかと思うと、入り口を塞いでいた蔓が意志を持ったかのようにさっと引いた。


 現われたのは暗闇だけがただよう空洞。中からかすかに吹く風は湿っている。


 男たちは息を呑んだ。頭を上げた紅科は、顔に汗をにじませる松山に向き直る。


「松山、ここまでありがとう。あなたはどうかここで待っていて。ここから先は神域の中の神域……徒人が足を踏み入れてはならない聖地。特に愛比売さまは女神でいらっしゃるわ。男がみだりに入っては、本当に命取りよ」


 松山は言葉もなく頷く。頷き返し、紅科は今度は少年たちに言う。


「あんたたちも同じ。男だわ。脅しじゃなく、命の保障はないわよ。それでも行くの」

「行く」


 稚武は力強く答え、風羽矢も頷いた。


「もちろん」

「愛比売さまに聞きたいことはたくさんある。どうせなら、俺が直接尋ねるよ。神器のこと、倶馬曾クマソのこと、倭のこと……戦をなくす方法。俺がしっかりした王になるために、何をすればいいのか」

「……わかったわ」


 紅科は一歩引き、少年たちに洞窟への道を明けた。そして巫女としての澄んだ瞳で言う。


「ならば、お行きなさい。この窟の先に愛比売さまはいらっしゃる。闇に目をそむけず、決して後ろを振り返らずに立ち向かえば、きっと会えるわ」


 穴は暗い。この先に何があるのか、一歩先さえも分からない。だが、恐れはなかった。


「俺から行く」


 稚武は腰のつるぎに手をかけ、よどみない足取りで暗闇に臨んで行った。遅れずに風羽矢も続く。


 二人が闇に姿を消した後に、紅科も胸に手を当てながら向かった。


 彼女が身体を洞穴に納めた瞬間に、するすると蔦がのび、再び入り口は閉ざされた。


「どうか……ご無事で」


 松山は祈って頭を下げ、それから木々の間にのぞく空を仰いだ。ばささ、と音を立てて白い鳥たちが横切っていく。白鷺の群れであった。

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