第32話


 事件が起きたのは数日後の朝のことだった。


 ぼんやりとした朝焼けを切り裂くような高い悲鳴で、稚武と風羽矢はたたき起こされた。


「なんだ、今の」

紅科くしなの声だったよ」


 二人は飛び起きて、紅科と宇受うずが眠っているはずの部屋に向かった。そこには紅科が腰を抜かしたようにへたりこみ、真っ青になってぶるぶると震えていた。


「紅科、どうしたの」


 真っ先に風羽矢が彼女の顔を覗き込む。その瞬間、ばたばたと大きな音を立てて松山たちがやってきた。どうやらすぐ外にいたらしく、悲鳴を聞きつけてやってきたようだ。


「どうなさった、ユモリさま」


 紅科は風羽矢に抱きついてわっと泣き出した。


「宇受が……宇受がいないの。連れ去られてしまったの、愛比売えひめさまに!」

「何だって」


 仰天する皆に囲まれて、紅科は涙ながらに言った。


「愛比売さまは怒っていらっしゃったわ。稚武を……すめらぎ若子わかごを伊予に入れたからって。国つ神の土地に天つ神の末裔をとどめたからって……」


 男たちの顔色が変わった。稚武と風羽矢もだ。


「俺が……俺が来たから?」


 つぶやいた瞬間に、稚武は乱暴に胸ぐらを掴まれた。松山は憤怒で顔を真っ赤にして彼を覗き込んだ。


「そうだ、お前のせいだ! なんということをしてくれたのだ、我らが国つ神の地を汚すとは」

「そんなつもりじゃなかった」


 稚武は戸惑いながら顔を歪めた。


「だいたい、俺たちをここにとどめたのはあんたらじゃないか。好きでここにいたわけじゃない、俺たちは軍に帰りたいと言ったのに――」

「ふざけた口をきくな、この疫病神」


 松山はどうっと稚武の身体を床にたたきつけた。


「やめて」


 紅科が悲鳴をあげて松山に取りすがる。


「稚武の言うとおりよ、松山。あたしたちが悪いの。愛比売さまの地によそ者を許した、あたしたちが悪いのよ」

「ユモリさま、……ですが」


 松山はしぶしぶながらこぶしを下ろした。稚武は背中をしたたかに打ち付けてうめき声をもらす。 風羽矢は急いで彼に駆け寄った。


「稚武っ、大丈夫かい」

「つ、いててて……、いや、平気だよ」


 稚武は痛みに片目をつぶりながら起き上がった。


「ごめんなさい。本当に大丈夫? 稚武」


 紅科が涙に濡れた目で眉を下げる。


「俺のことより、宇受の方が心配だろう。愛比売さまとはどういう神なんだ。恐ろしいのか」


 紅科は頷いた。


「とても荒々しい、灼熱の神よ。熟田津は毎年、生贄をささげているの。獣や魚、宝なんかを。けれど今朝、愛比売さまはおっしゃったわ。これからは人間にするって。月に一人ずつ、若い娘を差し出せって……」


 そして彼女はまた泣き出した。あまりのことに、里の衆は青ざめて言葉をなくした。しんとした中で紅科のすすり泣きだけが響く。


 やがて、稚武がすっくと立ち上がった。


「その愛比売さまには、どうやったら会えるんだ」


 ハッとして紅科は彼を見、目を丸くしたまま唇を震わせた。


「……愛比売さまの棲み処は、天山あまやまの奥深くにある沼よ。椿の木に囲まれているの……」

「わかった」


 言って稚武はくるりと背を向けて部屋を出ようとした。


「待て、逃げるつもりか」


 松山が怒鳴る。稚武は振り向き、いたって当然という顔をして言った。


「逃げてどうする。愛比売さまとやらに会いに行くんだよ。宇受を返してもらわないと」


 紅科と松山をはじめ、熟田津の衆は神妙そうな顔をして稚武を凝視した。


「……正気か」

「当たり前だろう。出て行くにしたって、こんな後味の悪いのはたまらないよ。俺が来たせいで愛比売さまが機嫌を損ねたというのなら、せめて一言詫びをいれてから出て行く。ついでに宇受も返してもらってくる」

「僕も行くよ、稚武」


 言ったのは風羽矢だった。


「僕もよそ者だもの……責任はあると思う。宇受のことも心配だし。君を一人で行かせられないよ」

「風羽矢」

「絶対について行く」


 風羽矢は強い目をして譲らなかった。


「別に付き合うことはないのに、愛比売さまが怒っているのは俺になんだから。……でもやっぱり、心強いや、ありがとな」


 稚武は少し照れたように笑う。


 厳しい面持ちで沈黙していた松山が口を開いた。


「愚かだぞ、お前たち。荒らぶる神の姿を目にして、生きて帰って来られると思っているのか。たちまち祟られて死ぬだけだ。……無理は言わん。宇受のことは、運が悪かったと諦めるしか――」

「そんなわけにはいかないだろう」


 驚いて稚武は言った。


「俺のせいで宇受を死なせるわけにはいかないんだ。俺は、もう……俺のせいで倭の民に死んでほしくない」


 風羽矢は稚武の顔が陰るのを見た。彼は思い出しているのだ――奥宮の一件で処刑された文官と女官のことを。


「だが無茶だ。相手は神だぞ。国つ神は、気に入らん者には容赦しない。恐ろしい、無慈悲の神なのだ。……お前は天つ神の末裔といえども身は人だろう。敵うと思うか」

「ごちゃごちゃ言うなよ、松山のおっさん」


 稚武はいつものようにのん気な口ぶりで言った。それからにやりと笑う。


「勝算が全くないわけじゃないんだ。俺には神器の剣があるから。どうなるかはやってみなきゃわからない。つまりは、まぁ、やってみるしかないってことだ」


 こう言ってしまうのが稚武だった。それが妙に自信ありげで、実現してしまうかもしれないと皆に思わせてしまうから不思議だ。彼の魅力である。風羽矢は昔からそんな稚武を信頼していたし、松山もまた心に感じ入るものがあったらしかった。


「……そこまで言うなら、わしももう止めん。勝手にしろ。しかしお前たち、愛比売さまの沼が天山のどこにあるか知っているのか」

「あ」


 沼云々より、まず天山がどの峰を指すのかさえ少年たちには分からなかった。


 まぬけめ、と松山が舌打ちする。


「道案内が必要だろう。……しかたない、わしも行こう。お前たちだけでは愛比売さまに何をしでかすか分からん」

「もちろん、あたしもついていくわ。愛比売さまの巫女ですもの。少しは役に立つと思うの」


 いつの間にか泣き止んでいた紅科が気丈な目をして言った。笑ってさえいる。頬の涙のあとは、嘘のように消えていた。


 かくして稚武、風羽矢、それに松山と紅科は、一路天山の椿沼を目指すこととなった。出発したのは朝のうちである。


 姿が見えなくなるまで彼らを見送った里の衆は、感嘆したように言い合った。


「それにしたって、驚いたもんだ」

「ああ、あの坊主どもが愛比売さまに会いに行くって言ったのにもたまげたが、松山さまとユモリさまはすごかった」

「まったく、迫真の演技だったのう。ご無事に帰られると良いが」


 彼らはしばらくやんややんやと盛り上がっていた。


 白んだ空は青みを増し、快晴を予感させた。

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