第40話


「嘘だ」


 噛みつくように稚武は言った。


「禍の主が……風羽矢だって。そんな馬鹿なことがあるもんか」


 紅科は涙目で稚武を見つめるだけだった。否定はない。稚武は焦った。


「違う……そんなのは嘘だ。だって、あいつは玉なんか持っていない」

御祝玉みほぎだまだ、あれが神器だったんだよ、稚武」


 顔を上げ、桐生は言った。もう迷ってなどいられなかった。


「俺たちが乗っていた船が沈んだとき、俺は見たんだ。風羽矢の御祝玉が赤く光ったのを。光を見たという奴は他にもたくさんいた。けれど、その正体があいつの御祝玉だということを知っているのは俺だけだった……」


 桐生の視線が下がる。


「お前たちの居所を大巫女さまに尋ねに都に戻ったとき、俺も呼ばれたんだ。そして大王おおきみに直接訊ねられた。孤児として泊瀬はつせにやってきた風羽矢は、玉か鏡を持っていなかったかと。だから俺は素直に答えてしまったんだ……あいつは泊瀬に来る前から、御祝玉を胸に下げているって」

「馬鹿な、たったそれだけで禍なんて言われるのか」


 桐生は首を振った。


「その時、大巫女さまがおっしゃったよ。今まで神器の光が二つしか見えなかったのは、一つの神器が目覚めていなかったからではなく――神器の主になる三人のうち、二人が近くにいすぎたからだと。泊瀬に見えたという光は、剣が求めるお前の光であり、玉を持つ風羽矢の光だったんだよ」

「……嘘だ」

「嘘じゃない。風羽矢は――風羽矢も、大王家の血をひく子供だったんだ。大王の兄君の子……お前の従兄弟だ」


 風が吹き、湯気の立つ泉の水面を波立たせた。猿の親子の姿はいつの間にか消え、全身から力が抜けてしまった稚武はよろめいて石垣の上にしりもちをついた。滑った手が温かな湯に沈む。


 桐生は吐くように言った。


「大王はもう全てを知っておられる。そして久慈くじ将軍と俺は命じられたんだ……禍の子・風羽矢を滅ぼせと。大巫女さまが言うには、あいつはまだ玉の力に目覚めていないらしい。ならば皇子の手を汚させるな、って」


 稚武はうつむき、桐生からも紅科くしなからも視線をそらして叫んだ。


「違う――違う!」


 その瞬間、稚武の叫びに共鳴するかのように、剣が大きく震えた。かと思うと、パンと高い音を立てて腰の鞘が砕けた。跡形もなく、粉々に。


「な……」


 剣は地に落ちることなく、純白の光を放ちながら稚武の前に浮かんだ。


「……『取るがいい。玉は憎しみに目覚めようとしている。つるぎもまた、目覚めなければならぬ。それが三種の神器のさだめというもの』……」


 紅科が弱々しく愛比売の言葉を告げる。だが稚武は、光り輝く剣を前にして動けずにいた。


「『宿命から目をそむけるか。大王のために、己が父のために禍を打ち倒すと申したのは空言であったのか?』」

「大王の、ために……」


 ――あの人に、笑ってほしい。


 稚武は胸の御祝玉――桜色の勾玉を握り締め、一度目を閉じた。それからゆっくりと、開く。


「……何を信じたらいいのか、分からない。俺は大王のために呪いを断ち切りたい、ただそれだけなのに。なぜ風羽矢が禍といわれるのか……大王があいつを殺そうとなさるのか、分からない」

「『ならば、己の眼で確かめるがいい。玉は剣を呼んでいる。お前の剣も、玉を求めているだろう』」


 頷くと、稚武は迷うことなく剣を掴んだ。手に取った剣はかすかに震え、あの音を響かせる。


 ――リン。


 はっとして見やると、森の緑の影に白い獣がいた。銀の毛並み――白銀の牝鹿。


「あいつ……!」


 牝鹿は稚武と目が合うと、しばらくこちらを見つめ、さっと森の奥に走り去る。


 ――リンッ。


 せかすように大きく剣が鳴った。


(……わからねぇよ、ちくしょうっ)


 どこまで勘を信じるべきか分からなかったが、稚武は白鹿が去った方を目指して駆け出した。


「お、おい、待て!」


 叫ぶと同時に桐生も駆け出す。だが稚武は振り向きさえしなかった。


 震える剣を手に、稚武は夢中で走った。後ろを必死に追いかけてくる桐生とはどんどん距離が開いていく。地を走っているという感覚はほとんどなかった。まるで宙を飛んでいるようだ。たぶん剣の力だろう。だが、そんなことはもう頭にない。白鹿が消えた方角に向かってひたすら駆けるだけだ。


 稚武はそちらから不思議な力を感じ、呼ばれている心地がしていた。近づくにつれてその声なき声は大きくなる。迷うことはなかった。


 茂りが濃くなり、あたりが薄暗くなってきたころ、ふいに剣がひときわ大きく震えた。なんだ、と思った瞬間、前方で深紅の閃光とともに森の静寂をつんざくような雷鳴が鳴り響いた。轟音は少年の胸を突き、立っていられないほどだった。赤い稲光は一度だけではなく、二、三度炸裂して森を貫いた。


(何が……起こったんだ)


 ようやく衝撃が過ぎ、稚武は立ち上がった。そして光のはじけたもとへと一気に駆ける。胸が気味悪くざわめいた。


 走りながら、稚武はふと手の剣を見つめた。剣の白い光は先程より増して、こぼれんばかりに輝き、鈴の音はうるさいほどだった。それは告げていた――この先に神器の主がいることを。


 行かなくてはいけない。確かめなくてはいけない。ざわざわと血が沸き立つ。だが、行かなくてはならないのだ。


 やがて遠くに森の終わりが見えてきた。稚武は、小さくそこに立つ少年の姿を見た。誰よりも見慣れた相棒――風羽矢が立っていた。


「風羽矢!」


 稚武はその姿を認めるなり大声で呼びかけた。彼が無事でいることにとりあえず安堵したのだ。風羽矢は海を背に、崖の端にいた。


 崖に近づくにつれ、稚武の顔から色がひいていった。森の木のいくらかが燃えていた。先ほどの雷に打たれたのだろう。


 稚武は一瞬怯んだが、いっそう急いで風羽矢のもとへ向かった。助けなければ。


 そうして森から走り出て、稚武は驚愕して足を止めた。まだ風羽矢との間には二十歩ほどある。だが、稚武は動けなかった。周りの木は既に真っ黒に焼け崩れ、その下にはうめき声を上げる人間がいたのだ。彼らは皆ひどい火傷を負っていた。


 そして今、稚武の目の前には、左肩から腕一本を黒く変色させた男が伏せていた。


「――師匠!」


 稚武は悲鳴に近い声を上げて久慈を抱き起こした。彼の左腕はもはや焦げた肉塊だった。久慈は苦痛の声をもらし、顔をきつく歪ませるだけで、まぶたを持ち上げることもしない。だが、わずかに言葉を口にした。


「……風羽矢は……禍の……」


 稚武は弾かれたように目を見開いた。それからゆっくりと、崖に立つ風羽矢に視線を向けた。風羽矢は魂を抜かれたように呆然と立っていた。


 風羽矢は無傷だった。この、地面にさえ無数の焼け焦げがある地で、ただ一人。


 巨木が倒れ、彼以外の全ての人間が傷を負って伏している中で、風羽矢だけが立っていた。


 上着はぼろぼろになっていたが、身体には傷一つない。そして胸には、いつもはしまわれている御祝玉が下がっていた。――濃い赤の光を帯びながら。


「風羽矢……」


 稚武は息を呑んで呼びかけた。幻に囚われているような風羽矢の目が少し宙をさまよい、やがて稚武にさだまった。風羽矢の唇はわずかに震えていた。


 二人はしばらく見つめ合った。稚武はうかがうように、風羽矢はまだ夢のはざまにあるように。


 稚武は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出しながら、口にした。だが喉の震えは隠せなかった。


「お前が……やったのか?」


 風羽矢は答えない。表情一つ動かさないので、もしかしたら聞こえていないのかもしれない。御祝玉はなおも赤く光っている。


 稚武は覚悟を決めなおし、改めて問う。


「お前が、師匠やみんなを傷つけたのか。……玉を使ったのか? 神器の玉を」


 風羽矢はかすかにまぶたを震わせた。薄く開いていた口を閉じる。


 稚武はゆっくりと久慈を地面に下ろし、立ち上がった。


「風羽矢」


 一歩を踏み出したときだった。風羽矢は打たれたように、足元に転がっていた弓をすばやく手に取り、矢を拾って番えた。そして稚武に向かって構える。


「か―」

「来るな!」


 風羽矢はいきなり感情を爆発させた。肩を激しく上下させて呼吸し、おびえきった目で稚武を凝視する。


「来るな……来るな」

「風羽矢……! どうしたんだ。俺だ、稚武だ。わからないのか」


 稚武も衝撃を隠せなかった。風羽矢に矢を向けられる日が来るとは、ただの一度も考えたことがなかったのだ。彼に警戒され、威嚇される日が来るとは。


 だが風羽矢は稚武以上に絶望を見ていた――稚武の手に。そこには淡く白い光を得ている剣があった。抜き身の、澄んだ水面のような切っ先。稚武は全く気づいていなかったが、剣が鞘から抜かれているという事実は風羽矢の胸をもろく砕いていた。


 稚武は殺しにやってきたのだ、玉の主を……自分を。神器の剣の鋭い輝きは、そう思わせるに充分だった。


 稚武は動けずに、だが懸命に風羽矢に向かう。


「落ち着け、風羽矢。俺と戦う気なのか。お前は、本当に禍になるつもりなのか、倭を滅ぼそうって言うのか」

「――どうして……」


 風羽矢は泣いた。弓を引き絞ったまま、弱く首を振る。


「知っていたの……――稚武、君は知っていたんだね。僕のことを。本当の僕を。君はこの体に流れる血を知っていて、禍の子だと知っていて、僕を隣においていたんだね」

「違う」


 驚いて稚武は叫んだ。だが風羽矢はさらに涙をこぼした。


「どうしてなんだ。なんで黙って……倭の禍になる僕を生かしておいたんだ。友達の顔をして、兄弟のふりをして」


 僕は信じていたのに、という悲鳴は嗚咽に呑み込まれた。


 風羽矢の胸の玉の光がわずかに強くなる。それに共鳴するように、稚武の剣もきらめいた。


「どうして僕は君の隣にいたんだ。なんで……。僕は大王の敵なのに。大王は僕の父と母の仇で、君はその子供なのに……」

「違う! やめろ、弓を下げろ、風羽矢。俺が信じられないのか」


 風羽矢の視界は涙でかすんでいた。うつろな目で呟く。


「僕は誰……僕は何なの」


 目の前には何人もの秋津兵が倒れ伏し、森が焼けている。矢を何本も受けた背中からは嘘のように傷が消えていた。


(人間じゃない……僕は……。こんな破壊の力を持っているなんて、傷が一瞬で治るなんて、人間じゃない。なんで僕がこの玉を持っているの。僕は何? どこから来たの。何のために)


「僕は……」


 化け物。忌まわしい子。秋津の『禍』――。残酷な答えはあまりにもはっきりと突きつけられていて、風羽矢はいっそう大きく顔を歪めて泣いた。


「稚武……もっと早く、殺しておいてほしかった」


 こんなふうに一緒に育って、かけがえのないものになってから裏切られるくらいなら。憎まれるくらいなら。捨てられるくらいなら。


(信じていたのに。信じていたのに、僕は。信じて―)


「風羽矢、違う!」


 思わず稚武は一歩踏み出した。その瞬間に剣と玉が強く震え、白と赤の光が膨らんではじけた。


「あっ―」


 二人は思わず目をすぼめた。そのはずみで、もともとうまく力がこもらなかった風羽矢の手から、弦がすべった。ヒュンと光を切り、矢は稚武に届いた。


「うぁっ」


 衝撃で稚武は後ろに倒れた。矢は彼の右肩を裂き、後方の木にびいいんと突き刺さる。


 沈黙のなか、二人は茫然と見つめあった。だが、お互いを見る目はもう以前のようにはいかなかった。


 この瞬間、少年たちはそれぞれ何かが打ち砕かれたのを感じた。それは、この十七年間で少しずつ大事に積み重ねてきたもの、大切なもの、一番信頼していたものだった。そして、一度失われればもう二度と手に入らない類のものでもあった。


 壊れてしまった、と風羽矢は直感した。稚武が自分を見ている。ただ、信じられないという目で。絶望の目で。それはきっと、もう自分が以前の風羽矢ではないからだ。禍の子として目覚める前の風羽矢ではない。己の正体を知らぬ風羽矢ではない。


 稚武の風羽矢は失われ、風羽矢の稚武もまた、永遠に失われたのだった。


 二人の距離はたった何歩か。だが、もう手は届かない。すがっても手の届かない向こうに、親友は遠ざかってしまった。


 風羽矢の頬を涙がすべった。熱い雫は次から次へと溢れてとまらなかった。


「稚武……」


 矢は放たれた。もうなかったことにはできない。


 何より大切にしたかったものを射た矢は、二人の間にあった信頼を打ち砕いた。少なくとも風羽矢にはそう思えた。これでもう、自分は正真正銘『禍』だ。秋津の皇子に弓を引いた者だ。


 稚武の敵になる――風羽矢には自分の未来が黒く塗りつぶされていくのが見えた。なぜならそこには稚武がいない。


 風羽矢の手から弓が落ちた。彼は哀しくて泣いた。どうしたらいいのか分からない。とにかくもう、稚武の前から消えてしまいたかった。


 今、稚武はただ唖然として自分を見つめているが、すぐにその目は憎しみや嫌悪を帯びるだろう――久慈のように。


 風羽矢は何よりもその目が怖かった。稚武にそんな目で見られたくなかった。早く、もうこの瞬間にも消えてなくなってしまいたい。だが、逃げ場はなかった。


 後ろは崖。その下は海だ。空には暗雲が渦巻き、真っ黒な波は荒れ狂っている。


 しかし、その時、風羽矢は気づいた。


(あぁ……そうか)


 行こう。もう二度と、稚武に見られなくてすむところまで。


 稚武はいっそう大きく目を見張った。それまで幼子のように泣いていた風羽矢が、静かに微笑んだからだ。


 温かな涙を流しながら、どこか安堵したように風羽矢は笑った。そして一歩、あとずさる。


「ばっ――やめろ!」


 青ざめて稚武は怒鳴った。後ろは崖――崖なのだ。


「……ごめん、稚武」


 風羽矢は微笑んだまま、涙に濡れた目を細めた。


「生まれてきてごめん……今まで君のそばにいて、ごめん」


 稚武は声にならない悲鳴を上げた。


 風羽矢の微笑みは崖の向こうに投げ出され、濡れた瞳はゆっくりと空をすべった。そして、崖の下に消える。


「風羽矢ぁあ!」


 我を失って後を追いかけようとする稚武を、いつの間にやってきていたのか桐生が後ろから取り押さえた。


「馬鹿、稚武、待て―」

「嫌だ、嫌だ……っ。風羽矢、嫌だ、風羽矢ぁッ」


 うああ、と胸がさけるような稚武の叫びに反応するかのように、剣が強くひらめいた。同時に暗雲から稚武を目がけて赤い雷が落ち、剣の作り出した光によって弾かれる。かと思うと、突然大雨が襲ってきた。


 叩きつけるような雨だった。誘われたように風も吹きつけ、海岸は嵐となった。空も海も黒い闇。気を抜けば吸い込まれてしまいそうな底なしの闇だ。


 稚武は泣き叫んだ。泣きながら、ここが何度も夢に見た男女が心中する崖であり、彼らは風羽矢の親であり、そして風羽矢を連れ去ってしまったのだ、と頭のどこかでさとった。


 だがそんなことよりも、ただ、自分の片割れを失ったことが哀しかった。胸がつぶれてしまうほど苦しかった。


 桐生が無理やり担いで連れ帰るときまで、稚武はずっと嵐の海に向かって風羽矢の名を呼び続けた。

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