第22話


 幻のように春の桜は散り、みずみずしい青葉が一斉に茂りだした。夏までの間に稚武わかたけ風羽矢かざはやはまた書物を一つ二つ読み終え、剣の腕を上げた。


 倶馬曾クマソ討伐軍の徴兵は二人のあずかり知らぬところで着々と進み、実感の湧かないままにとうとう出立の日となった。


 その朝、出陣の儀式も済んでいよいよという時に、稚武と風羽矢は大王おおきみに呼ばれた。


大泊瀬おおはつせ、それに風羽矢。二人とも、今日までよく厳しい修練に耐えてきた。わたしは、そなたらを誇りに思う」


 二人は照れてちぢこまった。おろしたての鎧を身に着けている稚武は、はにかみながら言った。


「もったいないお言葉です。まだ倶馬曾を平定してきたわけではないし、神器を破壊してきたわけでもないのに」


 そうだったな、と大王は笑った。


「だが、大泊瀬、そなたならやり遂げられると信じている。わたしは都に残るが、いつでもそなたの身を案じているよ」

「ありがとうございます……大王」


 心から喜んでいる稚武であったが、大王はふっと寂しげに微笑んだ。


「……結局、そなたはわたしを父とは呼んでくれなかったな、一度も」

「えっ」


 稚武はわたわたと焦って手を振った。


「違います、違うんです。別に、大王を父と思えないとか、そういうのではなく……っ。ただ、あの、本当にそう呼んでいいのか、自信がもてなくて」

「自信?」


 きょとんとした大王に、稚武は頬をかいて頷いた。


「はい……俺はまだ、皇子として一人前ではないですから。――だから、ちゃんと倶馬曾を平定して、神器の呪いを解いて、そうして帰ってきたときには、呼ぶことができると思うんです。……父上様と」


 聞いている大王の顔が晴れていく。


「俺、もっとしっかりとした男になって帰ってきます。あなたを父と呼ぶのにふさわしい男に。だから…待っていてください」


 大王は満面の笑みで頷いた。


「そうか。――ああ、待っているとも。そなたの無事を祈りながら、わたしはこの地で待っているよ」

「はい」


 稚武はかすかに頬を赤らめながら、嬉しそうにこたえた。そんな相棒を、風羽矢は少々羨ましくも微笑ましい気持ちで見守っていた。


「皇子、そろそろ出立の時間です」


 親子の別れに区切りをつけさせなければならない立場の久慈くじが、決まり悪そうに言う。


 稚武は素直に頷いた。


「はい。……では」


 ああ、と大王は名残惜しそうに頷いたが、ハッとして稚武を呼び止めた。


「待ちなさい。――そなたに、これを渡しておこう」

「は……」


 立ち止まった稚武に歩み寄り、大王は自分が首から下げていた勾玉を外して差し出した。


 その勾玉は美しい桜色をしていた。珍しい色だ、と単純な感想をもって、稚武はうやうやしくその勾玉を受け取った。そしてさらにしげしげと見つめる。


 大王はおだやかに目を細めた。


「ずっと渡しそびれていた。それは、そなたのための御祝玉みほぎだまだよ、大泊瀬」

「御祝玉」


 稚武は目を丸くして大王を見た。


「俺の……ための?」

「そうだ。もちろん、大王家の御祝玉である神器の『玉』とはわけが違うが。……昔ね、わたしが宮古みやこに妻問うた時に贈ったものなのだよ。だが……彼女は宮から姿を消したとき、これだけを残していったのだ」


 言葉もなく桜色の勾玉に目を凝らしている稚武に、大王はにこりと笑んだ。


「持っていきなさい。きっと宮古がそなたを守ってくれる」

「はい…!」


 我にかえり、稚武は頬を上気させてその御祝玉を首に下げた。


「ありがとうございます、大事にします…っ」


 ああ、と大王は満足そうに微笑んだ。


「では、行って来るといい。体には気をつけよ」

「はい」

「倭の未来を頼んだ」


 稚武は勢いよく頷いた。


「はい、行って来ます!」


 弾けるような笑顔だった。誰もがその笑みに魅了されていたので、気づく者はいなかった。稚武を見送る大王が、ひっそりと目を潤ませていたことに。

 

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