第23話


 大泊瀬皇子おおはつせのみこは、難波津なにわづの港までの道中、輿を使わずに自ら馬にまたがった。さらに従者である風羽矢かざはやと馬を並べて、悠々と景色を眺めているあたりが、周囲の若者の間で気さくな皇子だと評判が立った。


 もちろん渋い顔をする連中もいる。後者を代表したのは久慈くじだった。


「皇子、兵たちと打ち解けることも重要ですがね、もう少し威厳というものも大切になさっていただかないと」

「へーい。わかってるって、師匠」


 答えたが、稚武の目は初めて見る山並みからちっとも離れていない。しかもすぐ隣の風羽矢と、あの辺りの集落は炊事の煙が多く立っているから豊からしいとか、橋がしっかりとしているから村の統率が取れているみたいだなどと楽しそうに言い合っているのだった。


 諦めたらしく久慈がため息をついて馬を下げたあとに、風羽矢は稚武にこっそりと言った。目は嬉しそうに躍っていた。


「上機嫌だね、稚武。大王おおきみ御祝玉みほぎだまを戴いたことが嬉しいんだろう」

「わかるか、やっぱり」


 どうしても緩んでしまう頬を隠せずに稚武は言った。


「なぁ、風羽矢。嬉しいもんだな、親に想われてるって。御祝玉って、いいもんだな」

「うん」


 風羽矢は頷き、服の上から自分の御祝玉に手を当てた。


「僕も……会ってみたくなったよ、お父さんやお母さんに。そうじゃなくても、じじさまとかばばさまとか、もしかしたらいるかもしれない兄弟とかに」

「そっか」


 稚武は初めて気づいたという風に目を丸くした。


「そうだよな、お前、もしかしたら兄弟がどこかにいるかもしれないんだよな。……なんだか不思議だ。俺には兄弟がいないし、桐生兄やお前がいたから、そんなこと考えたこともなかった」

「僕だって、今ふと思ったんだよ」


 手綱を引きながら風羽矢は言った。


「どこかに、いるんだろうか。僕の本当の母親や父親は、僕のことを忘れていないだろうか……」

「まさか。だってお前に御祝玉を預けたくらいだぜ。きっと今だって、お前に会える日を待っているに決まってるさ」

「そうかな」


 風羽矢は稚武の言葉に励まされて声を明るくした。


「だったらいいな。僕も……会ってみたいなぁ」

「だから、向こうに行ったら探そうって言ってるだろ」


 稚武は歯を見せて笑った。


「大丈夫、きっと何かしら見つかるって」

「君がそう言うと、なんだか本当に会えそうな気がしてくるから不思議だよ」


 稚武について来てよかった、と風羽矢はしみじみ思った。親になど会えなくても、彼とともにいられたらやっぱりそれでいい、と。


 彼らが気軽に笑いあっている間にも、旅立ちの海は刻々と近づいてきていた。


 何度か昼夜が入れ替わり、一団が難波津にたどり着いたのは夕方だった。空には雲一つなく、風は穏やかで、夕陽で真っ赤に染まった波は静かに打ち寄せては返してを繰り返していた。


 少年たちが海を目にしたのはこれが初めてだった。二人はまずぽかんとして浜辺に立ち、空も海も深紅に染まったその光景に度肝を抜かれていた。


 それから、すぐにはしゃいで海に飛び込んで行ったのは稚武だった。


「う――わ――っ」


 鎧を脱いでいた彼は、高価な服が濡れるのも構わず、幼い子供のように波につっ込んだ。


 ざらざらとする足の裏の感触が面白い。押し寄せる波が飛び散って口に入り、辛いような苦いような味がしたのにもまた大きく笑った。盛りにはまだ早いとはいえ、日差しは日増しに夏の眩しさを強くしていたので、うっとうしい汗も流れて気持ちいいことこの上なかった。


 大喜びで稚武は風羽矢を呼んだ。


「おおーい、風羽矢。早く来いよ、楽しいぞ、これ!」


 うん、と風羽矢は答えたかった。だが唇が少し震えただけで、声などはちっとも出なかった。さらに足などはもう立っている感覚も失っていた。


 見開いたままの風羽矢の目に、海が映る。沈もうとしている太陽の赤は、血のようにしか見えなかった。波に呑まれながら遊んでいる少年の姿は、血を浴びているようにしか思えなかった。


 ドクン、心臓が不吉に跳ねる。


 耳の奥で、波の音が何重にも重なってこだまし、鼓膜を不気味に撫でてひどく気持ちが悪い。その乱れた雑音の中で、誰かが言った――「海の下は真っ暗だ。何もない。誰もいない」。


(え?)


「風羽矢?」


 ぎょっとしたことに、目の前に稚武の顔があった。


「うわぁっ」


 風羽矢はびっくりして後ろに飛び、どっきどっきと忙しい心臓を押さえた。


「……ああ、稚武」

「なんだよ、そんなに驚くか、普通」


 稚武は頭までびっちょりと濡れていたが、偉そうに腕を組んで首をかしげた。

 風羽矢は早鐘のような胸に手を置いて、ぎこちなくもハハ、と笑った。

 稚武はさらに訝しんだ。


「何をそんなにボーッとしていたんだよ」

「……何でもないよ……」


 風羽矢は笑ってみせながらもうつむいた。顔を上げてまた海を見るのが怖かった。


「……はっはーん」

 合点がいったように稚武はにやっとした。


「なるほど。風羽矢、お前、さては海が怖いんだな?」

「……うん」


 嘘をついても仕方がないので、風羽矢は素直に頷いた。すると恐ろしいことに、稚武が手をとって海に向かって引き始めた。風羽矢はさっと蒼白になる。


「なっ……やめてよ」

「大丈夫だって。波打ち際ならすぐ深くなったりしない。ちょっと足をつけるくらい、してみろよ」


 憎らしいほどのん気に稚武は言った。


 いやだ、と風羽矢は必死に抵抗しようとしたが、恐怖がすぎて体がうまく動かない。これは川に入って体が固まった時と同じ感覚だ、と冷たい心臓で思った。どうしようもなかったが、せめてもときつく目をつぶる。


 ずるずると引きずられて、ついに風羽矢の素足に冷たい水が触れた。心中で短く悲鳴を上げる。すると、頭上から稚武が楽しそうに言った。


「ほら、目を開けてみろってば。ただの水だよ。このくらいなら怖くないだろ」


 怖いよ、と風羽矢は胸中で言い返した。だが稚武は腕を放そうとしない。じっと固まっている風羽矢に、稚武は少々真面目な声音で言った。


「おいおい。このくらいをいちいち怖がってたら、倶馬曾クマソまでなんかとうてい行けっこないぞ。置いていかれてもいいのか」

「いやだ」


 思わず風羽矢は即答した。


 そうだ。怖がってはいけない。稚武の足を引っ張ってはいけない――


 風羽矢は息を落ち着け、ぎゅっと稚武の袖にしがみつきながら、そろそろと片目ずつ開いてみた。すると不思議なことに、海も空も変わらず赤かったが、それを血の色とは思わなかった。きれいな夕焼けの色だ。


 あれ、と思いながらもホッとして、風羽矢は力が抜けたように稚武の袖を離した。


「どうだ?」


 神妙そうな顔をして稚武が訊ねる。風羽矢は顔を上げてにこっと笑った。


「大丈夫。涼しいね」

「だろ」


 嬉しそうに言ったかと思うと、稚武は風羽矢に向かって波を弾いて水しぶきを喰らわせた。頭から水をかぶった風羽矢は一瞬何が起きたのか分からなかったが、はっと気づくとすぐに反撃に出た。そうして二人は、高らかに笑いあいながら夕陽が沈みきるまで波際で遊んでいた。


 景色は上も下も赤一色で、水をかけ合うことに夢中であったから、少年たちは気づかなかった。風羽矢の服の下の御祝玉が、夕陽にも血にも似た深紅の光を放っていたことに。

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