第13話
忙しすぎる日常の中で、
風羽矢はともかく、稚武は若い女中に対して愛想の欠片もなかった。それでも
一方で、母親のような年頃の女性に対しては、稚武も世話をされることを厭わなかった。積極的に会話を持ち、すぐになじんでいった。
理由としては、稚武の生まれ持った気性によるものも大きいが、その話の内容が大王の若い頃の話であったこと、そして
「お二人はそりゃあ仲が良ろしかったんですよ。特に大王が情熱的でですね、わたくしどもなんかはよく妬いていたものですわ」
いつも稚武と風羽矢の食事の面倒をみてくれるその女性の名は、
彼女は懐かしむように宮古を語った。稚武に聞かせるためというよりは、自分が語りたいから語っているようだった。
「田舎から出てきた端女の宮古と……当時はまだ皇子であられた
稚武はこういうとき、だいたい黙って聞いていた。恋というものがどういうものなのか、まったく経験のない彼であったから、半分は他人事のようだった。
だがやはり、父と母のことを聞けるのは嬉しかった。それを喜んで話してくれる人がいることも、とても幸福に思えた。
「けれど、大王の真剣さに負けて、とうとうお二人はお互いに恋をしていると認め合ったのです。女中はみんな負けを認めたものですわ……大王の目には宮古しか映っていなかったんですもの」
石和はひそっと言った。
「今の皇后の
稚武はつられたように緊張した。
「それで…母はどうして、俺を
いいえ、と彼女は頬に手を当てながら首を振った。
「それはわかりませんわ……。たぶん、誰にも。わたくしたちさえ、宮古が身ごもっていたなんてまるで気づきませんでしたし。ある朝突然、姿を消したのですわ。…あの頃、確か、大王は遠征にお出かけなさったところで、都にはいらっしゃらなかったのです」
石和は曇り顔で言った。
「ですが、なんとなく気持ちは察せますわ。きっと、他の妃様たちが恐ろしかったからです……。あの方々は嫉妬深いところがおありでしたから。誰一人として御子を生んだ方はおれませんし。そこで身分のない女中の小娘なんぞが皇子の子を生めば、どういう目に遭うかわかりませんもの」
稚武は厳しい顔をした。それから沈んだ声で言った。
「やはり母は、俺を守ってくれたのだろうか」
「そうでしょうとも」
石和は声音は確信を持っていた。
「宮古は自分の子供を不幸にするような人ではありませんでした。いつも前向きで、太陽のような人……わたくしたちは、彼女に嫉妬したというより、ただ羨望していたのです。憧れて」
彼女は穏やかに遠い目をしていた。そこに風羽矢が部屋に戻ってきた。
「稚武、
「おう」
稚武が立ち上がると、石和はにこやかに「いってらっしゃいませ」と送り出した。それから、言い忘れたというようにハッとして言った。
「そうでございました、皇子。宮古が大王と恋をしていたのは、ちょうど今の皇子や風羽矢さまのお歳でしたのよ」
狩りに出かけた稚武たちは、予想以上の獲物を手に宮に戻った。そこで、稚武と風羽矢は二人でその戦利品を大王におすそわけしに向かうことにした。
今日一日、稚武はどこかぼんやりとしていて、ずっと気になっていた風羽矢はとうとう訊ねてみた。
「どうかしたの、稚武。何か考え事?」
「え、いや、……うん」
えものを縄でくくって肩に担ぎ、稚武は視線を落として言った。
「……風羽矢、お前、好きな女とかいないのか」
「ええ? なんだい、いきなり」
風羽矢は腹の底から驚いた。まさか彼が恋を口にするとは思わなかったのである。
「稚武、好きな人ができたの?」
稚武はぎろりと睨んだ。
「先に訊いたのは俺だろ、答えろよ」
「いないよ、僕は」
「……そうか。俺もいないよ」
なんだ、と風羽矢は期待を裏切られて肩を落とした。そんな彼に、稚武は真面目に言った。
「なぁ、風羽矢、お前まで俺に付き合う事はないんだからな。お前がだれかに惚れたら、協力してやるし」
「……何か変なものでも食べた?」
気味が悪いといって風羽矢は顔をしかめた。稚武は怒ったように眉根を寄せたが、言動が自分らしくないことは自覚しているらしく、大人しい声音で言った。
「なんで俺は、女を好きになれないんだろう……」
「どうしたの、突然」
事は深刻らしいと、風羽矢はここで感じた。
「宮古と大王が出会って恋をした歳は、俺たちと変わらないんだと。……なのになんで俺には、そういうのができないんだろう」
十四歳になれば、もう妻や子がいても早すぎる歳ではない。事実、その歳の大王はすでに今の皇后――中菱姫と結婚していたという。宮古に出会ったのはその後だったと。
さらに稚武は、風羽矢がそういうことにまるっきり興味がないわけでもないことを知っていた。彼はまだ芽が出るかという段階なのだと、泊瀬にいたころからなんとなく感じていたのだ。
――風羽矢が里娘に愛を打ち明けられているところを何度か目撃したことがある。そういう時、彼はいつも一言の謝罪の言葉で断っていた。決まって頬を薄く赤らませながら。
そのような心地さえ、稚武にはよく分からなかった。
なぜ謝る必要があるのか。なぜ頬を赤くする必要があるのか――。
けれど、おかしいのは分からない稚武のほうで、世間一般ではそれが普通だということも知っていた。
「俺、変なのかな。なんか足りないのかな……」
「そんなことないと思うけど。……きっとまだ早いんだよ。これからなんじゃない?」
そうかな、と稚武はさらに顔を暗くした。いつか自分が恋をするということなど、まるで実感がわかないのだった。
風羽矢も口にこそ出さなかったものの、恋について、稚武がどこか他の人間と違うところにいるように感じていたのは確かだった。
女の子が一様に稚武に惹かれるように、彼は彼女たちに嫌悪を抱くのかもしれない。好かれれば好かれるほど、稚武の心は冷めて響かないように思えた。
「……このままじゃいけないとは思ってるんだ」
稚武が何を考えているか、風羽矢にも分かった。
「そうだね。君はたった一人の皇子だもの。早く次の日嗣が欲しいって思ってる民は大勢いるだろうね。戦争にいかなくてはならないし……万が一のことがあったら、それで皇は途絶えてしまうかもしれないんだから」
うん、と稚武は頷いた。それから風羽矢を見た。
「お前が先に誰かを好きになってみれば、俺もできるようになるかな」
「えっ……どうかなぁ」
風羽矢は困ってしまった。少なくとも稚武が落ち着かない限り、自分に恋人はいらないだろうと思っていたのだ。
「焦らくていいと思うよ。大王も、何もおっしゃっていないんだろう?」
「ああ」
稚武は肩を竦めた。
「それどころか、お会いするのももうしばらくぶりだよ。また目線の位置がちょっと変わったかな」
稚武と風羽矢が稽古詰めの日々でてんてこ舞いになっていれば、大王もまた政務に忙殺されているらしかった。
しばらく会っていない間に、少年たちはまた身長を伸ばした。体つきもいっそうたくましくなり、長い腕と足は整ってすらりと伸びていた。
風羽矢は笑った。
「驚かれるかもね」
果たしてその言葉どおり、猪を丸ごと献上した二人を見て大王は目を丸くした。身長にもそうであるが、少年たちがよく日に焼けていたからだった。
「狩りに出かけたのか、ありがとう。大泊瀬、どうやら弓の腕は上達したのだな」
「前よりは」
稚武は苦笑いで答える。
「最近は剣の稽古ばかりです。――あ、でも、この剣は振り回していませんから安心してください」
腰元の草薙剣に手を当てて、稚武は言った。神器であるその剣は今、一流の職人によって作られた鞘に収められていた。輝く宝石が散りばめられた、見るからに値の張るものだ。
大王は意外なことを言った。
「振り回してもかまわぬよ。どうせそなたにしか扱えないのだし、まだ神力を発揮することはないのだろう?」
「えっ」
稚武たちがびっくりしていると、大王はふと気がついたという顔をした。
「そういえば、そなた、まるで浮いた話を聞かないな。恋はしていないのか」
突然の話題に稚武は言葉を失った。間が悪い、と風羽矢があたふたしているうちに稚武は覚悟を決めて、そっと尋ねてみた。
「……恋というのがどういうものなのか、俺にはよく分からないんです……。あの、おかしいんでしょうか、俺」
「まだ出会っていないだけだろう」
あっさりと大王は答えた。そしてまたいきなり話題を戻した。
「そなたの剣はまだ不完全なのだ。神力を発するにいたっていない」
稚武はぎくりとした。
「俺の力が足りないということですか」
「そうではなく――いや、そうとも言えるのかもしれないが。鞘が足りないのだよ、そなたの剣には」
「え? でも、鞘なら、こんなに立派なものを頂きました」
「そんな
丹精込めて作られたその鞘を、大王はばっさりと否定した。職人が聞いたら涙するであろう。
「剣というものは、刀身と鞘がそろってこそのものだ。真の鞘を得たときに初めて、剣の主は神器の真の力を解放できる」
「そういえば、以前にもおっしゃっていましたね。本物の鞘がどこにあるか、誰にも分からないと。でも、どこかに必ずあるんですね?」
「そうだ。そしてそれは、そなたが自分自身で見つけ出さなくてはならない。そなたの剣の、鞘となる女性を」
ぶほっと稚武と風羽矢は同時に吹き出した。そして二人してむせた。咳き込みながら、稚武はひっくり返った声で訊いた。
「お……おんなを、ですかっ?」
それとこれとは全く異質な話に聞こえる。隣の風羽矢も同意見だった。
だが、大王は大真面目に言った。
「陰と陽、天と地、陸と海――剣と鞘、そして男と女。対極がそろっていればこそ世は安定する。王には后が必要だ。神器の剣に見合う女性がな」
そのうち記伝を習えば知るところだが、と言って彼は語った。
「
稚武と風羽矢は息を呑んで聞いていた。
「姫を失った命はそのまま、東の地で果てて亡くなってしまわれた。『鞘』が失われたことで、剣が命を見放したのだ」
そうして大王は寂しげに微笑んだ。
「わたしも同じだ。わたしの『鞘』をなくしてしまったから、剣は眠っていたのだよ。もう、何年もの間……。次なる後継者、そなたが現われるのを待って」
大王の言う『鞘』とは誰のことなのか、稚武は訊いてみようかと思った。それは宮古のことなのかと。
だが何となくはばかられた。きっとそうであろうという確信はあったからだ。
「あせることはない。そなたの心はいまだ未発達のようだな。だが、時が来れば自然と分かるものだよ、この娘が己の『鞘』だと」
大王は、難しい年頃の息子に対する父の顔で笑っていた。
「そなたの胸の情熱は、その娘のためにとっておいてあるのかも知れぬ」
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