第12話

 季節は移り、日差しの厳しい夏の盛りとなった。


 実はひそかに予想していたことだったが、風羽矢かざはやは窮地に立たされていた。


 久慈くじが季節に合わせて、稚武わかたけと風羽矢に泳ぎを教えようというのだった。


 山の谷川に連れてこられた風羽矢は、当然のように溺れた。


「泳げないなら泳げないと、なぜ先に言わなかったのです」

「ごめんなさい、師匠……」


 間一髪のところを救出された風羽矢は、決まり悪そうに言った。


「自分でもよく分からないんです。顔を洗ったりするのは怖くないし、浅い川なら遊ぶのも楽しいんですけど。こういう川につかってしまうと…」

「浅いとは、どのくらいまでですか」

「……足首までです」


 目の前にある川は腰ほどのものだった。そこで悠々と泳いでいた稚武は、水しぶきを上げて身を起こした。


「昔からそうなんだよ。弓の得意な風羽矢は弓で獲物を獲って、泳ぎの得意な俺は魚を獲る。今までそれでうまくやってきたんだから、それでいいんだ。誰にでも苦手なものってあるんだよな。そうだろ、師匠」


 久慈は渋い顔をした。


「ですが、泳げないとなると……海の上での戦いには不利です」

「僕、頑張ります。ちゃんと泳げるようになりますから」


 急いで風羽矢は言った。駄目なのだ――少しでも稚武の足手まといになっては。それではここにいる意味がなくなる。追い出される、捨てられる。


 風羽矢は勢いだけで川に飛び込んだ。けれどもやはり体が固まって、結局は稚武に助け出されるはめになった。


 仕方がないので、少しずつ慣れていこうということになった。まず足首だけつけ、落ち着いたら、膝までつけ……だが、いつまで経ってもそこから先には進まなかった。


 久慈も、風羽矢が決して根性なしではないと知っていたので、数日かけてカナヅチを克服させるつもりでいた。


 しかし、風羽矢はやはり膝下が限界だった。勇気を振り絞ってそれ以上入ると、体がかたくなり流されて溺れてしまうのだ。


 稚武が腕を掴んでいると、風羽矢は全身が水につかっても騒がなかった。頭まで入れていた――恐怖のあまり気を失っていたのだった。


 もしや水に流れがあるからいけないのかということになって、川ではなく沼に場所を移した。だがそれも、股下が精一杯で終わった。


 日に日に、風羽矢はやつれていった。顔色はつねに青白く、食も進まなかった。


 しかし周りに心配をかけまいと無理に食べ、元気にふるまうので、隣で見ている方の稚武は気が気ではなかった。


 そしてついに、風羽矢は倒れて立てなくなった。


「お前なー……」


 稚武は呆れて言葉が続かなかった。濡らした浴布を風羽矢の額にのせてやって、隣で頬杖をつく。


「……ごめん、迷惑かけて」


 寝台に寝かされた風羽矢は、熱っぽい声で言った。


「僕のことは放っておいていいから、師匠と出かけてきてよ。僕に付き合うことないから」

「俺も一緒に休めって師匠が言ったから、いいんだよ。お前は何も気にしないで大人しく寝てろ」


 不覚にも風羽矢は泣きそうになった。熱のせいで精神的にもまいっているらしい。


「ごめん……僕、役立たずで」

「はあ?」


 稚武は思い切り眉を寄せた。


「だって……情けない、泳げないなんて。せっかく師匠や稚武が教えてくれてるのに」

「しかたないだろ。人間には向き不向きがあるんだよ」

「足手まといになりたくないのに……」

「そんなので足手まといになんかなりゃしないって。いいじゃんか、その分、弓矢で活躍すれば」


 言いながら稚武も寝転び、昼寝の態勢になった。


「でも、僕、泳げるようになりたいんだよ……。稚武が泳いでいるのを見ると、とても気持ちよさそうなんだもの。君と一緒に泳いでみたいんだよ、本当に」

「俺だってお前みたいに弓がうまくなりたいよ」


 稚武はあくびを一つして目を閉じた。


「水が怖いって、どういうふうに怖いんだ? 流されそうになるから……じゃないよな」

「……分からない。でも、水は……怖いものなんだよ」


 風羽矢は自分でも懸命に考えてみた。だが思考は熱にさらわれ、口を出た言葉は無意識だった。


「水の下は真っ暗なんだ……誰もいないんだ。全部、のみ込んでしまう」

「え?」


 稚武は身を起こして聞き返した。だが返事は返ってこない。風羽矢は眠ってしまったようだ。


(なんだよ。……水の下は、真っ暗?)


 風羽矢は知らないのだろう。山あいを流れる清流の中の世界を。澄んだ光に照らされた魚たちの楽園の美しさを。それを知らないのは損だ、と稚武は考えた。


 稚武には幼い頃に溺れて死にかけたことがあったが、だからといって川を怖いだけのものとは思わない。


 しかし、風羽矢の言いたいことも分からないではなかった。真っ暗で、誰もいない闇の世界。そういう水を、稚武は夢で知っていた。


 忘れた頃に襲ってくる悪夢――行ったことなどないはずの、嵐の海だ。


 夕方にやってきた久慈は、風羽矢の泳ぎについて、無理はさせない方がいいだろうと言った。実際、それだけにかまっている暇はなかったのである。武術の稽古や薬草摘みなど、やらなければいけないことは後にまだまだ控えていた。

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