石上の都

第11話


 久慈くじの言葉どおり、国を挙げての大宴会となった。

 稚武わかたけは毎日のように目が回るほどの酒を勧められ、気前よくそれに応じて呑んでいたが、しまいには本当に目を回して倒れた。連日連夜続けられた宴会の、終盤の内輪だけのものであったことが唯一の救いだ。


 涼しい幕の裏で横にさせられた稚武を、風羽矢かざはやは広い団扇でぱたぱたと扇いでやった。


「馬鹿だね、稚武」

「うるへ~…」


 青い顔で目を瞑ったまま、稚武は情けない声で返した。それから億劫そうにまぶたを持ち上げると、恨みがましい目で風羽矢を見やる。


「お前、よく平気だな。自分だって呑んだくせに」

「うん、なんでかな、平気だよ。僕、お酒には強いみたい」


 風羽矢はけろりとして答えた。


 酒というものは、今まで正月などの特別な儀式のときにちょっぴり口に含む程度のものだった。呑むというほど呑んだのはこれが初めてだ。だが、風羽矢はどうやらザルらしかった。


「でも、僕が飲んだのはさっきだけだし。君はもう毎晩呑まされてるじゃないか。無理ないよ」

「うう……目がぐるぐるする……」


 薄暗い天井を見上げ、稚武はくらくらする頭を放り投げたい衝動に駆られていた。


 幕の向こうの賑やかなさんざめきが腹立たしい。


 腰にかけた草薙剣が、今に限って重く苦しい。ちなみにこの鞘無しの剣は今、厚い布でぐるぐる巻きにされている状態である。


大王おおきみもあまり呑んでいらっしゃらなかったみたいだね。お酒に弱いのはお父さん譲りなのかもよ」

「……げろげろ……」


 もう言葉を返すのも辛いようだった。


「しかたないなぁ、バカタケ。皇子みこ様になったっていうのに、威厳もへったくれもないじゃないか」


 ため息をついて言い、風羽矢は静かに稚武を扇ぎ続けた。


 風羽矢という少年の存在について、どうやら周囲の人間は皇子の乳兄弟ということで認めてくれたらしい。人に会うたびにそう紹介してくれたのは久慈だ。


 泊瀬はつせの里長の家で育ち、と言い、孤児でと言わないのは、まあ当然だろう。風羽矢としても、彼の心配りはありがたかった。自分がそばにいるせいで稚武までが侮られては困るのだ。


 これからは、側近として稚武に始終ついて回ることになる。それが親無し子である身にとっては不当なほどの幸運であることを、風羽矢は肝に銘じていた。


 稚武はあるべきところにいる、大王の子であるから皆にかしずかれる――だが自分は、なんの後見も権利もなく、事のなりゆきだけで宮で暮らすことが許されているのだ。


 稚武に突き放されれば、それでもう一秒だってここにはいられない。彼に話しかけることも許されない。風羽矢は、自分がそのようなもろい場に立っていることを忘れてはいけないと考えた。


 宴でお酒を口にできたのも、初めて目にするごちそうをつまめたのも、すべて稚武のおかげなのだ。そして、稚武のそばにいられることすら、稚武がそう望んでいてくれるからこそなのだった。


 ときおり力ないうめき声を上げる稚武にそよ風を送りながら、風羽矢はぼんやりと自分の身の上について想いをめぐらせていた。


 そのとき、ぱさりと幕が鳴った。


「どうですか、皇子のお具合は」


 入ってきたのは久慈だった。風羽矢は肩を竦めた。


「まだ駄目みたいです」

「そうですか…そろそろお開きにしようかと言っていたところなのですが、皇子が戻られないようでしたら、そうしましょうかね」

「すみません」

「なに、風羽矢殿が謝られることではないですよ」


 久慈は苦笑した。この人はいつまで僕に敬語を使うつもりなんだろう、と首をかしげながら、風羽矢はいまだ蒼白の稚武の顔を覗き込んだ。


「稚武、起きられるかい」


 彼は「うぅ~……」とうなったきり沈黙した。


「……どうやら、ここにおられるより、もう宮に戻られた方が良いようですね。お運びしましょう」


 皇子として公に出る前、稚武は新しい部屋を戴けると言われた。しかし実際に受け取ってみると、それは部屋ではなく、一つの宮を丸ごとであったのだ。現在彼が生活しているのは、皇太子の住居である東宮はるのみやである。


 久慈は一度幕の向こうに戻って大王に奏してから、また来て稚武を抱き上げた。彼は大柄で、まだ伸び盛りにある稚武を持ち上げるのは容易いことのようだった。


 ぐったりした稚武を宮に運ぶ回廊で、久慈は、宴会ももう今日で終わりだと言った。


「明日からは、お二人に稽古を受けて頂かなくはなりません。と言っても、わたしがお教えできるのは武芸と兵法ぐらいなものです。あとは、作法の基本でしょうか。遊芸やら文字やら数のことなどは、他のかたが師としてつくことになるでしょう」

「……僕なんかが、本当にそんなことを学ばせてもらっていいんでしょうか。こんな、すごいところで」


 風羽矢が弱音を吐いたのは、稚武が酔いつぶれて聞いていないからだった。


「僕は本当に、宮においてもらっていい人間なんでしょうか……そんな価値のある人間なんでしょうか」

「それは、これからのあなた次第です」


 久慈は穏やかに言った。


「あなたは自ら望んでここに来られたのでしょう。ならば卑屈になってはいけません。学べるだけ学んでやるというくらいの気概で望まなければ。あなたの価値が決まるのは、その後ですよ」

「……はい!」


 風羽矢はなんだか胸が軽くなった。稚武以外からの言葉には、それ特有の貴重なものがある。


「頑張ります。稚武や大王のお力になれるように……ここに置いてもらえるだけの価値のある男になれるように」

「ええ。わたしの稽古は厳しいですよ、ついて来てくださいね。……皇子が明日の朝、起きられるかが心配ですが」

「たたき起こします」


 風羽矢は稚武の寝起きの悪さを知っていた。それで遠慮なく言ったのだが、久慈は吹き出して笑った。


「ははは、いいですね。そのように仲のよろしい者が近くにいれば、皇子ものびのびと修練なさるでしょう。お互いに切磋琢磨なさってください。将来が楽しみですよ」

「はい! 明日は何から始めるんですか?」


 風羽矢はわくわくして訊いた。


「まずは体力をつけることからですね。山に出かけて、都の周りを巡ってみましょう」


 すよすよと眠り始めてしまった稚武を寝台に寝かせ、久慈は風羽矢に言った。


「先に、あなたにお話ししておきたいことがあります。……宮の中は華やかですが、決して守られた空間ではありません。つい先日までこもにいたあなたがたにとっては、突然飢えた熊のあなぐらの中に放り込まれたも同然でしょう。誰に対しても気を抜きませんように。皇子をお守りしなくては」

「守る……何からですか」


 風羽矢は息を詰めるようにたずねた。


「何から、誰からというわけではありません。全てからです。皇子は失いがたい存在です。その分、敵は多いでしょう」


 久慈の重い声音に、風羽矢はすっかり怖気づいていた。


「権力争いというやつですか」

「ええ」

「でも…だって、皇子は稚武しかいないのに。稚武がいなくなったらみんなが困るのに」

「今まで皇子がなかった分、大王の後釜を狙っていた者は多かったのですよ」


 久慈はひそやかに言い、戸口に立った。


「ご本人にも忠告しておかなければならないことですが。あなたも充分に注意しておいてください。いいですね」

「はい」


 よろしい、と久慈は頬を緩めた。


「では明朝、日の出と同時に外に出られるようにしておいてください」

 

 翌朝、初めての稽古の緊張のためか、風羽矢はずいぶんと早く目が覚めた。さて稚武を起こさなくてはと寝台の彼を見やると、驚いたことに、稚武はすでに目覚めて半身を起こしていた。


「稚武?」


 思わず名を呼んだ風羽矢の声に、稚武はびくっと肩を揺らして振り返った。


「――お…おう、起きてたのか。何だよ、おどかすなよ」


 稚武は笑っていた。だが薄闇の中、彼の顔は青く陰って見えた。


「稚武……? どうしたの、何か顔色が悪いよ。二日酔い?」

「いや、別に」


 言い、彼は寝台から下りて身支度を始めた。


「今日から久慈に色々習うんだったよな。お前もさっさと支度しろよ」


 風羽矢は不審に思いながら告げた。


「日の出には外に出られるようにって言ってたよ」

「え、そうか、寝坊しなくて良かった。昨日は酔いつぶれてそのまま寝ちまったんだっけ……だからあんな夢を見たんだな」

「夢?」


 そうだよ、と稚武は苦い顔をしてうなづいた。


「よく覚えてないけど、何か嫌な夢を見たんだよ。すごく嫌な夢だった。でも、初めて見たのではない気がする…」

「気になるのなら、大巫女さまに夢占でもしてもらったら?」

「うーん、でも、話して聞かせるほど内容を覚えてないからな」


 ただ、嫌な夢だった、と稚武は繰り返し思った。


 どんな夢だったか…やはりおぼろげにしか思い出せない。


 ――嵐だった。叫んでも誰にも届かないような、激しい風と雨と波の音……。


(――ん? ……波?)


 稚武がそんなものを知っているはずがなかった。生まれてこの方、泊瀬の里の外で夜を過ごしたことすらないのだ。山ばかりに囲まれたところで、海など知らない。


 だが、あれは確かに、全てを呑み込む渦巻いた海のうねりだった。


 ――変な夢だ。だが、ただの夢だろう。


 稚武にその夢を気にかけている暇は与えられなかった。彼がぼうっとしているあいだに、空はどんどん明るくなっていたのだ。



 先に宣言されていた通り、その日から始められた久慈の稽古は厳しかった。


 まず、飽きるほど山歩きをさせられた。時には同じ山に何度も登らされ、ぐるぐるとめぐり、ある日などは稚武か風羽矢のどちらかが置いていかれて「そこから一人で帰ってきてごらんなさい」と言われた。身を隠した久慈を山中歩き回って探し出すという課題も出された。さらにはその逆に、久慈から逃げ回るという日もあった。


 

 好奇心と思い切りだけがとりえの稚武と風羽矢は、すぐにこの修業に夢中になっていった。楽しいのだ。


 もともと狩りが好き、山で遊ぶのが大好きだった二人にとって、都に来てまで山にいられるのは救いだった。


 そして何よりお互いの存在が向上心を刺激した。競い合い、協力し合い、久慈に立ち向かう。二人の呼吸はぴったりと合っていた。


 昼間は日の出から真っ暗になるまで歩き回り、夜は夕餉ゆうげを口に運びながらもう半分眠って、食べ終わると同時に意識を手放して熟睡。たまには無理やり起こされて湯殿に放り込まれ、居眠りのために鼻から湯を吸い込んでしまったこともあった。


ともかく二人はよく動き、食べ、眠った。久慈との毎日は泊瀬にいた頃にはなかった刺激に溢れ、見るもの触れるものの全てを、少年たちは目を輝かせて瞬く間に吸収していった。


 大王が任命しただけあって、久慈は最高の師だった。容赦ない課題の数々に、口を開けば詳しく丁寧な説明、この世の全ての理を心得ているのではないかと言うほどの博識であった。


 そして、褒めることも忘れない大人だった。二人の器量をむやみに比べず、伸びる芽を的確に見抜いて、慈雨をそそぐように彼らに接した。


 久慈は、稚武と風羽矢が初めて目にした圧倒的な人格者であり、いつしか二人は彼を「師匠」と呼ぶようになっていた。


 山めぐりに一段落ついた頃、今度は宮の一角で武芸を習い始めた。手始めは矛と、風羽矢が何より得意とする弓だった。


 風羽矢の弓の腕前にはさすがの久慈も舌を巻き、しばらくは感嘆のあまり言葉もなかった。彼方の木の幹に掛けられた小さな的の、見事ど真ん中を射た矢を見つめ、恐れ入ったというふうに言った。


「これは、もう……わたしがお教えすることはありませんね。風羽矢、あなたは誰かに弓を習ったのですか」


 久慈は最近、風羽矢に「殿」をつけるのをやめた。ちょうど師匠と呼ばれるようになったころと同時だ。ちなみに丁寧な物言いはもう彼の体にしみついているようで、久慈はほとんど誰に対しても敬語を使っていた。宮の下仕えの者に対してさえもである。


「いいえ、……自然に覚えたんです」

「風羽矢は泊瀬で一番の弓の使い手なんだもんな」


 自分はあさっての方に矢を飛ばしておいて、稚武は自慢するように言った。


「はあ、まったく恐ろしいまでの集中力ですね」


 面と向かって褒められることに慣れていない風羽矢ははにかみ、そのぶん稚武が鼻を高くした。


 だが、それで久慈が「じゃあ弓矢の稽古は終わりにしましょう」などと言うわけはなく、稚武の方はこってり絞られ、風羽矢はその隣でもくもくと矛の素振りをこなす日々が続いた。


 大王はめったに姿を現さなかったが、ごくたまに宮の回廊から彼らの奮闘ぶりを眺めにやって来ることがあった。 


「大王!」


 その姿を見つけるやいなや、稚武は父のもとにすっ飛んで行ってしまうのだった。矛も弓も投げ出して、である。


 だが、久慈もこれに限っては咎めなかった。稚武がそうやって大王を慕っていることを喜ばしく思っていたし、大王もまた嬉しく思っていることを知っていたからである。


 普段は言葉少なく陰のある大王が、稚武と会っている時だけはにこにこと微笑んでいるのだった。


 大王はおっとりとくつろいだ様子で言った。


「どうだ、調子は。また少し背が伸びたか」

「はい、都に来てからもう指一本分は伸びました。力もついたし」

「久慈から報告は受けている。教えがいのある子達だと。――風羽矢は神業のような矢を射ると聞いたが、まことか」


 距離をとって親子の会話を聞いていた風羽矢は身を竦めた。


「えっ--」

「本当です」


 稚武はきらきらと目を輝かせて風羽矢を振り返った。


「射ってみせろよ、風羽矢。一発、ガガーンと」


 風羽矢は頷くしかなかったが、苦手な展開になったと思った。


 仕方なく矢を構え、一瞬の集中の後に放つ。風羽矢の腕は緊張で揺らぐことはなく、矢は見事的の中心に突き刺さった。


「ほう、これは本物だ。すばらしい腕前だな」

「そうでしょう、風羽矢に弓矢を持たせたら、敵う奴なんていないと思います」


 稚武が興奮気味に力説する。


 風羽矢は複雑な心持ちで弓を手放した。隣の久慈は困ったように苦笑していた。


「皇子は、純粋と言うか。裏表のないご気性ですね。ああも素直に友人を讃えることなど、簡単にできることではないものですが」

「単純なんだと思います。稚武は……昔から、そうだ」


 稚武は、基本的に嫉妬というものを感じることがないようだった。


 相手の長所は手を叩いて褒めちぎるし、自分の得意なこともはばからず主張する。負けず嫌いなのは自分に対してであり、他人と比較されることなど気にも留めていない。


 普段は鼻につくことなどないが、彼のそういうところが時々どれほど風羽矢を苦しめているか、稚武はかけらも気づいていないようだった。


 そして風羽矢も、彼に気づいてほしくないと思っていた。無いものねだりは寂しさを増すだけだ。


 稚武は純粋で、素直で、そして鈍感なのだった。


 それは悪いことではないと風羽矢は思っている。稚武が鈍いのは一面にしか過ぎないし、反面には思慮深く他人を思いやる気遣いもきちんと持っているのだから。


(ただ、ああいう稚武を見ていると――)


 自分がとても汚い人間に思えるのは、なぜだろう。


「皇子は騙されやすいかたかもしれませんね」


 唐突な久慈の言葉に、風羽矢はハッと我に返った。稚武はまだ大王と話し込んでいる。


「そうですか?」

「まだお若いからかもしれませんがね。純なかたほど、うまく言いくるめられてしまうものですよ」


 風羽矢は首をかしげた。稚武は確かに特定の情緒――色恋や妬み――にはうといかもしれないが、だからといって隙のある男ではなかった。


「ですから、色々なことに敏感な人間が近くにいなくてはなりません。この世の中はきれいごとではすまないのですから」


 微笑んで久慈は風羽矢の頭に手を置いた。風羽矢は自分が励まされたことに気づき、目を丸くした。それでいいのだ、と久慈は言ってくれたのであった。


 久慈は大きな声で稚武を呼んだ。


「皇子、そろそろ弓の稽古を再開してくださいませ」

「あっ、はい」

「行っておいで」


 大王に言われて、稚武は勇んで駆け戻ってきた。久慈は稚武の弓の指導を風羽矢に頼み、入れ替わるように大王のもとへ向かった。


「おや、久慈、休憩か」

「若さでは皇子たちに敵いませんからね」


 久慈は陽気に言った。


「大王こそ、こんなところで時間を潰しておられて良いのですか」

「わたしがいなくては進まないような仕事は片付けてきた。あとは下の者だけで足りる」


 真面目に答え、大王は飽きずに少年二人を見つめていた。


 稚武がとりあえず的に向かって射ってみせ、それについて風羽矢が姿勢を直してやったりする。言われたとおりにしてもう一度射るが、今度はさらにおかしな方へ矢が飛ぶ。風羽矢が首を傾げる。


 決して稚武が下手というわけではないのだが、久慈の作った的が小さすぎるのだった。


 稚武はもう何度か射ってみる。矢はどんどんそれていく。だんだんと苛立ってきた稚武の顔つきがかたくなり、気づいた風羽矢が彼の背中を叩く。「力を抜いて。一発に集中するんだ」。


 稚武は素直に聞き入れ、矢をつがえたままじっと意識を研ぎ澄まし、ヒュッと放った。矢は初めて的の端に突き刺さった。二人はわっと顔を明るくし、はしゃいで手を打ち合った。


 つられたように、大王も目を細める。


「本当に仲が良いな、あの二人は」

「そうですね。こうして見ていると、まるで本当の兄弟のようです。同じ乳を飲んで育つと、容貌まで似てくるものなのでしょうか」

「それはない。お前とわたしのどこが似ている?」


 言われて、久慈も肩を竦めて見せた。大王と久慈は乳兄弟なのだった。


「恐れ多いことです。わたしなんぞ、大王の美しいお顔の足元にも及びません」

「ははは、いじけるな」


 大王は快活に笑った。


 それを目撃した通りすがりの下女たちは、驚き入って足をとめた。彼女たちが大王の笑顔を目にしたのはこれが初めてだったのだ。さらに、彼女たちはそろって顔を赤らめた。大王は比類なき美男なのだった。


 楽しそうに笑っている大王に、久慈は国の光明を見た気がした。


「……ずいぶんと明るくお笑いになるようになりましたね」

「ん? そうか?」


 ええ、と久慈は頷いた。まるで若い頃に戻ったようだと思った。


「これも、皇子たちのおかげですね。この宮に春を連れてきてくださったようです」

「そうだな……」


 大王も少し自覚があるらしかった。


大泊瀬おおはつせを見ていると、まるで宮古みやこが戻ってきたような気がするよ。よく似ている……」


 大王は優しく微笑む。その笑みは全く、彼が宮古と恋をしていた頃と同じものだった。


 久慈は救われたような心地がした。


 隠り処から皇子を引っ張ってきてしまったことは間違いではなかったと。こうしてだんだんと大王の心が癒されていくなら、呪いも断ち切れるかもしれない――。


 そこで彼はひらめいた。


「そうです、大王、お時間があるなら皇子に剣をお教えしてはいかがですか。草薙剣くさなぎのつるぎの扱いに少々お困りのようですから。神器については、わたしが説明できるものではありませんし、こういう機会でないと」

「そうだな」


 大王は言われて初めて思い至ったようだった。


「まだ何も話していなかったな……記伝の学習はまだしていないのか」

「ええ」

「草薙剣は、何も知らないで身に着けているには重過ぎる。失念していた。大泊瀬は皇子として育てられたのではないものな。何も知らぬか」


 大王は回廊から庭に下り、また矢を射始めた稚武に歩んでいった。


「大泊瀬。そなたに少し教えておかねばならぬことがある」


 突然呼ばれた稚武はびっくりして、その拍子につがえていた矢を放ってしまった。偶然にも、矢は今までで一番に的の中心近くに突き刺さった。残念なことに、そんなものは既に彼の眼中に入っていなかったのだが。


「はい、なんですか」

「神器の剣についてだ」


 ますます緊張する稚武に、大王はくすと微笑みながら言った。


「その剣はやまとの宝だ。残された最後の神器。失われた鏡と玉の呪いを断ち切れる唯一の武器だ。わかっているね」

「はい」


 大王が手を差し出してきたので、稚武は急いで腰元の草薙剣を渡した。受け取った大王は、何重にも巻かれていた布を外し、剣の刃を日の下にかざした。


 太陽の光を受けてきらめく切っ先に、大王はわずかに目を細めた。


「美しい剣だ……」


 大切な話をする、と前置きがあった。


「この剣は持ち主によって姿を変える。そなたも見たろうが、わたしの時は大刀だった。その前代は矛に近い形をしていた。今のこの長剣は、そなたの姿なのだよ」

「……俺の……?」


 稚武はじっと剣を見た。


「そうして形を変えていくから、この剣は鞘を持たない。では、なぜこの剣が代々大王家に伝わってきたのか、教えておこう」


 言い、大王はおもむろに剣を地面の上に置いた。何が起こるのだろう、と稚武と風羽矢がどきどきしていると、大王は意外なことを言った。


「では風羽矢、この剣を持ってみよ」

「え」


 突然の指名に風羽矢は目をぱちくりさせた。


「僕――僕ですか?」

「そうだ」

「僕なんかが神器に触れてしまっていいんですか」


 いつも稚武の隣にいた風羽矢は、何かのはずみでその剣に触れてしまうことがないよう、常に神経を尖らせていた。


 何といっても国の神器なのだ。その点、稚武はどうも無用心に構えているから、風羽矢が彼の分まで気をつけていたのだった。


 どぎまぎしながら後ずさる彼に、大王は苦笑した。


「そのように恐れることはない。剣は大王家の血にしか意味をなさない。何も起こりはしないから、待ち上げてごらん」

「その剣、めちゃめちゃ軽いんだぜ。構えてみろよ」


 ここでも稚武はのん気に言った。まさか刃向かうわけにもいかず、風羽矢はこわごわとその剣に触れた。柄をつかみ、両手で持ち上げ――が。


「うん?」


 風羽矢は怪訝な顔をした。


「どうした?」

「持ち上がらない……」


 稚武に答えながら、風羽矢はなおも試みた。両足でふんばって全身で持ち上げようとするのだが、細身の剣は巨岩のように地面から離れなかった。


「うーん、駄目だぁ……」


 とうとう風羽矢は力尽きて手を離した。


「そんな馬鹿な」


 稚武は風羽矢が冗談を言っているのかと思って剣を手に取った。当然のように剣は軽く、稚武の手によくなじんで持たれた。

「やっぱりな。――ほら」


 稚武は気軽にその剣を風羽矢に手渡した。


「あ」


 大王と久慈が同時に顔色を変えた瞬間だった。ドン!と風羽矢は前のめりになって倒れ伏し、悲鳴を上げた。


「いった、たたた……」

「え?」


 稚武も風羽矢も、何が起きたのかさっぱり分からなかった。ただ風羽矢は、したたかに打った額をさすりながら起き上がり、目を白黒させた。


「ああ、大丈夫か、風羽矢」


 大王は慌てて彼を覗き込んだ。風羽矢がとりあえず「大丈夫です~……」とへろへろの声で答えると、ほっと息をつく。そして、地面にめり込んでいる草薙剣を拾い上げた。


「良かった。運が悪ければ腕が抜けるところだったよ。先に注意しておかなかったわたしも悪かった」


 言って、大王は剣を稚武に返した。


「わかっただろう。その剣は皇以外を強く拒否する。天照大御神あまてらすおおみかみの正統な血筋をひく者にしか扱えないのだよ。今その資格を得ているのは、わたしとそなたと、わたしの大叔母である大巫女のみだ」

「……わかりました。――ごめん、風羽矢。平気か」

「うん。びっくりした」


 風羽矢は土ぼこりを払って立ち上がった。


 大王は真面目に言った。


「草薙剣は、素戔鳴尊すさのおのみこと八岐大蛇やまたのおろちを倒し、倭の英雄の証として手に入れた剣だ。そして大蛇の一部でもある。荒ぶる蛇神のな」

「じゃあ、俺があの時見た大蛇は……八岐大蛇だったのでしょうか。頭が二つありましたけど」


 大王はすぐには答えず、視線を伏せた。それから小さく言った。


「……大蛇おろちは病んでいる」

「え?」


 聞き返した稚武にかまわず、大王は顔を上げて言った。


「――それにしても、布で巻いていては不便だろう。その長剣に合う鞘を作らせよう」

「あ、はい……ありがとうございます」

「だが、本物の鞘は、いつかそなた自身が見つけなくてはいけないよ」


 大王はまた不思議なことを言った。


「本物の鞘? そういうものが、どこかにあるんですか」

「ある。どこにあるかは誰にも分からないが、きっとそなたも見つけ出す……」


 そのとき、回廊から役人が大王を呼んだ。


宰相さいしょう様がお呼びです。急ぎご相談したいと」

「そうか、わかった。行こう」


 そう答えたものの、大王は回廊に上がってからまた立ち止まった。振り返った庭では、稚武と風羽矢がまた弓矢の練習を始めようとしている。


 大王はその光景をじっと見つめ、ほんのわずか首をかしげた。その曇りを久慈は見逃さなかった。


「どうかしましたか?」

「久慈。……いや」


 大王はさらに複雑な顔をした。視線の先では、少年二人が元気に声を掛け合いながら矢を射っている。


 ――この光景に、大王は何か胸に引っかかるものを感じていた。 


「――風羽矢」


 大王は大きな声で呼んだ。


「は……はいっ。何でしょう」


 ぴっと背筋を伸ばして風羽矢が答える。


「そなた、確か戦災孤児だと言っていたな。生まれはわかるか」


「いいえ…遥か西の、倶馬曾クマソとの境に近い国だとは聞きましたけど。それも本当か、よくわかりません」

「そうか……」


 大王は視線を下げて考え込んだ。 


 稚武の顔立ちは、大王家の血筋をよく表している。そしてふとした表情に宮古を思わせるものがある。


 では、この既視感は? 稚武の隣にいる少年に、自分は何かを重ねようとしている――誰であったか。


(西の国か……)


 遠征に出たことは何度かある。だが、滞在は常にほんの数日のことで、親しい知り合いなどはいないはずだ。風羽矢に似た顔など知るはずがない。 


「……あの?」


 黙りこくってしまった大王に、風羽矢が控えめに声をかけた。はっと我に返った大王は微笑んだ。


「ああ、苦労してきたのだなと思ってな」


 風羽矢はほっとして首を振った。


「いえ、泊瀬ではよくしてもらいましたから」


 そうか、と大王はにこりと笑った。


 そして「では、変わらず修練に励むように」と残して立ち去ろうとした。少年たちは「はいっ」と威勢良く答えてまた的に向かう。


 妙な既視感など、きっと気のせいに過ぎない。大王は自分に苦笑しながら足を進めた。だが、どこかまだこだわっている彼がいた。


 ――西の国。歳は十四。孤児。西の国、倶馬曾との境。歳は十四…十四年前。孤児。孤児…


 その瞬間、脳裏で誰かが笑った。その歪んだ赤い唇は衝撃となって大王を貫き、彼は息を止めて目を見開いた。


「……大王?」


 唐突に足を止めた彼に、後ろから久慈が声をかける。


 大王は驚愕の表情のまま、ゆっくりと風羽矢を振り返った。風羽矢はその視線に気づかず、いつものように稚武に屈託のない笑顔を向けている。


「……似ている…」


 声にならず、吐息だけで大王はつぶやいた。


「は?」


 久慈は間抜けに言ったが、大王の顔色に息を呑んだ。


「……いや、だが、まさか。そんなはずはない。そんなはずは」

「大王、どうなさいました、顔色が―」

「久慈」


 大王は彼に言おうか迷ったが、やはりそんなはずはないと踏みとどまった。


「……いや、なんでもない。二人のこと、頼んだぞ」


 言って、大王は今度こそその場を後にした。早足で立ち去る彼の表情は、厳しさをぬぐえずにいる。


 そんなはずはない。現に、風羽矢は剣に拒否されたではないか。……だが。


(……調べてみる、か)


 スッと細くなった大王の目は冷たかった。

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