第8章

いつからだろう。朝登校するときに、例えようもない孤独と奇妙な罪悪感に囚われるようになったのは。鍵を閉めて出かけようとする度に、心にポッカリと穴が開いたかのような虚無感に襲われる。何かが足りない、あるはずのものがないような……そんな気がしてならない。次の日もまたその次の日も、俺は心に大きな空白を抱えたまま、謎の焦燥感に見舞われる。このままでいいのか。――探すべきなんじゃ?何をだ?わからん。とにかく、十一月になってからというもの、いくら受験勉強をしても頭に入ってこなかった。こんなことをしている場合じゃないはずだ、何か忘れているんじゃないか。大切なものを。そんな気持ちばかりが溢れ出て止まらない。受験ノイローゼだろうか。とにかく、このままでは受験どころじゃない。この心の穴は一向に埋まる気配を見せないのだ。俺は藁にも縋る思いで花咲先生に相談してみた。

「疲れてるんじゃない。自分を追い込みすぎてるんじゃないかな。確か進藤くん一人暮らしだっけ」

「…………はい」

変だ。何故、俺は今数秒もの間、言いよどんでしまったのか。一人……暮らし……。そのワードを肯定することに大きな抵抗感があった。なんでだろう。俺は高校生になってからずっと一人暮らししてるのに。

「……つまりね……」

花咲先生の言葉に俺は意識を傾けることができなかった。――違う。受験のノイローゼじゃない。俺の胸に空いた穴の正体は。


教室に戻ると、今度は田中に尋ねた。最近気がついた、このクラスの奇妙な点について。

「なあ、なんでこのクラス、空席があるんだ?」

「ん?……ああ、そういやそうだな」

受験が近づくにつれ学校に顔を出さずに自宅等で勉強するやつらも増え始めたが、それでもおかしい。このクラス、並んだ机のうち二つは、誰も使っていないのだ。それも一番後ろなどではなく、中ほどと前の方に。奇妙な空席が存在する。俺の記憶が正しければ、誰も使っていなかった席のはず。でも俺がこれに気がついたのはつい最近。四月からこっち誰もおかしいと思わなかったのか?

「まー、いんじゃね。別に」

田中は大して興味も持たず、この話題を流した。まあ、どうでもいいっちゃいいんだが……。何かが胸に突っかかる。二つの空席を見ると、心臓が動悸を早めた。なんだ!?一体、どうして……。やはり関係があるのか。この空席は。俺のノイローゼに。でも、それ以上のことは考えてもわからなかった。


謎の喪失感の他にも、今俺は大きな問題をもう一つ抱えている。それがこれだ。帰宅した俺を出迎えたのは、参考書の上に佇む二つの人形たちだった。おれは朝、この人形を部屋の脇にある人形関係の物をしまう箱に入れてでかけた。それは間違いない。なのに、こうして家に帰ると何故か机の上にいる。しかも、服装とポージングも今朝と異なっている。幼い女の子の人形の方は園児服に黄色いキャップをつけてたはずなのに、今は白いドレス姿。うーんかわいい。見てるだけで幸せを感じる。高校生くらいの女のフィギュアは、パジャマ着てたはずなのに、今は派手なアイドル衣装を身にまとい、手にはマイクの小道具も握りしめている。どっちも活発そうな笑顔で俺を一点凝視してきている。なんなんだ一体。俺は呪われたのか?

そっと人形たちを脇にどかして受験勉強に没頭した。フリをした。集中できるわけがない。ただでさえ日に日に増していく喪失感と焦燥感に身を焼かれているのに、この人形たちのパフォーマンスが俺の思考リソースを奪っていく。誰かが俺の家に忍び込んで人形をいじって嫌がらせしてる……というのはありえない。だってこいつら、風呂やトイレに行っている間にも場所やポーズを変えることがあるからだ。広くもないこの家で俺に一切気配を悟らせることなく人形をいじるなんて、流石に物理的に不可能なはずだ。……ただそうすると、いよいよもって非科学的な結論を下さざるを得なくなる。この人形たちは――生きている。俺が見ていないところで意思を持ち、動き回っているのだ。……って、子供の空想じゃあるまいし。でもそれ以外説明がつかないんだよな……。あー、駄目だ。問題文が読めない。頭に入ってこん。十月以前はこの人形たちが勝手に動いていた記憶はないんだがな。失くした何か、クラスの謎の空席、そして意思を宿した人形たち……。頭の中で何かが繋がり始めた。どっちも今月に入ってからじゃないか。何かがあったのだ。今月初め、先月終わり……その時俺はどこでなにをやっていた?

しかし、別にこれといって変わったことはなかった。学校行って、帰って、飯食って、風呂入って、寝て、その繰り返し。休日は……そうだ、日曜のハロウィンにショッピングモールに行ったな。そこでは、谷崎とバッタリ鉢合わせて、スイーツ買って、それから……それから……どうしたんだっけ?

それから後のことがどうしても思い出せなかった。記憶はそこから一気に家に飛んでしまう。モールからどうやって帰ったっけ、俺?谷崎とはどうやって別れた?

もしかしたらここに、全ての謎を解く手がかりがあるんじゃないか。根拠のない直観だが、そんな気がした。谷崎にメッセを送り、俺は明日の晩に話を聞くことにした。あいつはあまり好きじゃないから頼りたくはないが、仕方がない。

部屋の明かりを落として、ベッドに転がった。ボーっと天井を見つめながら思ったことがある。……なんで俺、谷崎が気に入らないんだっけ?寝返りを打つと、机の上のかわいい方の人形と目が合った。その瞬間、刺すような痛みが胸を襲った。理由はわからない。


次の日の晩、俺は図書館で谷崎と合流した。

「悪いな」

「ああ。俺もずっと気になってたからな」

谷崎は袖をまくり、自身の右腕を覗かせた。そこには打撲傷と絆創膏が散見された。

「どうしたんだ?」

「あの日さ。お前とモールにいたのは覚えてる。でもその後はよく覚えていない。いつのまにか家にいて、これさ」

まさか、谷崎も俺と同じであの日の記憶がなかったとはな。しかもこの傷はなんだ。痛々しい。だが俺は何故か、心の奥底でこの傷にある種の羨望を抱いた。俺がうけるべき傷だったと。自分自身に驚く。どうしてこんな気持ちが湧いてくるんだ?

「俺って、お前と喧嘩とかしたっけ?」

「いや、覚えてないな。でも俺は特に怪我とかしてねーからな」

だから俺と谷崎が喧嘩したってのはないと思う。確かにこいつは今一好きになれんが、そんな傷を負わせるようなことするわけない。

「そうか……」

俺と谷崎は押し黙り、静かに図書館を眺めた。二、三分すると谷崎が口を開いた。

「ていうかさ、俺、お前とどこで会ったっけ?」

「えっ?」

俺は予想外の質問に驚いた。

「ここだろ?」

俺は顎で図書館を指した。

「何してた?」

「そりゃ勉強だろ……。確か俺だけ少し遅れて、カフェにいったんだ。そこだな」

「他に誰かいたか?」

「いや……俺一人だったはずだ」

待った。おかしいぞ。何か変だ……。猛烈な違和感。俺は確か一人で勉強しにきてて……みんなカフェに行った後、俺だけ……待てよ。「みんな」って誰だ。一人だったはずなのに、妙だな。

「俺、一人でいたときにお前が来て、同じ席に座った……と記憶してるんだけど。変じゃないか?お前なんで俺の席に来たんだ?」

「そりゃ、お前、それは……わからん」

「…………」

谷崎は無言で俺をにらんだ。いや、しょうがないだろ。俺も自分の言ってる事がおかしいってわかる。でも思い出せないんだ。谷崎の座っていた席に合流したのは覚えてるが。……合流?誰と?谷崎とはそこが初対面だったはず。おかしい。変だ。俺の記憶では俺の行動が説明できない。

「俺も自分の記憶がなんか変でな。……全部お前がらみだ。なんで俺たち一緒にスイーツ巡りなんてしたんだ?」

言われてみればその通りだ。たいして親しくもない野郎二人で休日に?ホモじゃあるまいし……ホモ……ん……なんかひっかかる、ような。

「夏祭りは?覚えてるか?」

「確か……俺が落とした人形を、お前が」

「拾った」

「そう」

今俺を悩ませている人形のかわいい方だ。って、なんで俺は夏祭りに人形なんか持ち出したんだ?オタクじゃあるまいし。なんで俺はそんなキモイことしてたんだ?

「お前があの人形落としたの、すげー腹が立ったことを覚えてるんだ。でもなんで人形落としたくらいで俺あんなキレてたのか、よくわからないんだけどさ」

あの人形……そうだ、すごく、すごく悲しくて自分が情けなかったのを思い出した。再開できた時は本当に嬉しくて、ホッとして、自分が不甲斐なくって翼に申し訳なかったなぁ……。ん、翼って?……ああそう、人形の名前だ。そう。これも妙だな。なんで名前忘れてたんだ?そんな大切な人形だったのに?

「もう一つなかったか?人形」

「え?俺が落としたのは翼だけ……」

この時、俺は図書館と夏祭り、そしてモールでもいたはずの人形の存在を思い出した。

「あった!もう一つ。今俺んちにあるやつだ」

翼じゃない方の人形……名前なんだっけ。名前とかあったっけ。というか、どこで手に入れた?あー、思い出した!モールで拾ってポケットに入れたんだよ。あれ?だとしたら図書館や夏祭りにいたのおかしいな。

「その人形、写真とかあったら見せてくれるか」

「ああ、あるぞ」

スマホに撮った写真の中に、昨日撮った翼の写真がある。あんまり可愛かったのでおもわず撮ってしまった。ピンク主体に白いレースをあしらったゴスロリ衣装に包まれながら、参考書の上に女の子座り、上目遣いでこっちを見ていたところを撮った写真が。見たとたんに嫌な汗が流れ始めた。これを見せたらドール趣味のオタクだと勘違いされてしまうのでは。いや、俺がやったのではなく、この人形が勝手にやったことだから俺にそういう趣味があるわけではな……。そんな話誰が信じる?

「いいか?」

フリーズした俺に谷崎が近づいてきた。俺は慌ててスマホの画面を落とし、ポケットに仕舞った。

「おい」

「あっ……ちょっと……」

汗が滝のように湧き出てきた。どうする……このまま見せたら変態だ……。事情を話すか。人形たちが見えないところで動いていると。しかしそれを話したらそれはそれでヤバい奴だと思われる。だからこれだけは誰にも相談せずにきた。谷崎はムスッとして俺を見ている。どうする……二つに一つ。変態か……ヤバい奴か……。でも、こいつは俺と同じ問題を抱えている唯一の男だ。それなら……もしかしたら、或いは、こっちの問題にも理解を示してくれる……かもしれない……?

俺は思い切って、谷崎に人形たちの問題の方も打ち明けた。すると意外なことに、谷崎は俺の話を即座に否定することはせず、真剣な面持ちで、一度実際に見てみたいと言い出したのだ。俺は早速、谷崎を家に連れて行くことにした。


俺の家に向かう道すがら、その人形について話し合った。

「その人形さ、いつどこで買ったんだ?」

「ああ、かわいい方は小学校のころからの付き合いで、ウチにきたのは今年の一月だったはず……ん?」

何を言ってるんだ俺は。矛盾してるぞ。でも翼と初めて会ったのは小一の時で間違いない。いや、”会った”ってなんだ。だが不思議なことに、買った記憶も買ってもらった記憶もない。翼じゃない方は中一に出会って、この間のハロウィンで拾ったはず。――ってなんでだよ!

「なあ、俺たちその人形に呪われてるんじゃねーか」

谷崎がそう言った時、甲高い少女の声が響いた。

「あ~!いた~!」

振り返るとそこには、小学校低学年ぐらいの女の子が立っていた。

「あたしのお人形返してよー。ハロウィンで盗ったでしょ」

誰だっけこの子。知らないぞ。俺が泥棒なんかするか。それもこんな小さい子から。

「えっ……と、ごめん、多分人違……」

あっ!翼じゃない方か。あっちの方は確かにハロウィンの日に拾った記憶がある。多分それだな。

「ごめんごめん。落とし物かと思っちゃって」

「もー!ひどいよー!蹴っ飛ばすし離さないしー!」

「お前そんなことしたのかよ」

「いや、してないしてない!」

蹴っ飛ばしたってなんのことだ。この子を?そんな覚えないぞ。どんな事情があろうとこんな小さい子を蹴り飛ばすとかないだろ。超能力を持ったド外道な悪魔とかじゃない限り。少女は頬を空気で膨らませて俺を非難のまなざしで見つめていた。……あー、拾う前に人形を蹴っ飛ばしてたとか?多分そう、かな……。

「もしかして、これのことかな?」

俺は翼の写真を見せた。見切れてはいるが、横にもう一つの人形も写っている。顔は半分以上入ってるからわかるだろう。

「そう!これこれ!あたしのだからね!」

やっぱり、これか。悪いことしたな。というか、なんで俺は持ち帰ったんだっけ。まあいいか。

「ごめんな。俺たちこれから家に行くとこだから、持ってくるよ」

「一緒にいっていーい?」

「君の親は?どこ?」

谷崎が割って入った。気のせいか、その声はどこか冷たかった。

「へーきへーき!いこ!」

少女は次の曲がり角まで走り、俺たちに手を振った。

「早く早くー!」

「どうする?」

俺は谷崎に意見を求めた。

「置いてこうぜ」

谷崎は腕をさすりながら冷たく言い放った。子供嫌いか。意外だな……。俺も保護者の許可なく連れていくのは抵抗があったため、家に帰って待っているよう言って、二人だけで家へ向かった。


「一人?いいとこ住んでるな」

「まあな。贅沢させてもらってるよ」

家に着いた俺は早速俺の部屋へ直行した。ドアを開けると、机の参考書に、不思議の国のアリスの服をまとった翼が、両足を前に突き出してかわいらしく座り込んでいた。隣には派手なアイドル衣装を着たもう一つの人形も突っ立っている。

「へえ。で、見てない間に動くって?」

「そうだ。じゃ、ちょっとリビングで待機してみるか?」

「声かけなくていいのか?”着替えろよ”って」

「やめろよ」

谷崎は楽しそうに俺をからかった。あー、恥ず。これで動きを見せなかったらいい笑い者だな。

「広ーい!いいなー!」

リビングに戻ると、そこにはさっきの少女がいた。ついてきてたのか!?

「ねーおじさん。早くあたしの人形返してよ」

「お兄さん、な」

勝手に人に家に上がるなよ。どういう教育受けてんだか。これで誘拐したとか言われたらたまったもんじゃないな。早急に帰ってもらおう。谷崎はかなり張り詰めた表情で少女を見つめていた。

「どした?」

「いや……別に」

そんなに子供は嫌いか。変な奴。

俺が部屋に戻って翼じゃない方の人形を手に取り、再び部屋を後にしようとしたその時。足取りが重くなり、俺はドアの前で静止した。背後から刺すような非難の視線を感じる……気がする。心臓が動悸を早め、嫌な汗が流れ出てきた。本当にいいのか。あの子に渡しちゃって。強烈な抵抗感に包まれ、俺は動けなくなった。一体なんだ。まるで炊飯器の中に足を突っ込もうとしているかのような、猛烈な忌避感。俺は何か禁忌を冒しているのではないか。俺の本能か何かが、警告音を鳴り響かせている。止めろと叫んでいる。

「遅いよー!」

少女がドアを開けて、俺の前に立ちふさがった。谷崎もその後ろに少し離れて立っている。くそっ……。どうする。渡しては駄目だと、俺の中の何かが……。でも……あの子の、なんだよな……?

俺は奮える手で、恐る恐る人形を差し出した。少女は目を輝かせて受け取ったが、すぐにその表情が曇った。

「こっちじゃないよー!あたしこの子いらなーい!」

少女は人形をリビングへ投げ捨てた。瞬間的に怒りがわき、俺は思わず怒鳴った。

「おい!」

だが少女は俺の怒りをまるで意に介さず、

「あ、それ!それだよー」

翼を取りに、俺の横をすり抜けて行こうとした。俺は反射的にこの子の肩を掴んで止めた。そして

「やめろ!!」

自分でも信じられない大声で叫んだ。顔中の血管が浮き上がるぐらいの憤怒と焦燥が俺を支配していた。あれだけは駄目だ。絶対この子に渡さない。渡してはいけない――。

「放してよー。あたしのなのー」

「ふざけるな!!」

部屋中がビリビリと震えるほどの大声で叫んだ。理由はわからないが、もう俺にはこの子に対する怒りと翼を渡さないという固い決意だけがあった。

「進藤……落ち着け」

谷崎が後ろからゆっくりと言った。少女は今にも泣き出しそうな顔で俺を見上げていた。この子の肩を掴む手にも、知らない間にすごい力を込めていたことに気づく。俺は……何を?こんな小さい子相手に……。どうかしてるぞ。谷崎のいう通りだ。落ち着け俺。手を緩めようとしたその瞬間、

「思い出してよおぉー!!ホントに怒るよぉーっ!!」

大声が響き渡った。な、なんだ!?今のは。リビングから聞こえてきたような……。

「シュウくーーーーん!!聞ーーーーけーーーーやーーーー!!」

この声を俺は知ってる。確か……そう……あれ……玲子!

「玲子!?お前玲子か!?」

「ふぇっ!?……聞こえるのぉーっ!?」

「ああ!聞こえてる!お前……」

って、なんで人形が喋ってるんだ。いや玲子は……人間だろ。中学から同じクラスの、玲子だ!

巨大なガラスが数十個同時に砕け散るような轟音がリビングから轟いた。

「あっ!神原さん!?」

谷崎も叫んだ。そうだ。神原玲子!思い出したぞ!

「シュウくーん!翼くんにキスし」

谷崎がリビングへ入ると玲子の声が途絶えた。翼?キス?あの人形にキス?って、いやいや、なんで俺がそんなことを……。

「はーなーしーてーよー」

ずっと肩を掴んでいた少女が喚いた。この子は……そうだ、思い出したぞ。玲子を人形に変えた月夜って子だ!

「お前のせいで玲子は……」

「人形かえしてー」

俺は参考書の上に鎮座する翼に目をやった。さっき玲子はこれにキスしろと言った。なんでだ。でも人形にキスするってのは抵抗ある……いや、待てよ。俺は経験がある。この人形とキスしたことが。それも何回も。徐々に霞がかっていた脳の領域が晴れ渡ってくる。改めて翼を眺めた。フリルのついた青と白のエプロンドレスから、縞々の二―ハイで包まれた細い両足をのぞかせている。頭には水色のリボンカチューシャを装着。愛らしくかわいい。俺はこれも覚えがあるぞ。こいつが女の、人形になった時に着ていた服だ。んん、人形が人形になったってなんだ。違う。そうだ!人間だった!人間の男だった!初めて会ったのは小一の時。つまり俺の幼馴染だった!それからずっと一緒に馬鹿やったりしたぞ!長い間一緒の友達……親友だった!!

この人形――じゃない、人間は、俺の親友、安藤翼だ!!

翼の身体が眩く光り、数えきれないくらいのガラスが一気に砕け散ったかのような轟音が発生した。

「きゃっ」

俺は月夜をベッドへ突き飛ばし、翼を両手で抱え上げた。本当に悪かった。お前のことを忘れるなんて――。俺は翼に謝罪の口づけをした。ボワンという音と共にピンク色の煙が翼を包んだ。ガタン、と音が鳴り、煙が晴れた机の上に、翼が座っていた。人形と同じ表情だったのがすぐに崩れ、滝のように涙を流し始めながら、俺に抱き着いてきた。

「シュウーーッ!!」

「翼!」

俺はそれをしっかりと抱きとめた。そして力強く翼の頭をなでまわした。

「わるい……本当に……すまん……」

「いいって……絶対思い出すって……俺……」

翼はだんだん涙声になり、俺の胸に顔を埋めて幼児みたいに大泣きした。俺もつられて涙が溢れた。

「うそ……うそ……あたしの魔法が……なんで」

振り向くと、月夜が顔を真っ青にして、唇をわなわなと震わせながら立ちすくんでいた。月夜が右手を伸ばすと、ピンク色の煙がその手をつつみ、その中からステッキが伸びた。

「もう一回、みんな忘れちゃえーっ!」

月夜が叫んで、ステッキから白い光が放たれた。だが、もう俺はそんなものには屈しない。

「忘れるかよぉ!」

俺が言い放った瞬間、白い光があたりを真っ白に染めた。俺は翼を一層強く抱きしめ、翼との思い出を頭に強く思い浮かべた。翼を女だと勘違いした初対面、こいつが俺の背中に毛虫を入れた林間学校、腕を日焼けで真っ赤に染めた県境越えチャレンジ、女になった翼と手をつないで登校したあの日を。


白い光が収束したが、俺の腕と頭の中には、はっきりと翼の存在があった。月夜は右手を掲げたまま、呆然自失としていた。俺が睨みつけると、ビクッと震え、静かにステッキを胸元に下した。

「うそぉ……あたしの魔法……なんで……」

「おいクソガキ、神原さんを元に――」

谷崎がリビングから戻ってきた。その瞬間、

「ウェーン!バカ―ッ!」

月夜は大号泣し、谷崎の脇をすり抜けて走り去った。

「おい、待て!」

俺と谷崎が後を追ったが、玄関でピンク色の煙に包まれ、月夜は姿を消してしまった。

「あっ……と」

「チッ。逃がしたな」

谷崎は忌々しく舌打ちし、あの子がいなくなったことを確認したものの、玄関を調べ始めた。

部屋に戻ると、翼が再び抱き着いてきた。

「シューウっ」

「なんだよ」

俺は指先で翼の髪をいじった。久々だな……。

「ありがとな。守ってくれて」

翼が顔を上げてにっこりと笑った。その笑顔をみただけで、俺は胸が一杯になった。良かった。本当に良かった。

「やめろよ。全然駄目だったろ、俺。この二週間怖かっただろ?」

「そんなことないって。あの時、シュウが最後まで手を離さないでいてくれたから、俺ここに」

「ねー、邪魔して悪いんだけど」

玲子の声だ。床に視線を落とすと、小さな玲子があぐらをかいて座っていた。

「私は人形のままなのかなー」

「えっと……」

忘れてた。あの子、もう逃げちまったからな……。てことは、玲子はこのまんま……。

「あー……やっぱり、私は」

「やれやれ。俺もあのクソガキ蹴っ飛ばしてやりたかったよ」

谷崎が部屋に入ってきた。その瞬間、玲子は時が止まったかのように動かなくなってしまった。

「あっ……ユウ。悪いけど、ちょっと外に」

「なんだ。邪魔だったか」

「そうじゃなくて……ちょっといい?」

翼は俺から離れて、谷崎を連れてリビングへ移動した。すると玲子が再び動き出した。

「ふぇー。やっぱり人形かー」

玲子の口調は軽かったが、俺は胸がギリギリと痛んだ。俺のせいだ。俺が不甲斐なかったから、玲子までこんな目に。

「すまん。俺のせいだな。お前まで巻き込んじまって」

「いやいや、ホントにいいよ。ていうか、私があの子に声かけちゃったからだし」

玲子はそう言うが、俺の罪悪感は消えない。はぁ、情けない男だな俺は……。

「確認したいんだけど、私、谷崎くんがいると動けなくなるみたいなの」

「ああ、翼と同じなら、確か持ち主以外に見られている時は……ん?」

「今、シュウくん見てるけど動けてるよね私。ってことはさ。私もシュウくんの”持ち物”になったってことでいいのかな?」

玲子は照れ笑いしながら言った。確かに……そう、なるか。待てよ、てことはどうなる?

「一旦家には帰るけど……その後はよろしくね、シュウくん」

「えっ……えぇっ!?」

マジかよ。玲子の面倒も見なくちゃいけないのか。いや俺のせいだから文句言う資格はないか。玲子はもう俺以外の人間、例え両親であっても見られている間動けなくなるんだから、うん、まぁ、それ以外の選択肢はない。ないが。それでも、一応”男同士”だった翼と違って、玲子は生まれつきの女だし、一緒に住むのはどうなのか。

「お前はいいのか?その……俺と?」

「まー、抵抗ないと言えば嘘になるけど、仕方がなくないかな?」

「うーん、まあ、そうか……とはいえ、まずは家に」

「帰るためには、人間に戻らなくてはいけないのです。というわけで、ちょっとその……アレやってよ。軽くでいいから」

食い気味に玲子が言った。顔がほんのりと赤く染まっている。マジか……まあ、仕方がないな。俺は玲子をそっと持ち上げて、軽ーく、キスをした。ボフンという音と共に、ピンクの煙が発生し、人間の玲子が姿を現した。

「……ありがと」

玲子は照れ笑いしながら、指で頬をかいた。俺も照れくさくなって、思わず顔をそらした。そらした先に、翼が立っていた。両目をまん丸にして、大きく口を開いたまま、無言で震えていた。

「い……いや、違う、これは、玲子を元に戻すためにだな!」

「早速浮気かい。まだ記憶戻ってないんじゃないのか?」

谷崎も現れ、ニヤニヤと笑みを浮かべた。

「おい、やめろって」

「……馬鹿!シュウの馬鹿ーっ!」

翼はトイレに駆け込み、鍵をかけてしまった。俺はドアを叩きながら弁解したが、なかなか聞き入れてもらえなかった。後ろでは玲子と谷崎が人ごとのように爆笑していた。こいつらっ……。


十数分にわたる説得の末、翼をトイレから出した。顔をくしゃくしゃにした翼をなだめながら、俺は谷崎に礼を言った。

「今日はありがとう。助かったよ。本当に」

「いいって。俺は何もできてなかったからな」

「いや。お前は体張って翼を守ってくれたし、それに今日翼と玲子を思い出せたのは、お前が相談相手になってくれたからだろ?」

「そうなんだ。ありがとね、谷崎くん」

玲子がそう言うと、谷崎もそれ以上否定するのを止めた。

「じゃ、俺はそろそろ帰らせてもらうよ」

「ああ」

俺は谷崎を玄関まで送った。外はもう日が落ちて真っ暗だったが、いつもよりも多くの星が輝いているように見えた。

「しっかり面倒見ろよ。”持ち主”なんだろ?」

「ああ」

「もう手、離すなよ」

「わかってる」

言われなくてもな。もう二度と離さない。

「二人ともな」

「……っ」

俺の顔が歪んだのを見届けてから、谷崎はニヤッと笑って歩き去った。

うまくやれるかなー、俺。リビングに戻ると、翼と玲子が楽しそうに談笑していた。高三の玲子と、小五くらいに見える翼が並ぶと、まるで姉妹みたいだった。同い年なのにな。俺に気づいた玲子が言った。

「あー、私の親今からこっちくるって。ごめんねー、いきなりで」

「わかった。……はぁ」

あー事情説明するの骨が折れそうだな。信じてくれるかなぁ。そして俺との同居を許すのだろうか。

「大丈夫だって。気楽にいこう、なっ」

翼はすっかり立ち直り、俺に笑いかけた。その笑顔が、俺の不安と疲労をいとも簡単に吹き飛ばした。

「そうだな。頑張るか」

俺の同性の親友であり、好きな女でもある、翼。お前がいれば、ほんとなんでもできるような気さえしてくるよ。

翼の頭を強くなでると、翼が俺の腕をつかんで、言った。

「好きだぞ、シュウ」

「えっ!?」

「その、撫で方な」

翼は悪戯っぽく微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る