第6章

目覚ましが鳴る前に目が覚めた。翼はまだ机で寝ている。時計を確認すると六時半だった。結構早く起きたな。玲子との待ち合わせは十一時だから、ゆっくりできそうだ。俺は翼を起こさないようにゆっくりとベッドから出た。

「……あああっ!」

机の上に敷かれた小さな布団の中で、翼が顔を苦痛に歪めてうなされていた。

「おい、どうした?」

俺は屈んで机に目線を合わせて、小声で翼に言った。

「んんっ……あ……」

翼は首を右へ左へ動かしながら、悲痛な声を上げていた。強烈な悪夢と戦っているようだった。起こすべきか。俺が声をかけようとした瞬間、

「うわあああっ!?」

翼は勢いよく上跳ね起きた。曇天のような表情で呼吸も荒く、周囲を見回している。机に上に敷かれた小さな小さな布団の中で弱弱しく震える翼の姿は、いつもより一層小さく、儚げな存在に思えてならなかった。

「大丈夫か?大分うなされてたぞ?」

「えっ……あっ……夢,か……?」

翼は濃淡のない細い腕で、自身の体をペタペタと触った。

「はっ……ああぁ~,よかったぁ~」

翼は深く息を吐いて、仰向けに布団に寝転がった。顔から徐々に緊張がほぐれていき、いつもの翼の顔に戻っていく。俺も安堵した。大丈夫そうだな。

「じゃあ,俺準備するから……」

俺は朝食の支度をするためにリビングへ行こうとしたものの、背後から翼が大声で引き留めた。

「ま,待ってくれ!こっち!こっち来てくれ!」

「え……なんだよ?」

「顔!顔よせてくれ!もっとこっちに!」

ったくもう。俺は翼を怖がらせないようにゆっくりと屈みながら、机に顎がつくかつかないかくらいの位置まで顔を近づけた。俺は翼がまだ怯えているのだと思い、頭を撫でようと腕を上げかけた時だった。翼が掛け布団を跳ね除け、腕を目いっぱい広げて俺の顎を抱きながらキスしてきたのだ。一瞬の出来事だった。ボワンと音がして、机上に広がったピンクの煙の中から人間になった翼が現れ、俺に全体重をかけて飛びかかってきたのだ。俺はたまらず床まで押し倒されて、気がつくと翼に跨られていた。

「おっ,おい!?」

翼の眼はまっすぐ俺を見据えていた。うっすらと涙を滲ませて。俺は右腕を翼の背中に回して、上半身を起こした。翼を安心させようと、俺は両腕でしっかりと抱きしめた。それでもまだ翼は体を少し強張らせて震えていたので、頭を優しく叩いてからゆっくりと撫でまわした。次第に翼の全身がほぐれていき、2,3分もすると完全に俺に身を預けた。

「そんな怖かったのか?」

「……うん」

翼は顔を俺の胸に強く埋めた。やれやれ……。一体どんな夢を見たのだろう。俺と同い年……高校三年の男のはずなんだがな。情けない、よなぁ……?

怖い夢を見たからってこんなに怖がってちゃ、本当に見た目通りの年齢の女の子にしか見えなくなってしまう。けれども、自分の腕の中で小さく縮こまる翼を見ると、情けないだとか男らしくないだとかいう思いはさっぱり湧いてこない。俺がしっかりしないといけない、守ってやりたい、といった思いが溢れ出てくる。知ったら翼は怒るだろうな。だんだん翼を同性の親友として見られなくなっている俺の方が情けないんじゃないか。翼への罪悪感で俺は少し自己嫌悪した。

「……おい,もういいだろ」

「……あ,うん」

俺が腕を緩めると、翼は静かに俺から離れた。顔には涙の跡が残り、全体的に紅潮していたが、落ち着きを取り戻していた。


朝食をとりながら、俺は翼に尋ねた。

「なあ、一体どんな夢見たんだ?」

「えっと……その、月夜……って覚えてるか?俺を女の人形に変えた子なんだけどさ」

あぁ……そういえば確か、翼は魔法使いみたいな女の子に男から女にされて、その上人形に変えられたんだっけ。それ以来一切遭遇していないし話題にも上らなかったから、すっかり忘れていた。でも、俺はその場面見てないんだよな。神社で翼が見知らぬ少女と一緒に魔法のように消え去ったのは思い出せるけど……。あれは一月のことだったな。そっか、もうすぐ一年になるのか。早いもんだな。

「そいつが……ハロウィンの日の、昼にな、この家に来て……俺を完全な人形に変えて持ち去っちゃったんだよ……。それでもう、シュウとも二度と会えずに……最後は……」

翼は言い終わるとブルッと震えた。俺は夏祭りで翼とはぐれた時の気持ちを思い出した。あの世界の終わりとも思えた絶望を。そうか……。俺も翼が誰かに持ち去られて二度と会えないなんてことになったら、激しく取り乱すだろうな。特に身動きがとれなくなるばかりか、人間であるという事実すら奪われることになる翼にとっては、それがどれほど恐ろしいことなのか、俺にも想像はできる。いい年して怖い夢ごときで泣くとは流石に情けないんじゃないか、と考えてしまった自分を恥じた。

「よしよし、怖かったな」

「ほんとに……怖かった……」

翼は幼児扱いに反発することもなく、小声で肯定した。


洗濯が終わったころ、時刻を確認すると十時を過ぎたところだった。そろそろか。十一時にショッピングモールで玲子と待ち合わせ。その後ハロウィン限定スイーツに付き合ってから、参考書を買って帰る。だったな。

「じゃ、留守番よろしくな」

十時過ぎに、俺がリビングから玄関へ向かおうとすると

「い……行く!俺も!」

翼が俺に抱き着いてきた。今日は休日のハロウィンだから人出も多いだろうと、翼は留守番する予定で本人も同意していたんだが。

「いいから,翼は勉強しとけって。今日人混みいくから,またなんかあったら……」

「いや,行く!行くからな!」

「でも、もし……」

「見ろ!これなら大丈夫!脱げないようにも工夫したから大丈夫だ!」

翼は両手を広げて自分の姿をこれ見よがしにアピールした。黒とオレンジを基調にしたゴスロリ魔女っ娘衣装で、俺が言うのもなんだが相当かわいらしい。黒い三角帽や手袋、腕に巻いたリボンは全部人に当たってもそう簡単に取れないようにしてるから人形には戻らない、と本人は主張した。だけどな、やっぱり……。

「じゃ、これならいいだろ!?」

業を煮やした翼は俺の両肩を掴んで引き寄せ、大胆にキスしてきた。

「……へへっ」

翼はちょろっと舌を出して悪戯っぽく笑った。その姿は本当に茶目っ気のある魔女見習いのようだった。不意打ちとあまりも似合いの魔女姿が俺の心臓を貫く。正視できずに俺は翼から顔を背けた。くそっ、今真っ赤だな俺。

押し負けた俺は翼も連れて行くことにした。玲子にメッセを送ってから、一緒に家を出た。翼は今日一番の上機嫌でずっと俺の左腕にしがみついていた。

「なんだよ、そんなにスイーツ食べたかったのか?」

「いや、その、今朝の夢、ハロウィンに一人で留守番してるって状況だったんだよ……だから」

ああ、合点がいった。そりゃまさに今日と同じ状況だったわけだ。正夢になるのが怖かったんだな。

「よしよし。わかったよ」

俺だって翼と離れたくない。何があってもだ。そんな夢を正夢にするわけにはいかない。絶対に。


待ち合わせ場所につくと、玲子の隣に一人、見知った男がいた。谷崎。なんであいつがここに。

「久しぶり」

「ああ」

谷崎は俺に軽く挨拶した後、間髪入れずに屈んで翼に話しかけた。

「それ魔女?すごく似合ってるね」

「あっ……うん。そうなの、えへへ」

翼は嬉しそうに照れ笑いした。そしてこともあろうに翼の方から

「かわいい?」

と谷崎に問いかけたのだ。

「ああ。すっごいかわいいよ。これならずっと人間でいられそうだね」

谷崎もまた爽やかに微笑みかけ、翼は顔を紅潮させつつ、満面の笑みを浮かべてそれに応えた。

「なあ、なんで?」

その間に俺は玲子に尋ねた。顎で谷崎を指しながら。

「いやー、ついさっきそこでバッタリ会っちゃって。そんだけなんだけど」

玲子もまた頬をポリポリとかきながら笑みをみせた。笑ってないのは俺だけかよ。

「じゃ、そろそろ行こうか。売り切れちゃう」

「そうだな。おい、翼。行くぞ」

俺は翼に右手を差し出した。

「うん」

翼も俺の手を握った。谷崎はフッと笑って立ち上がった。俺はその笑みの中から憂いと余裕を感じ取った。”今度は大丈夫だろうな?俺ならできるが”と。俺の中で改めて覚悟と決意の炎が燃え上がった。夏祭りのようにはしない。谷崎ではなく俺が守る。

俺が先導して歩き出したが、谷崎も同じ方向に歩き出した。なんだよ。口火を切ったのは玲子だった。

「あれ?谷崎くんももしかして限定スイーツ?」

「そうなんだよ。妹のお使いでね」

「大変だね~。受験生なのにね」

「ははっ、実は妹も今年受験なんだよ。なにせ北高志望なもんだから、親も気を遣うわ甘やかすわ」

人混みの中でも、谷崎は玲子相手に会話を弾ませながら、翼の右斜め後ろのポジションを崩さなかった。俺のフォローのつもりか。翼と玲子は好意を寄せているが、俺はどうにもこいつが好きになれそうにない。


全ての用事を終えた後、俺たちはフードコートで一息ついた。受験勉強を話題の中心にしつつ、他愛もない会話で駄弁っていた時。俺は翼の様子がおかしいことに気がついた。一点を凝視して固まっている。その表情には恐怖が凍り付いていた。谷崎も翼の異変を察し、少し空気が張り詰めた。

「どうした?」

「か……帰ろうよ。早く……ねぇ……」

翼は小声でそれだけ絞り出すと、机の下に潜ってしまった。俺と谷崎は翼の視線の先にあるものを探した。休日でごった返してはいるが、ただそれだけの、何の変哲もないフードコート。ハロウィンで仮装している子供の集団がいるが、だからどうしたんだ?。

「あー、あの子翼ちゃんとおんなじ格好だ」

玲子が言った。仮装集団を取り仕切る小さな女の子。翼と同じ魔女の仮装をした子供が、自分のバスケットからお菓子を他の子どもたちに配っていた。

「あの子?」

谷崎は椅子から降りて膝を折り、静かに翼に確認した。翼は涙を滲ませ、ガタガタと震えながら頷いた。

「あの子……おれ……ぁ、あたしを人形にした……」

翼はつぶやいた。僅かな声量で、弱弱しく震えた声だったが、俺も、玲子も、谷崎も、それを聞き逃さなかった。あの子が……あいつが月夜!そういえば確かに……神社で見た子と……いや、俺にはわからん。一瞬だったし、今は仮装しているし……。どうしよう。できればとっ捕まえて翼を元に戻させたいところだが、本当に魔法使いだっていうのなら、それは無謀か?だが、翼を元に戻す初めての……或いは最後のチャンスかもしれない。行くべきなのか……?

「あっじゃあ、チャンスなんじゃん!翼ちゃん元に戻してもらおうよ!」

思案に暮れていた俺をよそに、玲子は立ち上がり、一人で突撃し始めた。

「お、おい、待てって」

俺は注意したが、玲子は無視して子供の集団に向かって歩みを早めた。翼は机から這い出て、玲子にすがりついた。

「やめろよ、お前も人形にされるかもしれねーんだぞ!」

「へーきへーき、だいじょぶだって。おねーさんに任せなさい」

玲子はちょこっと話にきいただけだからだろう。この時、俺は今朝翼がみた夢の話を思い出した。まさか本当に今日遭遇することになるとは。とにかく翼の身の安全が第一だ。俺も立ち上がり、翼の肩を掴んで制止した。

「お、おい、シュウ!このままじゃ玲子が!」

玲子が危険に身を投じた瞬間に、翼はいつになく熱くなった。玲子を助けようと必死だ。さっきまで机の下に隠れて恐怖に縮こまっていた翼はどこへやら。俺は改めて思った。

(やっぱり、こいつ男なんだよな)

だが、感慨にふける時間はない。

「谷崎、頼んだ」

「ああ」

不本意だったが、俺は逸る翼を力で抑え込み、谷崎に預けた。俺は玲子を止めようと走り出したが、手遅れだった。

「おーい!そこの君ー!ちょっといいー!?」

玲子が大きな声で子供の集団に声をかけた。かけてしまった。子供たちは一斉にこっちを振り向いた。魔女の仮装をした月夜も。子供たちはお菓子をほおばりながら、怪訝な表情で玲子を見ていた。俺は玲子に追いつき、言った。

「何してんだ、勝手に」

「えー、だって」

「あーっ!!」

その時、月夜が魔女のステッキのような小道具を指して叫んだ。俺を――いや違う。後ろの……!!

「翼ちゃんでしょ!?」

やばい。俺たち二人など眼中に入れず、この子は翼を見据えていた。

「もー!勝手にいなくなっちゃうから探したんだよー!」

月夜は俺たちを無視して翼と谷崎の方へ歩き出した。俺と玲子はすぐにその間に立ちはだかった。

「ちょ、ちょっといいかな?」

「なに?おじさん」

おじさん!?俺はまだ高校生だぞっ!?……俺が言葉に詰まった間に、玲子が言った。

「あの翼ちゃん、君が人形にしちゃったってほんと?」

「うん、そーだよー。あたしのお人形なんだ!」

月夜は玲子をかわしていこうとしたが、玲子は肩を掴んで引き留めた。俺も続こうとしたが、周囲の異違和感に気をとられた。何かがおかしいぞ。静かだ。――いない!人が誰一人!さっきまで多くの子供や家族連れで賑わっていたはずのモールは、俺たち四人と月夜だけの空間となっていた。どうなってるんだ!?

「翼ちゃんねー、お人形でいるのいやだっていってるからさ、よかったら元に戻してあげ」

「じゃまだよー」

月夜がステッキを玲子にあてると、ボワンという音と共に、玲子がピンク色の煙に包まれた。まずい!

「玲子!?お、おい!何を――!?」

月夜が歩き去り、煙が晴れた後には、玲子の姿はなく、代わりに小さなフィギュアが床に転がっていた。俺は急いでそれを拾い上げた。何かの樹脂製に見える、アニメ調に単純化されたフィギュアの服は、間違いなく玲子が着ていたものとが一致する。顔と髪型も、多少デフォルメされていたものの、玲子に相違なかった。嘘だろ……本当に、人間を人形に……。しかも玲子を。許せない。この子の横暴とみているだけしかできなかった俺自身が。

「おい、いい加減にしろ!二人とも元に」

全身が動かなくなった。声も出せない。なんだこりゃっ……!?

月夜が振り向きもせずに、雑にステッキを背後へ向けている。あいつの仕業か。まさか、俺も人形に……!?だが、周囲の景色は大きくなったりしていない。俺は小さくなってない。なにより、視線は動かせる。俺の腕を見たところ、特に樹脂にもプラスチックにも変異したようには見えない。ただ俺を動けなくしただけか。くそっ。ふざけんなよ。動けっ!このままじゃ翼が……。

「玲子!おい!そんな!シュウ!シュウーッ!」

「逃げるぞ!」

谷崎が翼を抱きかかえて一目散に走り出した。モールの奥へと向かって。そうだ。頼む谷崎。お前だけが頼りになっちまった。――ちくしょう!いつもこうだ!なんで俺はこうも役立たずなんだ。いつもいつも……。翼を守るって心に誓ったのに。肝心なところは谷崎だよりか。情けねえ……本当に情けなくて涙が出てくるくらいだ。

月夜はまったく慌てずに、ステッキを軽く振っていた。しばらくすると、モールの奥から、翼と谷崎がふわふわと床から二メートルぐらいの空中に浮かびながら、ゆっくりと飛んできたのだ。なんなんだ一体!これもあの子の力だってのか!?

彼女がステッキを勢いよく振ると、谷崎が吹っ飛び、柱に叩きつけられた。谷崎は揚力を失い、その体は思い出したかのように重力に支配され床に落下した。

「ぐあぁっ」

と悲鳴をあげて、谷崎は床にうつ伏せに転がった。

(嘘だろ!?おいっ、谷崎!?谷崎ーっ!!)

谷崎は力を振り絞って起き上がろうとしたものの、すぐに力尽きて床に頭を落とし、動かなくなった。おい!待て!寝るな!お前が倒れたらだれが翼を守るんだよ!

翼は絶望に顔を歪ませながら、谷崎の末路を空中で見届けていた。

「あ……あ……ぁ……」

翼は激しく震えながら、ボロボロと涙を流した。顔から離れた涙もまた、宙に拡散していった。翼から離れた涙の粒たちが照明に照らされ瞬いた。

「おかえりー翼ちゃん。もう勝手にお家出てっちゃダメだよっ」

ふざけるな。”おかえり”だと……?翼はお前の人形じゃねーぞ。生きた人間なんだ。玲子も……谷崎も、まるで人を玩具みたいに扱いやがって……!身動きのとれない中、怒りと焦燥感が醸成されていく。翼はふわふわと宙を漂いながら月夜の方に近づいていった。その過程で翼の顔が俺と向き合った。

「助け、て……シュウ……」

翼の口が動いた。小声で何かを言った。その声は聞こえなかった。でも俺はあいつが何を言ったのかわかる。そうだ……。甘えるんじゃねえ、俺。もう俺しかいなんだぞ。翼を……みんなを今助けられる可能性があるのは俺だけだ。気絶した谷崎、人形にされた玲子はもうリタイアだ。でも俺は金縛りにあってるだけだろうが!玲子みたいに封印されたわけでもない。谷崎みたいに意識を失ったわけでもない。俺には無傷の、人間の体と、明確な意識が残っている。誓ったじゃないが、翼に、俺に。正夢にはしないって。絶対に守るって!

(っああああああ!!)

俺は全身の骨に、筋肉に力をこめた。ありとあらゆる血管に血液を滾れさせた。全身を熱く熱した。心臓も見る見るうちに鼓動を早める。そうだ。もっと!力をこめるんだ!動け!動けえぇーっ!!

(うおおおおおぉぉぉっ!!)

脳内で何本も血管がブチ切れたあと、俺の全身からガラスが砕け散るような音が一斉にこだました。動く。自由だ!俺は二人めがけて猛然とダッシュした。今行くぞ!

「うおおぉぉっ!!」

自然と大声が出た。月夜が俺を見た。目を大きく見開き、口をパックリと開けて。ステッキを持つ腕を振り上げたのが見えた瞬間、俺は反射的に斜めにジャンプした。

「っおお!?」

乾坤一擲の判断だった。一瞬前に俺が跳ねた床からピンク色の煙が立ち上っていたのだ。俺は着地と同時に再度大ジャンプした。二人の方へ。届く!これで!俺は――本来、あんな小さな女の子に絶対すべきではないことだが――人生最大の、全力の飛び蹴りをそのまま月夜にぶち込んだ。

俺の脚は捉えた。固いが少し弾力のある――サッカーボールのようなものを。全力で叩き、そのままの勢いで蹴り飛ばした。

「うああわあああんっ!?」

悲鳴とも泣き言もつかない叫び声を上げながら、月夜は宙を舞った。床に落ちるとまるでスーパーボールのように跳ねながら、フードコートの端へ、ガシャンバキンと豪勢な物音を伴いながら、何度も床を柱を跳ねて転がっていった。――やった……のか!?そうだ翼は!?

「ひゃっ!?」

翼の悲鳴がすぐそこから聞こえた。月夜の力が途切れたのか、床に向かって落下した。俺は即座にダイブした。間一髪、翼の落下地点に滑り込むことに成功し、背中であいつを受け止めた。

「ぐうぇっ」

腹が床との摩擦でこすれ、相当に痛い。加えて翼の全体重をかけた衝撃が俺の背中を襲ったのだ。

「お、おいっ、シュウ!大丈夫か!?」

翼はすぐに俺から降りて、言った。良かった。翼は無事なんだ。緊張がいくらか途切れ、俺は余計な事を考える余裕も生まれた。腕でかっこよくキャッチできてれば満点だったな。あ、玲子握ってるから無理だったか。

「なあ、シュウ!おい!」

「大丈夫だって……それよりお前こそ、怪我はないのか?」

俺は腹をさすりながら起き上がった。はー痛え……。

「そうだ、玲子!玲子は!?」

翼は俺の質問には答えなかった。自分より友達の安否が優先か。そうだな。男だぜお前。

「あー……ここだ」

俺は右手に握りしめていた玲子を見せた。

「そんな……」

翼は両手の平を頬にあてながら落ち込んだ。今時アニメでもついぞ見かけないお嬢様仕草……女かい。

「そうだ、谷崎は……」

俺が言いかけた時、後ろから叫び声が聞こえた。

「ひっどーい!ひどい!ばかー!!」

月夜。黄色い、半透明な球体に包まれている。なんだあれ。俺が蹴ったのはあれか。バリアみたいなもんか?

「あたしのだよー!」

再び翼が宙に舞い上がり、月夜の方へ飛んでいこうとした。

「翼っ!?」

俺は左手で翼の右腕を掴んだ。間に合ったか。俺は腰を落として踏ん張った。翼を引っ張る力は徐々に強くなっていく。片手では支えきれない。右手……俺は玲子をポケットに突っ込み、右手でも翼の細い右腕をしっかりと掴んだ。

「うあぁっ、シュウっ!」

翼は最初は風になびく鯉のぼりのようだったが、次第に張り詰めた糸のように、宙にピンと張った。俺も引力に負け始め、少しずつ足が床を滑り、月夜の方へ近づいていった。くそっ!負けるかよ!

俺はさらに腰を落とし、全体重をかけて翼を支えた。全身から汗が吹き出し、その汗はすごい勢いで俺の前方へ吸い込まれていった。翼は不安と悲しみを織り交ぜた表情でジッと俺を見つめていた。

「も……もういいシュウ!無理だ!」

「無理じゃねえ!まだ……いけっ……るっ!」

嘘だった。俺はもう腕がちぎれそうだ。だが不思議と翼はどこも痛くなさそうだ。これもあのクソガキが”自分の人形”を痛めないように配力して引っ張っているからだと、綱引き相手の俺にはわかる。なめやがって……ふざけるなよマジでっ……!

引力は増していく。俺は踵を立てて、垂れた髪が床につくほどに体を反らし、重心を後方へずらした。それでも、徐々に俺の両手から翼の腕がズルズルと抜けていく。くそっ……。

「もういいって。ありがとな、シュウ……」

顔を上げると、翼が安らかな笑みを浮かべてそう言った。俺の脳裏に、翼が女になってから初めて登校した時のことを思い出した。周囲の野次に耐え切れず、思わず翼の手を振りほどいてしまった時のことを。あの時の翼の顔。そして、夏祭りではぐれてしまった時のことを。あの時も手を離してしまった。俺のせいで二度と翼と会えなくなったんじゃないか、死んでしまったのではないか……と思ったときの絶望感、喪失感。あの日、俺はもう離さないと決めたんだろ!

「馬鹿野郎!」

火事場の馬鹿力というやつか、俺は自分でも信じられないぐらいの余力を爆発させられた。この綱引きが始まって以来初めて、俺の方へ翼を引きずりよせることができた!

「おおおおおっ……!」

俺は翼の腕を手繰り寄せた。いける。この調子なら……!

「もーっ、じゃましないでよー!おじさんなんなのぉー!?」

俺は翼にとって何なのか。それは……。

「俺は……翼の……親友……だ……!」

そして俺にとって翼は……。男の親友であり、好きな女だ……!だから、絶対に手放さない!

「いらない!おじさんいらないの!」

突然、引力が弱まった。俺はこの機を逃さず翼の腕を必死に手繰り寄せた。指先が肩にかかった時、

「みんな忘れちゃえーっ!」

前方から真っ白な光が放たれた。次第に半径を伸ばして大きくなり、俺たちを飲み込んだ。

「うぉっ、なんだ、こりゃ……!?」

周囲が真っ白になった。何も見えなくなっていく。翼の顔がぼやけて消えていく。輪郭すらもおぼろげに……。

「シュウ!シュウ!?おい!」

声が聞こえる。まだ俺の両手はしっかりと翼を握りしめている。再び引力が増し始めた。翼の叫び声がだんだん小さくなっていく。どこにいるんだ……。全身の感覚も次第に曖昧になっていき、意識が朦朧としてきた。……駄目だ!翼を取られるな!残った全ての意識と力を両手に込めた。まだっ……つかんでるぞっ……。大丈夫だ……一緒にいる……俺と……まだ……っ……ばさ……。

そして、全てがホワイトアウトした。

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