第5章

俺は鏡の前に立った。その場でクルッ、と一回転して両手でスカートの裾を持ち上げ、「てへっ」と笑って見せた。ボワンとピンク色の煙に包まれて、俺は人間に戻った。

「あ……あぁ~」

俺はその場に崩れ落ち、真っ赤になった顔を両手で覆った。何が”てへっ”だよ。誰が見てるわけでもないのに、一人で何をしてるんだ俺は。……いや見られていても恥ずかしいけど。人形から人間になるにはかわいい格好をして、さらに言動を駆使してさらにかわいくならなくっちゃいけない。だからこんな死ぬほど恥ずかしい芝居をやらされる羽目になるんだ。

夏も終わり、今日から二学期が始まる。とはいえ、この蒸し暑い日中に、こんなふわふわの黄色の分厚いドレスで外に出ないといけないのが辛い。でも布面積……いや”布質量”の小さい格好だとかわいい判定に届かなくなっちゃうんだよな……。

「いいかー?」

「あっ、うんっ」

シュウに呼ばれて、俺はリビングに向かった。人間を保つためには、受け答えもかわいくしないといけない。大分慣れてはきたが、それでも気恥ずかしさは抜けきらない。……特にシュウの前でやるのは。シュウは俺を見ると朗らかに笑って言った。

「おっ、かわいいな。似合ってるぞ」

「…………っ」

もーっ、やめてくれよ。シュウにかわいいと言われるといつも、恥ずかしさと情けなさだけじゃなく、言葉にしづらい高揚感が胸の奥から湧き出してくる。いつからだろう。俺はこの感情に対してどういう反応をするべきなのかよくわからない。頬を染めてシュウの顔を直視しないようにするのが精一杯だった。

俺は席について、朝食を食べ始めた。向かいに座るシュウの顔を見ていると、イライラしてきた。この夏で判明したことが一つある。それは、誰かとキスすれば、俺はかわいさに関係なくしばらく人間でいられるということだ。つまり、その……もしもだが……シュウが毎日俺とキスしてくれたら……こんな末代までの恥をかき続ける必要はなくなるわけで……。それはこいつも知っているはずなんだが、何故かこの夏ずーっと自分からそれを提案することも、俺にキスを迫ってくることもなかった。……何?俺から言わないといけないのかこれ?……そんなことできるわけないだろっ!頼むから空気読んでくれよシュウ。当の本人は俺の葛藤など知る由もないといった風で、自分の食器を片づけていた。

「早く食えよ。遅れるぞ」

「わっ、わかってるもんっ!」

「ん?怒ってる?」

「別にっ!」

ったくもー、なんなんだよ。普通こういうのは男の方から……いや俺も男だけどな!俺も!……もしかしてそこに気を遣って?いやでもさ、普通シュウからだよな、この場合。だって俺の方からシュウに「キスして」なんて言ったら、なんかこう……俺がシュウとキスしたがってるみたいになっちゃうだろ。俺はホモなんかじゃねーし。そんな風に思われるのだけは嫌だ。

「おっ、全部食べたな。えらいえらい」

シュウが力強く俺の頭を撫でまわした。

「子供扱いしないでよっ」

俺は一応抗議はしたものの、それ以上やめさせようとすることはできなかった。シュウに撫でられているとすごく安心するからだ。大切にされてるなー、とか可愛がってもらえてるんだなー、とか……って何考えてんだ!幼女かよっ!

俺はシュウの手を振り払い、洗面台へ走った。

鏡にはくしゃくしゃになった髪と、だらしなくニヤけた自分の顔が映っていた。駄目だ駄目だこんなことじゃ。俺は髪を梳かしながら、表情も作り直した。それらが終わると、鏡の中には全身をゆるふわなドレスと幼女向けの種々の装飾で着飾った自分だけがあった。あーもう……。シュウさえキスしてくれるようになれば、このクソ暑い中、こんな重装備で出かけなくてもいいのにな……。いや、俺はホモじゃないけど。ただ人間でいるには必要ってだけ。そうだ。そのはず……だ。……多分。


「なるほどー。シュウくんと毎日キスしたいってことなんだね」

「言い方!」

俺は始業式を終えた後、空き教室で玲子に相談していた。

「私にはキスしてってかわいくおねだりできるのにねー、翼ちゃん」

「う、うるさい!しょうがないだろそれはっ!」

俺は玲子にキスしてもらうために、ほんの三分ほど前に上目遣いで甘ったるく作ったアニメ声を駆使して幼女っぽく「玲子おねーちゃん、あたしとキスしてっ」……なんてやっちまったばかりなのだ。でもかわいい口調と仕草でいないと人形になっちまうんだから仕方ない。そう、仕方ないんだこれは!

「シュウくんにもさっきと同じやつかませばいーよ。きっと大丈夫だって」

「ばっ馬鹿!そんなことできるか!」

玲子は俺の全身をギュッと抱きしめて、髪をなでながら言った。

「なんでー?私とシュウくんの違いってなーに?」

まるで幼い子供を相手にしているかのような口調にイラッとしたが、大人の男である俺は冷静に返した。

「そりゃ、お前は女だし……」

「なるほどー。シュウくんが女だったらよかったなって話?」

駄目だろそれは!シュウが女になったらあの意外と筋肉ついてる体とか力強くて安心できるあの撫で方とか固いけど芯は優しい手の握り方とかがなくなっちゃうだろ!……って何の話してんだ。そんな話じゃないだろ。

「翼ちゃん、男は嫌いなの?」

「……恋愛的な意味では」

「なるほど。チッ」

なんで今舌打ちしたんだ。一瞬髪の撫で方も乱れたような。まあそんなことはどうでもいい。人と話すことでなんだか頭の中が整理されたような気がする。実はあいつも同じ理由なのかもしれない。俺がホモじゃないのと同じようにシュウもホモじゃない。だったはずだ。だから男の俺とキスできない……?いや、今の俺は物理的には完全に女だし、それは障害になりうるのか?まあずっと同性の親友だったんだから、心理的にはなるか。というかずっと自分のことばかり考えていたけど、あいつも大変なんだよなー……。もし俺が同性の友達とキスしないといけないことになったら?例えやむにやまれずだとしても。やっぱ嫌だよな。かなり抵抗あるよな。それによく考えてみたら、俺とキスしたら俺は人間に戻れるけど、あいつには何も良いことがあるわけでもないしな。

「じゃあさ、こういうのはどう?シュウくんが迫らざるを得ないほどに可愛くなってみせる、ってのは?」

「ふぇっ!?」

違うだろそれは。これ以上かわいさの維持追求なんかしたくないからキスで済ましてもらおうって話なのに……。いや待てよ、もし……もし俺があいつ視点で本当にすっごい可愛くなったら……。あいつの中にあるであろう”男とキスする”っていう心理的な障壁が緩和されるんじゃ?それに、かわいい子とキスできるってのは利点だよな、男としては。そうだ。俺がかわいくなったらシュウもキスしてくれるようになったりする……のか?えっ、でもなんかこう、それでいいのか?本末転倒してないか?

「よーっし、決まりだね!」

「え、あ、ちょっと」

俺はその場では肯定も否定もできず、なし崩し的に玲子の作戦に乗っかることになってしまった。


俺はその日の夜、玲子からもらったシャンプーで髪を洗った。玲子は自信あり気だったが、本当に効果があるのだろうか。シュウが風呂に入っている間に、俺は自分で自分の髪の匂いを嗅いだ。フローラルないい匂いがする。女の子の匂いだ。これはいいかも。でも自分で自分の髪の匂いを嗅ぐとか、すげーナルシストっぽいな……。人には見られたくない姿だ。

シュウが風呂から上がり、向かいに座ってテレビを点けた。果たしてこいつは俺の新しいシャンプーに気がつくかどうか。

「あの新しいシャンプーお前の?」

「えっ!?」

「風呂場の」

「えっ、あぁ、そう……だけど」

置きっぱなしだった……。そっちで気づかれちゃったか……。

「髪を大事にするのはいいことだぞ思うぞ」

シュウはノートと問題集を広げながら言った。俺の方を見ずに。そしてそのまま受験勉強に没頭し、会話が途切れた。……あれ?それだか?俺の髪の匂い嗅ぎにきたりしねーの!?

なんか腹が立つ。こちとら男のプライドを捨ててまでやってんのに。俺は席を立ってテーブルを回り込み、後ろからシュウの肩にのしかかった。

「……な、なんだよ」

心なしかシュウはドギマギしているようだ。少し頬を染めて視線を明後日の方向に向けている。

「わかる?」

「シャンプーの香りか?」

シュウは”シャンプーの”を強調しながら、たどたどしく答えた。正解だけど……なんかこう、思ってたのと違うな。

「もうちょっとこう、感想ないの?”いい匂いだな”とか」

「いや、髪の香り嗅いでんなこと言ったらなんか変態みたいだろ」

なんだ。シュウはそんなことを気にしてたのか。俺が良いって言ってんだからやれよ。妙なところで意気地なしだな。俺は強引にテーブルとシュウの間に割り込み、膝上に座り込んだ。グッと背中をシュウの胸板に押し付ける。これでいいだろ。ゼロ距離だ。

「ほれ。嗅いでいいぞ」

「たくもー、なんなんだよ。そんなにいいのか?」

シュウはシャーペンを置き、右手で俺の髪を一房掴みあげて、ゆっくりと自身の鼻に近づけた。俺の心臓がだんだんと鼓動を早めてくる。あれ……なんで俺までドキドキしてんだよ。髪と頭の上にシュウの鼻息がかかり、俺はビクッと震えた。

「あ、すまん」

「いっいや……気にすんな……」

思ってたよりかなり恥ずかしいぞこれ。いつの間にか顔の温度が上がってきた。心臓がバクバクいってる。

「……いい香りだな、うん」

「なっ!?いい匂いだろ!?」

良かったぁ~。シュウにも気に入ってもらえた。

「で、何がしたいんだよ」

あっ。そうだ。忘れてた。俺はシュウにキスしてもらいたくて……ってこの角度じゃできないじゃん。いや違う違う。何かおかしいぞ。シュウとキスするためには女子力上げた方がいいから、いいシャンプー使って、まず女として意識させてそれで……。いや駄目だろそれは。頭の中が混乱してきた。何をやってるんだ俺は。玲子の口車に乗せられておかしなことになってる。

俺は一旦頭を冷やすためにシュウの膝から降りようとしたが、髪に引っ張られて首がガクッと上向きかけた。シュウがまだ俺の髪を握っていたのだ。

「いつまでクンクンしてんだ!」

「えっ!?す、すまん!?」


次の日、玲子に報告したら、笑い転げて

「あっはっはっは!見たかった~!超見たかったそれ~!」

と言い放った。

「笑わないでよっ!」

「ごめんごめん。でもまあシュウくんも大分女として意識させられたんじゃない?」

いや、シュウには親友でいてもらいたいんだけどなぁ。……あくまで同性の親友でいつつキスしてほしい。っていうとホモっぽいが、断じて違う。違うはず。

「はい、リップクリーム。翼ちゃんは顔が幼いから、派手じゃないやつがいいよね」

「ほ、本当にこれしなくちゃダメ?」

「キスさせるんだからアピールしてかないとでしょ。おねーさんに任せなさい」

玲子は俺を強引に椅子に座らせた。腕力では敵わない。はぁ……。玲子にも逆らえないなんて情けないなぁ……。


手鏡に映る俺の唇は、薄いピンク色を帯びて……る……か?これ。俺の唇の皮膚は塗ったばかりのリップクリームの感触を伝えてくれたが、俺の目はリップクリームの存在を明確には検出できずにいた。

「なんかこれ……見えなくない?わからないんじゃ……」

「そんなことないよー。シュウくんなら気がついてくれるって」

「おーい、何やってんだ?」

空き教室に響き渡ったシュウの声に、俺の心臓が大きな鼓動で応えた。俺は気恥ずかしくて窓の方を向いていたが、玲子に強引にシュウと向き合わされた。玲子は俺の肩に手を置いて言った。

「ねえねえシュウくん、翼ちゃん何か変わったとこない?」

シュウの視線が俺から少し逸れた。俺じゃなくて後ろの何かを見ていることがわかった。俺もその視線の先を追って、左後ろを見た。俺の肩に置かれた玲子の左手からリップクリームが飛び出ている。

「……リップクリームつけたんだろ。いいじゃん、似合って」

「お前今こっち見て言ったろ!」

俺がそう叫んだ瞬間、ボワンとピンク色の煙に包まれ、全身が硬直した。気がついたら床の上に転がり、指一本動かせなかった。男口調で喋ったせいで人形になってしまった。

「……いや、見えた!ちゃんとわかったからな!」

シュウは屈んで俺を拾い上げながらそう言った。ホントかよ。

「ねえシュウくん、翼ちゃんとはまだキスしてないの?」

「なっ……し、してねーよっ!」

シュウは珍しく狼狽えて、真っ赤になって否定した。

「翼ちゃんねー、シュウくんにキスして欲しいんだって」

(お、おい!言うなよ!そんな直球に……)

「!?」

シュウはますます大きく目を見開いて硬直した。お、おい、どうしたんだよ。なんでそんなに動揺してんだ。そんなに男と……俺とキスするのは嫌かよ。いやまあ気持ちはわかるけど。わかるから余計に辛い。

「あっはっはっ、違うよ。キスで人間を維持すればかわいくする必要ないから、って」

「ああ……俺もそれは考えてたけど」

シュウは右手に握りしめた俺を見て、額に皺をよせた。なんだよ、じゃあさっさとそっちから提案してくれりゃよかったのに。俺だけ恥かいて。

「翼が俺とキスしても平気かどうか、ずっと心配で……」

(えっ!?)

教室がしばしの沈黙に支配されたのち、玲子の笑い声がそれを打ち払った。

「あはははっ、それ、翼ちゃんもまったく同じこと言ってた!」

「えっ!?そうなのか!?」

(あーっ、もういい!やめろ玲子!)

なんだよ。バカバカしい。俺たちずっと同じこと考えていながら足踏みしてたのかよ。

「ほらほら、してあげなよ、待ってるよ」

「あ?……あぁ」

シュウは再び俺に顔を向けた。えっ……今するのか。ここで!?

シュウはじっと俺を見つめたまま動かなかったが、段々顔が紅潮してきた。そんなに緊張するなよ!こっちまで恥ずかしくなってくるだろ!俺は黙ってみているしかできないんだぞ!

「じゃあ……いくからな」

(あ……ちょっ……心の準備が……)

ゆっくりとシュウの巨大な顔が近づいてきた。ないはずの心臓が脈打つかのような錯覚。目をつぶりたい。でも体は固く強張ったままで、顔を背けることも、視線を逸らすことも、目を閉じることもできなかった。シュウの顔が視界全てを覆い尽くしてくる様を余すところなく鑑賞させられるばかりだ。思わず逃げ出したくもなったが、手足も一寸たりとも動かせない。

(ふぇ……)

大きな、乾いた唇が俺のちっちゃな、固い樹脂製の口に触れ、そして……口全体を覆った。

次の瞬間、ポワンという音と共に、俺は煙に包まれた。全身が温もりと柔らかさを取り戻し、煙が晴れると俺はシュウの眼前で女の子座りしていた。シュウと……キスしちゃった……か。あっという間に耳まで熱を帯びて、俺はグリンと顔を背けた。

「あっ……戻った、な……うん!」

どうしよう。心臓がバクバクしてる。今度は錯覚じゃない。本物の心臓が。止められないよ。

チラッとシュウの方を見ると、あいつも首を反対方向へ向け、左手で口を覆っていた。俺に負けないぐらい赤い。

「よ……よかった、な」

シュウはそれだけ言って、押し黙った。頼むからそんな反応するなよ!俺もつられてますますいたたまれなくなるだろ!

「フュゥー……」

大きく息を吐く音がして、俺は玲子がいたことを思い出した。玲子は両手で顔を覆っていたが、指の間から両目はしっかりと俺たちを捉えていた。今のキス……全部見られてた!

「おっ……おい!その……あれ……」

あーっ!駄目だ!死ねる!死ぬしかない!消えてしまいたい!

「ありがとう――!」

玲子はプルプルと震えながら、ゆっくりと左手でサムズアップした。

「な……なんだよ!なんでお前がお礼言うんだよ!やめろ!その指やめろーっ!」


「今日から軽装でいけるな」

「ああ。今だからいうけど、見てるだけでこっちが暑くなってきたからな」

「お前なぁ……」

俺はついにフリフリを脱して、薄手のワンピースで家を出られた。シュウがキスしてくれたおかげで人間でいられる。……と言っても一時間前後が限界みたいだけど。

「ああ……涼しい。サンキュ。マジで」

九月の日差しはまだまだ夏を感じさせるものだったが、昨日までと比べると天国のような心地だった。俺は嬉しくてついシュウの腕に抱きつきながら歩いた。

「おいおい」

「ん?照れてんのか?おい」

「お前が恥ずかしくないならいーけど?」

今更だな。俺がこれまでの登下校でどれだけの恥をかいたと思ってるんだ。こんぐらい全然平気だろ。

周囲の視線もまったく気にならなかった。これまでのゴスロリ女子小学生を――珍獣を見つめるかのような屈辱的な視線とはまるで比べ物にならない軽い視線のように感じた。


ホームルームが始まる少し前に、俺とシュウは教室を抜け出して男子トイレの個室に一緒に入った。

「なんか落ち着かないな……」

去年まで当たり前のように使っていた男子トイレだが、今は無性にいけないことをしているかのような気分になるな。

「んじゃ、いくぞ」

「おっ、おぅ……」

シュウが両手で俺の顔をそっと支えて、俺たちは軽く口づけした。感触を味わう間もなく、すぐに顔を引き離した。昨日ほどじゃないけど、俺もシュウも顔が赤い。

「なあこれ、結構……」

その時予鈴が鳴ったので、俺たちはトイレから出て教室に戻った。シュウが言いかけたこと……これから毎日一時間ごとにキスするのって、思ってたより大変かも……。


「なあ、お前ら二人でどこいってんの?」

「え?なに?」

「今日休み時間の度に二人で抜けてんじゃん」

「あ……」

午後の最初の授業が終わった後、俺は山田につかまった。見られてたか……。というか、教室全体が視線や聞き耳をこっちによらしているような。そ、そんなに目立ってたのか?

「別に……なんでも……」

まさか休み時間ごとにキスしてたなんて言えない。そんなこと言ったら何を言われるかわかったものじゃない。

「んなことないだろ~」

「まあまあ、いいじゃん別に」

玲子が助け舟を出してくれたので、俺はさっさと教室を出た。キスしないと次の授業中に人形に戻ってしまう。今日はコーデに力も入れてないし。

少し離れた空き教室で待っていると、二,三分ほどでシュウもやってきた。

「早く早く!」

俺が急かすと、シュウは少しばつが悪そうに右手で頭を抱えた。

「どうし……」

俺が言い終わるよりも早く、シュウは俺に近づいて、腰をまげてキスの体勢に入った。不意を突かれた俺は、反射的に半端な逃げを打った。顔を少し横にずらした、といってもキスはできる程度……その瞬間、シュウの後方……廊下の人だかりが視界に入った。クラスのみんながニヤニヤしながら俺たちを見ている光景が。

「駄目っ!」

俺はシュウを突き飛ばしてしまった。シュウは少しつんのめったが、すぐに体勢を立て直して、”あーあ”とでも言いたげに頭の後ろで手を組んだ。廊下中の視線が俺に注がれている。お前……後ろで見られてるって知っててキスしようとしたのか!?

「おいおーい、気にすんなって、やれよ」

「ヒューッ!」

「いいねえ~」

口々に野次が飛び、俺の羞恥心はあっという間に限界値に達した。

「キース!キース!」

おいっ、やめろよ!ちょっ……頼むから……やめてぇ……。耳まで真っ赤に染まり、

「馬鹿―っ!」

俺はそう叫んだあと、本鈴が鳴り響くまで教室の角にうずくまっている他なかった。


授業が始まって十分ほど。俺は顔を上げることができず、教科書を立ててその中に引きこもっていた。穴があったら入りたすぎる。死んでも転生を拒むかもしれないぐらい恥ずかしい。もーいやだ。なんでこんなことに……。俺が人間でいるためには仕方ないんだよ……。違う……。それ以上の意味は……。あ、やばい。さっきキスしなかったから、もしかすると……。

ボフンという音と共に、俺は一瞬宙に浮き、煙が晴れると椅子の上にちょこんと突っ立っていた。体がまったく動かせない。人形に戻ってしまった。前のやつの腰と背もたれしか見えないけど、教室中の視線が集まっているのがハッキリと感じ取れる。先生の声も止んだ。

「いけよシュウ」

心底面白そうな山田の声が聞こえた。こいつら……やっぱもうキスで戻るって知ってるのか。誰が言ったんだよぅ!

ガタッ、と椅子を引く音が響き、足音と床の振動が伝わってきた。シュウだ。お、おい、まさか今ここでキスするつもりじゃないよな!?玲子はどうしたんだ。……駄目だ。玲子方面からは女子陣のクスクス笑いしか聞こえてこない。床の振動源がだんだん近づき、俺が立つ椅子の横で止まった。巨大な手が俺の全身を掴みあげ、俺はシュウの顔とご対面させられた。ヒュウヒュウ!と口笛が数か所から鳴り、女子陣の謎の興奮具合と、男どものニヤケ笑いが見えずとも感じ取れた。

(お、おい、マジでここでやるつもりじゃないよな!?外でろ!外!)

「……」

シュウが顔を赤くして祈るように天井を見上げた後、勢いよく俺の体は上昇し、向き直ったシュウの唇と接触した。ボフンという音がなり、俺はピンクの煙に包まれた。煙が晴れると、俺は自分の机の上に女の子座りしていた。

周囲から拍手と口笛が湧きあがり、それが俺たちに向けられたものだと分かると、俺はさっきよりも恥ずかしくなり、いたたまれなさすぎて両手で顔を覆って机に突っ伏した。するとシュウの手が俺の頭をポンポン、と優しくなでた。その動きは大分精彩を欠いていた。

「お幸せにー」

「な?この二人夏で付き合うって言ったろ?」

「ちっくしょー、俺はクリスマスに賭けてたのに」

「安藤。机から降りなさい」

今、聞き捨てならない会話が聞こえた。……つ、つつ付き合ってるって!?シュウと俺が!?

「……違うもん」

俺は突っ伏したままボソッと呟いた。だが、喧騒の中、誰にも聞こえなかったようだ。俺は顔を上げて叫んだ。

「付き合ってないもんーっ!!」

「はいはい、わかったわかった」

山田がニヤニヤと笑いながら言った。まるで信じていない風だ。

「シュウ!そうだろ!?付き合ってなんかないよな!?」

俺はシュウに助けを求めた。

「おう……そう、だな」

なんだその歯切れの悪さは。なんでそんな気落ちしてんだ。もっとハッキリ明確に否定してくれよ。そもそもお前がこんなところでキスするからこんな羽目に。我慢の限界を超えた祝福ムードの中、俺は再び突っ伏した。あぁ……消え去りたい。ここから今すぐに。


次の日から、俺はめちゃかわコーデと女児仕草を再開した。学校で一時間ごとにシュウとキスするのはもう諦めた。あんなに囃し立てられることになるなんて。

「暑くないか?大丈夫か?」

「いーのっ……これでっ」

「機嫌直せよ。ホントごめんって」

シュウは直前の休み時間で、未遂だったとはいえキスするのを目撃されてしまったし、事情も玲子にバラされたので、もう隠さないでいっかな、と考えたらしい。信じられない。デリカシーのないやつ。

「無理すんなよ。一応着替え用意してるからな」

シュウは人形サイズのワンピースを俺に見せてから、コンパクトに入れて鞄にしまった。気が利くのか利かないのか。でも俺だって意地だ。自力で……かわいくいて人間状態を維持してやるもん。二度と学校でキスなんかしてやらないもん!

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