第2章

俺はあてもなく町をふらついていた。昨日翼が神社で消えてから、ずっと行方を探していたが、あいつは見つからなかった。突然見知らぬ女の子に声をかけられたかと思うと、突然翼が縮んで、少女がそれを拾い上げて消えたのだ。あっという間の出来事だった。俺も自分で見たことが信じられなかったし、親も警察も誰も信じてくれなかったが、それから翼が姿を消したことだけは事実だった。

角を曲がると、突然すごい勢いで人がぶつかってきた。

「うおっ!?」

「いって!」

俺は体勢を崩して後ろへ倒れそうになったが、三歩ぐらい後退して踏みとどまった。逆に俺にぶつかってきた女の子は思い切り弾き飛ばされて、俺の前で仰向けに倒れていた。

「ご、ごめん!大丈夫か?」

女の子は見た感じ中学生くらいで、腰まである豊富な髪をいっぱいに広げ、フリルのついた青と白のエプロンドレスから、縞々の二―ハイで包まれた細い両足をのぞかせていた。かわいいな。頭には水色のリボンカチューシャをつけていて、普段着という感じには見えなかった。劇か何かを練習中なのかな?……衣装汚れちゃったけど俺がクリーニング代出すパターンかな……?

女の子は起き上がり、叫んだ。

「どこ見て歩いてんだ!馬鹿!」

口調は乱暴だったが、甘ったるい舌足らずなかわいらしい声で、迫力を大いに損ねていた。小さい女の子が背伸びして大人ぶっているかのようだった。

「ごめんごめん、ホントに。考え事してて……」

女の子は段々表情を変えた。キョトンとした後、とても嬉しそうに目を輝かせ、

「シュウ!シュウか!?」

と俺の愛称を叫んだ。あれっ、知り合いか?記憶にないけど……親戚とか?

「俺、俺だよ!翼だ!安藤翼!」

「翼?きみ翼を知ってるのか?」

俺は屈んで目線を合わせた。この子はもしかしたらあいつの居場所を知ってるのかも。

「だから!俺だよ!お!れ!」

女の子は右手の人差し指で自分を指し示し、何度も主張した。自分が翼である……と。俺は何を言ってるのかわからなかった。あいつは男だし、さすがにここまで小さくもない。……翼違いか?女でもある名前だしな。

「あー、俺の言ってる翼は男だから、きみとは多分……」

「だーかーらー!俺だよ!」

女の子は空に向かって絶叫した。女の子座りで両手を地面にペタンと置いて泣きわめきながら。


「……信じられないなぁ……」

というのが率直な感想だった。女の子の家で人形にされていたなんて。

「本当なんだよ!マジで!」

確かに、この子の立ち居振る舞いは翼のものだったし、俺だって目の前で翼が小さくなって女の子と消えるところを見たのだから、今更”非現実的だから信じられない”とは言えないからな。とはいえ人を生きたまま人形に変えて、性別までいじくるなんてできるのか?……確かめる手段は一つだな。

「とにかく、その子の家に行ってみるか」

「はぁ!?何考えてんだお前!せっかく逃げてきたんだぞ!また捕まるだろ!」

「俺が一緒だから大丈夫さ」

俺はそう言って、ついいつものように翼の頭をくしゃくしゃになでた。翼の髪はいつもよりずっとボリュームがありふわふわとしていて、頭も一回り小さく愛らしくて……無性になでていたくなった。

「いつまで触ってんだ!」

翼は俺から遠ざかり、俺は我に返った。なんだ俺。翼をかわいい小動物か何かのように感じていた。ま、まぁ見た目かわいい女の子だし……。でも話が本当ならあの男の翼なんだよな。何やってんだよ俺は。

翼は顔を紅潮させて、俺を睨みつけていた。そんなに怒ることないだろ。

「悪い悪い、もうなでねーから」

「あっ……おう」

一瞬、翼は何故か悲しそうな表情を見せて、少々力なく返答した。……なんだよ、お前が嫌っていうから。俺は気を取り直して立ち上がった。

「とにかく、行こうぜ」

「やめろって、お前も人形にされるかもしんねーぞ!」

「でもこのままじゃお前ずっと女のままだぞ?」

「うっ、それは……」

「じゃ、可決ってことで」

俺はぐずる翼を引っ張って、謎の少女を追うことにした。


「……ここか?」

「……」

翼は無言でうなずき、そのまま黙ってうつむいた。目の前には空き地が広がっていた。家と家の間に、ちょうど一軒分の。雑草が勝手気ままに生い茂り、地面は概ね平らで何もなく、家の跡さえなかった。

「ほ、ほんとなんだよ……ここに……」

翼は間違いなくここに監禁されていたという。だがここに家はない。あった気配もない。翼は涙をにじませて、俺の左腕にすがりついた。

「ほ、本当なんだよぉ……」

自分の腕をつまんで上目使いで話す美少女の姿に、俺は一瞬ドキッとさせられた。ロリコンか。まったく……。翼も本当にお前ならそんな涙声で懇願するんじゃねえ。男だろ……。と思ったが、こいつは今自分を支えるものがなくなってしまったんだな。自分の記憶すら、目の前の現実によって否定されようとしていて、暗闇の中に独りぼっちにされたかのような気持ちになっているに違いない。

「まあ、心配すんな。なんとかなるさ」

俺は翼の頭を優しくなでた。今度は拒否するような動きを見せず、翼はなされるがまま、俺に髪をくしゃくしゃにされていた。

「……うん」

翼は小さく呟き、俺の腕から離れなかった。


「俺が一人暮らしでよかったな」

「あー、マジでそれ」

翼の両親には、まだ信じてもらえないだろうと話し合って、とりあえず今晩は俺の家にあげた。……これで翼じゃなかったら俺は逮捕されるのだろうか。

俺は翼が風呂に入ってる間に着替えを用意しようと思ったが、サイズの合う服なんてないな。当然だけどさ。高校生になってから一人暮らし始めたから、小さいころの服なんかもないしな……。俺は仕方なく、自分のシャツを風呂の入り口近くに置いた。

「着替えおいとくぞ」

「おう。悪いな」

見た感じ、身長40か50センチぐらい違うんだよなぁ、今。まあシャツだけで下まで隠れるかな?脱ぎ晒したアリスの衣装を無造作に洗濯機にぶち込んだところで、少し気になった。……もしかしてこういう服って扱い違ったりするか?

俺が服の手入れを調べていると、翼が風呂からあがってきた。俺のシャツ一枚羽織っただけの格好で。体は全体的に紅潮してまだ軽く熱気を放ち、シャツの裾からは細い小さな足が肌の全てを見せながら伸びている。手はまったく袖から姿を見せることはなく、使われなかった袖の先がダランと垂れていた。

「やっぱでかいな」

「だな」

明日服買いに行った方がいいか?特に下着は必要そうだな……。でもその場合、俺が女児向けの下着コーナーを漁る羽目になるのか。きっついな……。通報とかされねえかな……。と思案していたところ、ポン!という音をたてて、翼の全身が薄いピンク色の煙につつまれた。

「!?」

煙はすぐに立ち消えた。だが、翼はそこにいなかった。

「おい!?翼!?」

あとに残されたのはさっきまであいつが着ていたシャツ一枚だけ。一体これは……?俺は近づいて確認しようとした。

「わー!踏むな!ここだ!シャツの中!」

シャツの中から、小さな叫び声が聞こえた。今の声、翼か?

「どーいう……」

俺は屈んで、ゆっくりとシャツの中を確認した。光沢を放つかわいらしい女の子の人形が、ペタンと座り込んで足で股間を、手で胸を隠すポーズで置かれていた。その顔は……女の翼を違和感なくデフォルメしたような……。突然、人形が走って俺の方に駆け寄り、シャツから出た。

「俺だよ!俺!」

「ま、マジかよーっ!?」

俺はようやく、翼の話したこと全てが事実だと確信できた。と同時に、そのあまりの現実離れした現象に驚きを隠せなかった。


翼はテーブルの上で、全裸のまま体育座りしていた。翼の見た目はまさしく人形そのものだった。ツルツルした、樹脂か何かのような質感の肌。肌色一色で、皺や黒子も見当たらない。体毛もゼロ。そして胸の乳首は消滅し、小さい女の子向けの着せ替え人形のような、滑らかな胸だった。股間も一切凹凸がない滑らかな曲線で、こうしてジッとしているところを見れば、誰が見ても人形だとしか思わないだろう。

「うう……元に戻れたと思ったのに……」

いや女のままだったろ……と突っ込みそうになったが、人間に戻れたという意味だと理解した。改めて詳細な話を聞いたが、かわいい格好をしたら人間になった、と言っていた。だったらもう一度……。俺は洗濯機に向かった。アリスの衣装は見当たらない。どこいった?洗濯機をもう一度覗きこむと、小さな人形サイズの服が落ちていた。青と白のエプロンドレス……。あれだ。衣装も小さくなっている。

アリスの服を着せたものの、翼は人形のままだった。

「うーん、だめか?」

「た、多分、全身コーデじゃないと……」

「え?」

「……だからっ、全身かわいくないと駄目っつってんだよ!」

14センチほどしかないアリスの人形は精一杯の雄たけびをあげたつもりだったらしいが、服と見た目が相まって、およそ迫力といったものは感じられない。しかし、全身かわいくないと駄目ってどういうルールなんだ?よくわからんな……。

「俺は服だけでも十分かわいいと思うんだがな」

「…………んなっ!?」

翼は小さい顔を赤く染めて、2,3秒ほど硬直した後、

「やめろ!俺は男だぞ!変な事いうなよ!」

と騒いだ。かわいくならないと駄目なんじゃなかったのかよ。

靴から頭のカチューシャまで一式着こませると、再びポンッと音が鳴り、煙とともに140センチの翼が現れた。さっきの人形がもし人間になったらこんな感じだろうな、というものズバリだった。肌は皺や産毛やうっすら見える血管を取り戻し、間違いなく人間だった。

「んー、てことは……”ある一定ラインのかわいさ”を満たすと人間になるってことか?」

「ああ、まぁ、そんな感じのこと言ってたな、あの女は」

これもまた信じられない話だが、目の前で見せられては信じるしかない。

「てことはさ、翼はこれから元に戻るまでずっと女っぽいかわいい格好をしてないといけないってことか。……ぷくくっ」

翼が不憫なのは確かだが、その一方で俺はその滑稽さに抗しきれなかった。

「わ、笑うな!……俺だってこんな格好したかねーよ!好きでやってんじゃねー!」

そーなるととりあえず、明日買うべきものは、女児向けの下着ではなく……。あれか。明日日曜だし混んでるかもな……。きつい。


買い物を済ませて家に帰ると、翼はテーブルの上に寝そべりながらテレビを見ていた。服だけなので人形状態のままだ。

「おー、おかえり」

俺は買ってきたものを袋から取り出し、開封作業にかかった。翼はテレビを見てゲラゲラ笑っている。俺がどんな思いでこれを買ってきたと思ってるんだよ……。女児向けの着せ替え人形セットとその服、さらにオタク向けの店にも足を運んでサイズの合いそうな服を買いそろえてきてやったってのに、いいご身分だな。どっちの店も死ぬほど恥ずかしかったんだぞ……。下着の方がマシだったんじゃないかと思えるほどに。まあ、下着も入ってるけど。最近の着せ替え人形には下着もあったので助かった。俺は服を全部取り出してテーブルの上に広げた。

「よし、好きなのきていいぞ」

「ん?ああ、あとでな」

イラッと来たので、俺は強制執行することにした。

「いやいや、ちゃんと確かめないと駄目だろ~、つ・ば・さ・ちゃん」

「おいっ、シュウ、お前……?やめろ!離せよ!変態!」

俺は翼から服を脱がせて、テーブルの服の山に投げ込んだ。


ゴシックロリータ衣装に身を包んだ翼と一緒に、俺は翼の自宅へ伺った。

「うー……、これはずいんだけど……」

「お、じゃあ魔法少女の方にするか?」

「……う~」

買ってきた服が全て有効だったわけではなく、なんというか「普通め」の服やアクセサリーは効果がないらしいことがわかった。フリルやリボンやパステルカラーなどの、少女趣味のものが基本有効戦術のようだ。あとはまあ、女児向けアニメのコスプレとか。そんなわけで、このゴシックロリータは、あの中でも比較的外出しても恥ずかしくない方の服だ。これでも。

翼の両親に、俺と翼は事情を説明したが、やはりすんなりとは信じてはもらえなかった。

「よし、翼、着替えてこい」

「おう」

こうなることは想定済みだ。昔騙されて買った俺のダサいシャツに着替えさせて、目の前で人形に戻す。そうすれば信じざるを得なくなるはずだ。隣の部屋から出てきた翼は予定通りダサ……くもなかった。元がいいからか、サイズの合っていないシャツが幼さを強調して、なんともかわいらしい。頭をなでまわしたくなる。……嫌々、俺は何を考えてんだ。今はそれどころじゃないし、こいつは俺の親友の、男の、翼だろ。しっかりしろ俺。

「シュウくん、もういいよ。君の……」

「まあまあ、ちょっと待ってください」

数分すると、ポンと音がして煙とともに翼が消失した。煙が晴れると床にはシャツだけがある。両親もさすがに驚いたようだ。

「ええっ!?」

「!?」

「よーし、翼、でてこい」

俺は立ったままシャツの隆起に向かって呼びかけたが、返事はなく、翼は一切動かなかった。

「……おい、どうした?翼?」

「もういいよ、シュウくん」

まずい。手品かなんかだと思われ始めたか。俺はシャツから翼を取りだそうと手を入れた。その時異変に気づいた。まるで固い棒のようだ。取り出してみると、俺の右手に握られた翼は、気をつけみたいな姿勢で固まっている。まったく動かない。こうなるとどこからどうみても裸の着せ替え人形にしか見えない。

「おい、翼?冗談はやめろよ」

翼はまったく答えない。

「シュウくん、わかったから……」

まずい。

「あ、すいません、ちょっと……」

俺は隣の部屋に退避した。ふすまを閉めると、急に翼が動き出したのだ。

「っし!動ける!」

俺は安心すると同時に呆れた。

「……あのなあ翼、今はふざけるところじゃ……」

「違う!動けなかったんだ!体が固まって!」

確かに。さっきまでの翼は、いつもと違って体が固かった。

「そりゃどういう……」

「今翼の声がしたみたいだが……」

ふすまを開けて、両親が入ってきた。

「ああ、そう、こいつが翼です。おい翼、……翼?」

翼は両手両足をバタつかせた体勢のまま、もとからそういう形で作られたフィギュアのようでもある。翼は再び活動を停止していた。

「ちょ、ちょっと待ってください」

俺は居間に戻り、翼に適当な箱をかぶせて外界から遮断した。すると中からモゾモゾと動く音がした。

「おお……元に戻ったぞ」

よし。これならいけるか。両親がやってきても、中の翼の音と声は消えない。よしっ。俺は箱に入れたまま翼と両親を会話させた。半信半疑だった翼の両親も、徐々に受け入れ始め、晩飯ごろにはようやく納得してくれた。


「しっかし、なんで親がいると固まるんだろうな?……なんか心当たりはないのか?」

「知らねえよそんなこと!……あ、そういえば……」

翼曰く、犯人の子は”持ち主と二人きりの時だて動ける”と言っていたらしい。なるほど、それで両親が近づくと動けなくなってしまうのか。これもまたなんとも不思議な話だが、もう疑う余地はないな、流石に。

「……最悪だ。俺は箱の中でしか生きられないのか……」

「まあ、かわいい格好して人間に戻ればいんだろ。そんなに悲観することじゃね……」

俺はふと思った。翼のやつ、昨日から俺の家では人形状態の時でも動いていたし、話もできたよな?……ということはだ、もしかして。

「なあ、思ったんだけど、お前俺の家では普通に動けてたよな。なんでだ?」

「は?そりゃお前……それは……」

翼は押し黙り、箱の中らは音がしなくなった。俺と同じ結論に達したらしい。理由はさっぱりだが、どうやら今は、俺が”翼の持ち主”になっているようだ。

「な、なんでだよー!俺は認めねえぞー!」

箱の中から弱弱しい威勢が聞こえてきた。気持ちはわかる。人の所有物になるなんていい気はしないだろう。最も、俺は「持ち主」になったからって翼をひどい目に遭わせてやろうなんて思わないけどな。翼とは小さいころからの親友だし、困ったときは助け合うのが男ってものだ。

とはいえ、現実も直視しなければならなかった。両親の前では動けないとあっては、自宅で暮らすのは困難だ。翼両親の勧めもあり、翼は元に戻るまで俺の家で一緒に暮らすことになった。


「はー、野郎同士で二人暮らしとか最悪だな!」

翼は俺の家で再び風呂に入っていた。さっきからやたらと男がどうのこうのと独りごちていた。今風呂の中で自分の女の体と向き合っているからなのか、と思うとなんだか可笑しくて笑えてくる。……そういえば全裸だと人形には戻らないのだろうか。昨日も風呂の間は持っていたな。俺は翼の全裸姿を想像して、だんだん心臓の鼓動が早くなっていることに気づいた。何考えてんだ俺は。あいつは男で、俺の親友なんだぞ。あいつに……欲情……なんてあり得ないだろ。というか肉体年齢が明らかに元より下だし、いろんな意味でやばいだろーが。くそ。あいつは今、俺だけが頼りなんだ。逆の立場だったらどうする。もしその時、翼が俺に襲い掛かってきたら?

俺は自分を鎮めようと、出しっぱなしだったエロ漫画を片づけようとした。だが、手に取り表紙を見た瞬間、頭に一瞬ふっと”裸の間は人間でいるのならエッチできるのか……”などという煩悩が浮かんでしまった。駄目だ駄目だ駄目だ。落ち着け俺。エロ本を全て片づけ、俺は静かに母親の顔を思い浮かべて沈静化を図った。


「おーい、運んでくれ」

いつの間にか翼が風呂からあがっていたらしい。運ぶ……?風呂の前へ行くと、シャツの傍で小さくなった人形の翼がすっぽんぽんで突っ立っていた。

「……あ、あんまり見んなよ」

翼はそう言って屈んだが、流石にこっちの翼は裸でも欲情したりはしない……な。どうみても樹脂製のフィギュアか、着せ替え人形ってところだもんな。翼をテーブルへ運ぶと、翼は今朝「失格」した普通目の服に袖を通した。

「それは駄目だったやつだろ?」

「いっいーんだよ、これで!」

白のブラウスに膨らんだピンクのミディスカート。かわいさが足りなかったのか、人間になれなかった組み合わせだが、これでいいらしい。なんでだ?

翼はテレビをつけようとリモコンの上に乗ったが、視線をテレビが載る棚に釘づけにして固まった。視線の先には俺が借りたアダルトなDVDがあった。俺がそれを袋に戻すと、翼が顔を赤らめながら言った。

「おい、まさかとは思うが……俺で変な事考えるなよ?」

「んなわけねーだろ、鏡見ろ」

俺は即座に言い返して事なきを得た(多分)が、翼も風呂の中で同じことを考えていたのかとわかり、俺は煩悩が晴れたような気がした。なんだ、あいつ変わってないじゃねーか。男の俺と発想の変わらない、翼だ。憑き物が落ちたみたいに心が軽くなった。そう。いつも通りでいいんだ。……もしかして人形でいることを選んだのは「対策」なのか。

「なあ、もしかしてその服着たのってそれが心配だったからか?」

「はっ……?な、なわけねーだろ!いつまでもあんなヒラヒラした格好ばかりできるかっての!」

翼は真っ赤になって怒りだした。リモコンの上でピョンピョン跳ねる翼の姿は小動物のようだ。

「わかったわかった、そういうことにしておいてやるよ」

俺は人差し指で翼の頭をなでた。風呂上がりの髪からは、不思議と人間の髪の感触がした。

「……だから、なでるのやめろって……」

翼は消え入りそうな声で抗議したが、振り払おうとはせずに、頬を紅潮させて、困ったような表情をしながら、俺の指を静かに受け入れていた。


月曜になり、俺は学校へ行かなければならなかったが、流石に翼は置いていかなければならなかった。翼が金曜の夜に行方不明になった事件は既に情報が行き渡っていて、俺は仲が良かった分、多くから同情されたり励まされたりした。みんな翼を真剣に心配していたが、俺は翼の現状をどう説明すればよいものかまったくわからず、適当に話を合わせるほかなかった。俺が勝手に喋っても翼の両親に迷惑だろうし、何より誰が信じるものか。翼の……俺たちの次なる課題は学校への復帰だ。とはいえ、マジでどうしたもんかね。正直言うと最大の問題は服だろう。全裸か「かわいい格好」じゃないと人間でいられない。てことは、ゴスロリとか魔法少女のコスプレとかで登校して、日中ずっと同じ姿でいなければならないのだが、あいつがそれに耐えられるかどうか……。そして、周りが信じて受け入れてくれるだろうか。


翼は高校に戻ることを同じ理由で嫌がったが、両親と共謀して、動けなくなった翼を高校に強制連行した。職員室で翼の変身を実演させて、何度も説明して頭を下げまくった結果、俺たちは翼が人形になってしまったことを先生たちにわからせることに成功した。私服通学の許可も下りて、いよいよ復帰となったが、案の定翼はごねた。

「こんな格好で教室行けっていうのか!?嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!」

翼は再開した時と同じアリス姿で、部屋の隅に縮こまっていた。

「しょうがないだろ。じゃあゴスロリで行くか?」

「どれも嫌だって言ってるだろ!」

気持ちはわかる。痛いほどわかるが、このままだと出席日数が足りなくなって留年だ。なんとか連れて行かないと。人形にして連れていくという手もあったが、今日に限ってはやりたくない。なんとか説得しないと。

「お前、男だろ?……男ならこんなことでピーピー泣きわめくなよ。胸を張れって。みんな待ってるんだぞ」

「うっ……うぅ……」

男というワードが効いた。翼は少しずつ体をほぐし、20分ぐらいかけて、俺は翼の手を引いて家から出られた。遅くなったが、今日はもともと早く行くつもりだったから時間にはまだまだ余裕がある。家の外にでたはいいものの、翼は両手でスカートを握りしめて、心細そうに震えていた。

「大丈夫。俺がついててやるから」

俺はそう言って翼の肩に手を回して鼓舞した。翼はほんのりと顔を赤く染めながら、「……うん」と呟いた。俺は翼の手を引いて歩き出した。


勇んで出かけたはいいものの、上から下まで完璧にそろえた翼のアリス姿は衆目の的となり、道行く人々全員が俺たちを見つめた。正直相当にはずい。

「何あれ?クスクス……」

「ママ―、見て―あのお姉ちゃん!かわいいー!」

「見て見てあれ、かわいい~!」

翼はもちろん、一緒にいる俺もみんなの好奇や嘲笑の的となり、俺もかなり精神に堪えた。翼は顔を真っ赤にして、ずっと地面の方を向いている。翼が頑張ってるんだから、俺が負けてどうする。気合い入れろ俺。

信号待ちしていると、初老の男性から声をかけられた。

「妹さんかな?はっはっ、かわいい格好してるねぇ」

「え?妹?いや、これ……は……」

妹!?初めて言われた言葉に少し理解が追いつかなかったが、確かに背が高い方の俺が今の翼の手を引いて歩いていたら……そう見えるのか。翼は一瞬、顔を上げて何か答えようとしたらしく、口を開きかけたが、言葉は出てこず、また顔を俯けた。

「はっはっはっ、シャイだねえ。まあ女の子だもんねぇ」

初老の男性は小学生の女の子にでも話しかけるような口ぶりだった。

「何年生かね?」

「は?えっと……」

同い年の高校二年生だとは言えない空気だった。翼は完全に沈黙している。

「ご、五年生……です」

すまん翼。翼は俺の方を恨めしそうに睨みつけたが、反論や抗議は行わなかった。


高校にたどり着くと、より一層激しい視線にさらされた。みんなが面白がって近寄り、スマホで写真を撮り始めた。

「おい、撮影はやめてくれないか」

俺がそう言うと、みんなスマホはしまってくれたが、矢継ぎ早の質問攻めにあった。

「ねえねえ、誰その子?シュウの彼女?」

「妹さん?かわい~いっ」

「それアリス?なんでその格好してんの?」

「いや、妹じゃない。彼女でもない」

「えー、じゃあなんで手繋いでるの?」

「あっと……」

俺はその質問を受けた瞬間、反射的に翼の手を離した。周囲に翼に対する余計な誤解を与えたくなかっただけだったのだが、手を離した瞬間、翼は大きく目を見開いて硬直し、数秒のち

「あーーーーーっ!!」

と奇声を上げて校舎に全速力で逃げ込んだ。

「あっ……おい、翼!」

俺はすぐに後を追って、走り出した。

「あ、今のやっぱり安藤君なんだ」

「噂本当だったんだ……」

「安藤のやつ、超かわいいじゃん」

「うわっ、お前ロリコンかよ?」

「同い年だろっ!?」


「だからー、手を離して悪かったって」

「別にそんなことで怒ってねーし」

「いや怒ってるだろ!」

俺は廊下で担任の花咲先生、翼と一緒に三人で教室へ向かうところだったが、翼はあれからずっと不機嫌で、俺を視線が合うとすぐにそらした。ったくもー、そんなに怒ることか?マジで。

「はいはい、これからホームルームなんだから。二人ともシャンとしなさい」

次の角を曲がれば教室のある廊下、というところで翼が足を止めた。

「どした?」

「……やっぱいい。無理」

顔が今までにないくらい赤く燃え上がり、滝のように汗が流れていた。スカートをつまんだ両手がプルプル震えている。

「留年するぞ」

「中卒でいいわもう。無理。マジで」

確かに、ずっと男として接してきたクラスメートたちとこんな姿で再開して、しかも今後もそれで付き合っていくってのは辛いだろう。でもここで引きこもっても翼にとってよくないはずだ。翼は自分が馬鹿にされて笑われると思っているのだろう。

「大丈夫、もうクラスのみんなには説明してあるから」

花咲先生は屈んで翼と目線を合わせた。

「みんな優しいから大丈夫だよ。ほら、先生も一緒だから。ね」

(小学生をあやしてるみたいだ……)

と俺は思ったが、口には出さないことにした。

翼は駄々をこねるのをやめたが、今度は横目で俺の方を見た。

「……でて」

「え?何?」

翼が俺に何か言ったが、突然で声も小さかったので聞き取れなかった。

「……なでてくれ」

え?なんで今?というか俺がなでるの嫌いなんじゃ……。花咲先生からジェスチャーで”やれ”と指示が出たので、俺は優しく翼の頭に手を置いた。せっかくセットしたのに、髪。ゆっくりと頭をなでたが、翼は不満そうだった。

「……そうじゃなくて……」

「え?」

最近、翼が何考えてんのかわからない時がある。こんな奴だったっけ。

「いつもみたいにっ!」

翼が頭を動かさずに、上目遣いでそう言った。あぁ、そういう……、俺は力をこめて、勢いよくこいつの頭を撫でまわした。頭が俺の手について

ガクガク揺れたが、お構いなしに。男だった時と同じように。ぼっさぼさにしてしまったが、翼は満足したようだった。

「いい加減行こうぜ」

「……おう」


教室に入ると、一斉に全ての視線が翼に注がれた。

「おお~!」

「うそっ、かっわ……」

「ちょ、マジ!?ひゃひゃひゃ……」

俺は自分の席に戻り、壇上の先生と翼を心の中で応援した。

「……というわけで、今日から安藤君が復帰します。みんないつも通り接してあげてね」

教室中からクスクスと笑う声や、ヒソヒソと隣同士で話し合う声が聞こえる。翼は最初は顔を赤らめて視線を落としているだけであとは大丈夫そうに見えたが、だんだん足の震えが見て取れるようになってきた。

「座らせてあげなよー」

「クスクス……」

翼は先生に促されて、おずおずと教室を歩き、自分の席に座った。膨らんだ大きなスカート部分が椅子の横にはみ出た。くしゃくしゃの栗色の髪が椅子の背もたれを完全に覆うくらいの量と長さで垂れ下がっている。そして、足は地面についていなかった。

ホームルームが終わった後、すぐに1限目が始まったので、クラスメートたちが翼にどう接するかはまだ見られなかった。1限目が終わると、いよいよ男時代の同性の友達が翼に話しかけた。

「よう安藤!」

翼はビクッと体を震わせて、おずおずと田中の方へ振り向いた。

「ちょ、その反応マジで傷つくんだけど……」

「お前顔が怖いんだよ。よー安藤!災難だったな!」

「お……おう」

翼は消え入りそうな声で答えた。

「なんだ元気出せよ。いつも通りにいこうぜ」

田中と山田がそう言うと、翼の表情にようやく安堵の兆しが見え始めた。そして話しかけられたのは翼だけではない。

「ねえねえシュウ君、あれ人形の服って本当?」

「ああ、そうだよ。一緒に大きくなるんだアレ。理屈はわかんねーけど」

実際にはたた単純に大きくなるだけではない。質感……布の材質も、服の作りも、何故か人間用の適当な物に変換されているのだ。「この人形用の服を現実に再現したらこんな風」というのを地で行く感じだ。

「私の昔のやつあげよっか?」

「え?いいのか?」

「いいよいいよ、もう使ってないしね」

「……サンキュ」

「ねえねえ一緒に住んでるって本当?」

「人形になってるところ見てみたーい!」

「俺も!」

「あー、それは後でな。もう休み時間終わるし」

翼は嘲笑の的にはならず、みんな優しく受け入れてくれたので、俺は心底ほっとした。翼もだろう。よかったな、翼。翼はまだ本調子ではなく、簡単な受け答えを小さい声で繰り返すばかりだったが、表情は教室に入る前よりもずっと明るくなってきていた。


昼休みに人形変身を実演すると、感嘆の声があがった。

「すっげー。まじかよ」

「なんていうかもう、やべえ」

「きゃー、安藤君かわいいー」

「これ質量保存どうなってんの?」

指一本動かないアリスの人形になった翼は、主に女子たちから大人気だった。外したカチューシャを頭につけると、再び翼はボワンという音と煙を立てて人間に戻った。

「かわいくならないといけないんだよね?」

「あたしメイク教えてあげるー」

「いいっていいって、俺そういうのいいから!」

翼も大分喋るようになったが、人間状態でも女子陣の人形にされるのは免れ得ない運命らしい。翼は女子陣に取り囲まれて、ファッション指南やメイク指導を受けていた。翼は真っ赤になって目を回しそうだ。そうしていると玲子が俺に話しかけてきた。

「ふふっ、寂しい?」

「ん?何が?」

「みんなに安藤君とられちゃったけど」

「いや、俺は別に……というかその方がいいだろ?」

「えー、ホント?……まあいーけど。あたしの幼稚園のころの劇衣装、あげよっか?」

「それは流石に入らないと思う」


「よっすシュウ。安藤は?」

「あの中だ」

「うおぉっ、かわいーじゃん。くっそ羨ま」

翼が戻ってからしばらくは、他のクラスや学年からも見物客が多く訪れて、翼はずっと好奇の視線にさらされた。同じクラスはまだしも、よそとなると全員が全員好意的なわけではなかった。面白がって写真を撮ってネットに上げようとしたり、馬鹿にして笑ってやろうとしたりする連中もいた。だが、クラスの(主に女子)みんなが団結して追い払えたので、俺も翼も感謝してもしきれなかった。時が経つと見物客も次第に減少して静かになり、ロリータ衣装で町を練り歩く高校生にも町の人たちは次第に慣れてきて、翼は大分顔を上げて表を歩けるようになり、自信と明るさを取り戻してきていた。女子の間で翼の服を作るのがプチブームになり、大分お金も助かった。


家の中で翼が玲子お手製の人形サイズパジャマに袖を通している時、俺はふいに

「よかったな、翼」

と声が出た。

「え、このパジャマ縫合あめえぞ、ほら……あっ」

ビリッと音を立てて、パジャマに亀裂が走った。パジャマのことをいったんじゃなかったんだがな。まあ、いいか。俺は人差し指で翼の頭を優しくなでた。ふわふわしていて気持ちいい。指先から柔らかく暖かな感触が伝わる。翼はこっちをジッと見つめたまま動かず、ほんのりと頬を染め、なされるがままだった。

「……なんだよ」

「嫌か?」

「……いや。……もうちょっと……」

翼は頬の赤みを増しながら答えた。俺は右手でゆっくりと翼をつかみ、親指で頭を撫でた。翼はますます紅潮しながらこっちを向いたが、何も抗議も抵抗もせず、俺の手に抱かれていた。

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