第21話 決着
夕暮れの、茜色の光が眩く、スタジアムに射していた。
スコールが一頻り降り注ぎ、ピッチの気温は一気に下がった。試合前に踏みしめた芝生とは、色んな意味で感触が違っていた。インタビュアーが私の前にやってくる。今は何かを語れるほど心が落ち着いていないのに、それでも容赦なく向けられるカメラとマイクに、私は溜息を吐かずにはいられなかった。勿論それが嘆息に聞こえないように、充分配慮はしたつもりだ。
「まずは、激闘、お疲れ様でした」
激闘…。戦ったのは選手たち。私はこの素晴らしい試合を、特等席で見させてもらっただけだ。軽く会釈した。
「最高のゲームでした。おそらく遠く日本で応援しているサポーターも、感動したと思います」
現地アメリカまで来てくれた方、スタジアムに入れず外で声を枯らしてくれた方、そして海の向こうで、深夜にも関わらずテレビを通して観戦してくれていた方に感謝を述べたいと思う。
「最後の場面、監督は抗議もせず、VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)への確認も行いませんでした。その意図は?」
質問の論点はやはりそこに尽きるだろう。インタビュアーの言う“最後”とは、4対4同点となった後の延長戦での出来事に言及したものではない。そうであれば良かった。そうなっていれば、私たちにも勝機はあっただろう。
だがこの試合、4対4にはならなかった。
「動けなかった、というのが正直なところです。私は見入っていた。命を懸けた選手たちの戦いに、心を奪われ、時を失い、私があの場面でもっと冷静であれば、結果は変わっていたかも知れない。それくらいぎりぎりのプレイだった。けれど、動けなかった。そして動けないうちに、主審が終わりの笛を吹いた。敗因は私です。日本の皆さん、すみませんでした」
後半45分+4分。
試合終了が本当に迫る、最後の最期のワンプレイ。日本は劇的な同点弾を叩き込んだように見えた。感情を爆発させたイレブンが、GK那須野洸までもが、挙ってFW能美水流の元へと駆け寄り、青い塊が結束して、炎のように揺れて見えた。
そんな時、不吉は起こった。
主審の鳴らしたホイッスル。それは後半終了を告げるものではなく、副審からの通達に基づいた、オフサイドを決する悲劇の音だった。ブラジルのゴールサイドを判定する副審が、確かに旗を挙げていた。
あの場面を思い出す。
中盤で能美からのパスを受けたMF氷室洋輝は、世界の王たるFWロ‘レックスを乗り越えた。そのまま勢いを持って、150年以上に及ぶサッカー史上最高のアウトサイドパスを、能美の走り込むであろうエリアに通してみせた。地球が震えるように、見ている者全ての歓喜と絶望の悲鳴が、地面を伝(つた)って地球の血液みたいに走り抜けた。
抜け出すタイミングは完璧だった。日本の最後のチャンスを狙った5人の勇者の最前列で、DF5番ポピットとの駆け引きに能美は勝利した。
勝利したのは間違いなかった。
だが悲運。これほどの不幸がこの時、何故この今に起きたのか。
ここまでの90分。走りに走ったポピットの足は、限界を超えていた。能美に着いていくことが出来ず彼は、氷室がパスを出すのとほぼ同時、いや0,1秒先に、地面に膝を付いていた。
つまり、能美はポピットが倒れることによって停止したオフサイドラインを、僅かに越えてしまっていたのだ。ビデオで振り返ると、ぎりぎりのオフサイドだったのか、明白だったのか、それとも転んでもなおオフサイドではなかったのか、今の私には分からない。
けれども審判は、オフサイドを宣告した。そしてそのことに、世界一の名誉と称号を懸けた世紀の判定に、異議を唱えることすら、考える暇を与えられる前に、私たちの航海は終幕を遂げていた。ゲームが再開され、直様主審の笛が再度鳴らされたのだ。
轟いた甲高い音は、まるでカナリヤの歓びの歌のように、終戦を世界に報せる、幸せの黄色い旋律(サイレン)だった。
私は身動き出来なかった。
日本のイレブンも同様だった。キャプテン今宮泰士は抗議に走らなかった。走れなかったというのが正確かも知れない。能美の得点に沸くイレブンは、ゴールが取り消される判定の笛に、それを覆しに走ることが出来ず、ただ動揺した。極限状態で闘い続けた幕切れは、そんな呆気ないものだった。
何が起こったのかを整理する前に、無情な笛は我々の挑戦に、釜の蓋を閉めたのだ。
「とはいえ、監督をはじめ、日本の選手たちは私たち日本人に勇気を与えてくれました。初の決勝進出、そしてこれほどまでに感動的な試合。胸を張って帰れますね?」
意地悪な質問だと私は思った。期待される答えは『YES』。だが幾つになっても天邪鬼が治らない私は、敢えて思惑通りの回答はしないようにした。
「選手全員に同じことを聞いてみてください。誰一人今回の結果に満足している奴はいません。目指していたものを得られなくて、あなたは喜べる人間ですか?私は違います。私の選手たちも違う。私たちは全員で“優勝するために”やってきた。国民の皆さんがどう思われるかは知りませんが、私たちは胸を張ってなど帰れません。空港で笑っている選手がいたら、どうぞ卵でもぶつけてやってください。私たちはこの敗戦を糧にして、今より必ず強くなります。強くなって、必ずリベンジしてみせる。その時、私が監督をしているかは分からないが、今大会が、日本が世界の頂点に届く、その第一歩となれば幸いです。それを踏まえて、あなたは選手全員に同じ質問が出来ますか?出来るのならやってみればいい」
インタビュアーに悪気がないのは分かっていた。しかし私のこの不躾な物言いに彼は戸惑い、口を開けたまま声を失っているようだった。
「失礼」
一応、一言侘びを入れた。私もまだまだ昂ぶっている。決められた台詞を、感情もないまま発するだけなら機械でいい。
ピッチに目をやると、殆どの選手が動けないまま、空を見つめたり、地面に突っ伏して人目を憚らず涙を流したりしていた。勝ったブラジルの選手ですら動けなくなっていることが、いかに死闘であったかを如実に物語っていた。
どこか一つボタンの掛け違えがあれば、或いは勝利は日本に舞い込んだのだろうか。
どんなことがあっても、私たちは王国ブラジルの前に沈められていたのだろうか。
強かった。完全なる強さに、脆さの片鱗は伺わせたが、敵はやはり、王者ブラジルだった。
能美水流は電光掲示板を眺めていた。刻まれている『JAPAN3 4BRAZIL』の文字。その結末に、どんな想いを馳せているのか。
彼の悲願は、ワールドカップ優勝と自身の得点王。その二つが叶えば、Jリーグ所属選手として、初めてのバロンドール獲得も成せただろう。
二つとも、彼は叶えられなかった。
どんな想いで、能美は電光掲示を、その先に映える夕焼けの空を見つめていたのか。
私には分からない。
サッカーワールドカップ・アメリカ大会。
優勝国は前回に引き続き、ブラジル。連覇達成。得点王は7得点のロビー・アレックス。最優秀選手賞も勿論ロビー。まさにロ‘レックスのための大会だった。
忘れるな…。
忘れるな、この気持ち。胸の奥が抉られるような、殺伐とした虚無感を。何かを得るために闘った。喪うものなんて最初から無かったはずなのに。
何か大切なものを喪失したような、そんな寂寞とした、哀しく虚しく、微かに晴れやかな、この気持ち。
今を皆、焼き付けろ。明日のために焼き付けろ。
そして、強くなれ。もっともっともっともっと。
嗚呼、勝たしてやることは、出来なかったなぁ…。
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