第20話 スリー・クォーター
スリー・クォーターという言葉は、所謂サッカー用語にはない。
野球ではオーバーハンドスローとサイドスローの中間、斜め45度から投げる投球フォームの投手を指す。
ラグビーでは、フルバックの前に位置する選手。ポジションを8分割した時にその3/4の場所を主戦場とすることから、スリー・クォーター・バックスと呼ぶ。言わば彼らは切込隊長であり、ラインの突破やパスの中継、そして敵陣の肝へとボールを蹴り入れる攻撃の要。守備時には相手の突破を阻み、ボールを奪取するために激しく敵にぶつかっていく。スリー・クォーター・バックスの実力や出来が、試合の全てを支配する。
それをサッカーに置き換えると、守備的MFが担うケースが多い。チームの状況や、目指すスタイルにもよるが、守備的MFは二人で組み合わせを作ることが多く、それぞれ攻撃が上手いタイプと守備が上手いタイプを併用する傾向にある。それが最もバランスが良いからである。15人で行うラグビーでも、センター・スリー・クォーター・バックスは二人でコンビを組んでいるが、11人で行うサッカーで、もしそれを一人でこなす選手が出てくれれば、数的有利を悉(ことごと)く作り出す、とっておきの核になる。
私のサッカーは4バック、1ボランチ。
そのボランチ一枚がどれだけ攻守の舵を取れるか。ラグビーのスリー・クォーター・バックスのように、どれだけ全てを牛耳れるか。それが世界に挑戦していく中で、極めて重要な要素の一つだった。
スタートはMF掛軸晋太郎。彼には最初から全力プレイを課した。90分間戦えれば御の字。しかしもし途中でガスが切れたなら、交代要員を信じろ。お前の代わりではなくお前とはまた違った味を持つ個性が、ベンチの隅で眠っている、と。
後半早々から投入したFW羽山翼。彼の斜め45度を意識した走り込みに対して、掛軸が何度も何度もラストパスを狙い続けた。執拗に攻める日本の攻撃に、ブラジルDF4番ニッキートンと5番ポピットは神経質な守備を繰り返さざるを得なかったことだろう。時に衝突し、時にカバーリングし、彼らも必死で我々日本に対抗した。
そんな中で、死ぬ前に掛軸は大きな仕事を成し遂げた。一時同点となるMF蜂ケ谷玲央のゴールをアシストし、彼は動けなくなるまで走った自分を褒めるのではなく、悔しさで顔をくしゃくしゃにしながら、ピッチを後にした。
代わりに入ったMF氷室洋輝。弱冠18歳の若者は、ワールドカップ決勝という桧舞台の異様な雰囲気に飲み込まれることなく、その左足を振り翳(かざ)し続ける。まだ世界が彼を知る前の、彼に跪く前の、貴重な数分間を、私たちは垣間見ているのかも知れない。
掛軸が放った輝き。それに見劣ることのない大仰な振る舞いで、氷室も羽山を走らせ続けた。どれほど多くのパスが死に、どれだけ多くのチャンスが消えても、愚直なまでに日本はゴールに迫り続けた。そんな、後半の45分だった。
「選り取りみどりっ、どいつにするかっ…」
ボールが足元に転がってきた時、既に準備は出来ていた。サッカーをやってきて初めてかも知れない。日本代表としてワールドカップで戦う選手にまで成長した氷室洋輝。そんな彼が、それでも初めてだと感じるほど、ボールは静寂の中で産声を挙げる、天使の羽のように温かくふわふわで、自分の元に優しく舞い降りてきた。
安易。この雨で狂った芝生の悪戯に屈しない、美しく、踊るような旋律で、FW能美水流の落としたパスが、氷室の足にまとわりつこうとしていた。
誰を狙うか?
この時、氷室の選択肢は5つあった。
能美水流、羽山翼、柳井祐希、蜂ケ谷玲央、新藤司沙。こんな状況は二度とない。全員が前を向いて走る。最も前に飛び出したのは能美。彼にはポピットが付いていた。しかしポピットには後半開始時の鋭さもなく、顎がかなり上がっている。きつい証拠だ。無理もない。
羽山と柳井もそれに続く。先ほどの水溜まりを利用した能美の超絶パスで方向転換し、一旦速度を緩めたが、それでもまた彼らは前を狙う。DFニッキートンが羽山、スクランブルとなっているブラジル守備に戻るDFログランデルが柳井の動きを阻もうと駆け付ける。
新藤にはMFオ・ドラガオ。本職ではない守備。決して得意ではないが、そんなことを最早言っていられないことは百も承知。黒龍の強靭さで新藤の飛び出しに追い縋る。
猛然と駆け出した蜂ケ谷は、ヒーローになりたかった訳ではない。ただ、負けたくなかった。追い掛けてくるFWジスペルタドールは守備の人間ではない。自分の技術なら、必ず競り勝てる自信があった。
誰を狙うか?
どこを狙うか?
センターサークル付近。得意の左寄りのポジショニング。完璧な位置にパスをくれた能美のテクニックに感謝して、氷室はその左足に魂を籠めようとした。
勝つか負けるか。勝負は一瞬だ。
仲間を信じるとかそういうことじゃない。
必ず勝てる場所を選択しろ。それが勝利を連れてくる。
新藤司沙は優れたプレイヤーだ。だがシュート精度はそこまで高くない。時折驚異的なミドルシュートを決めるが、その攻撃力とオ・ドラガオの守備力を天秤に架けた時、勝敗はおそらく五分。
氷室の中で最初に選択肢から脱落したのは新藤だった。非情かも知れないが、勝つというのはそういうことの積み重ね。
世界最高峰のDF『新世代(ヌーメルセグール)の(デュ)金庫番(ナヴァジュラッセオ)』の異名を取るニッキートン。ブラジルで、バルセロナで幾戦の猛者を沈めてきた人間と対峙する快速FW羽山翼。その勝算を贔屓目なしに見た時に、氷室にはどうしても『必勝』の画は浮かばなかった。瞬時の判断で、彼の中で羽山は囮となった。
5つの取捨の中で、それを個として見た場合、おそらく蜂ケ谷玲央が最も優位な一対一を仕掛けられる場所にいた。しかし一つだけ問題がある。仮に蜂ケ谷がジスペルタドールを躱しても、そこで費やした時間でヘルプがきっと飛んでくる。何故なら彼は5人の中で一番後尾にいた。
となれば、ログランデルより良いポジションを取っている柳井祐希。ここが狙い目。先ほど素晴らしいプレイで攻撃の起点となり、この最後の好機に抜群の威力を発揮している彼こそ、日本の同点弾を撃ち込むのに最適なのかも知れない。氷室はそこを狙った。彼の足にボールが乗ろうとする刹那まで、そんな様々な思考が氷室の脳裏で廻った。
左足が振り上げられる。
対角線、45度の角度。これまで狙い続けてきたゴールへ繋がる布石の結実!
張り続けてきた伏線が報いられるのは、この一時のために!
「嘘だろぉぉぉっっっ!!」
観客の叫ぶ先に、ブラジルの10番!
勝利への果てしなき求道。飽きることなく続く、栄冠を掴み続ける者が見せる勝ちへの狂おしいまでの執着と先見!
戻ってきていた。戻ってきている!ブラジルの10番ロ‘レックス。それは恐怖にも似た、脅威にも似た、平伏すような玉座の御前。
咄嗟の判断で氷室は蹴るのを止めた。あの体勢からそれが出来るということだけで、彼にも世界を射抜く資格があった。
猛然と襲い掛かるロ‘レックス。それでも氷室は怯まない。一秒だって時間が惜しい。ここで負けたら、傷つくだけで何も残らない!
氷室は小さなモーションで、スリー・クォーターな足の振り幅で、またしても前線へボールを供給しようと狙い済ました。多少強引だが、もうそれしかない。
それに賭けろっ!
ロ‘レックスが足を大きく上げて、体全体で氷室のパスコースを消しに来る。
こんな場面で仄暗い海の底ほど怜悧(れいり)な18歳を、私は心底怖く思う。だが、だからこそ最大限の敬意を払おう。
信じられるだろうか?
残された時間もなく、我々は負けている。パスを出してもそれが通らなければ終わり。通ってもシュートが決まらなければ終わり。そもそもパスが出せなければそれで終わり。
今、氷室に掛かる重圧は、建物の梁が折れて崩れるほどに、老朽化した杭が鉄槌で打ち砕かれるように、耐荷重をとうに超えたものだったに違いない。
そんな場面で、氷室はパスせず切り返した。
世界一の選手である、ロ‘レックスを嘲笑うかのように、氷室洋輝は本当にパスを送るようなモーションと寸分違わぬ動きをもって、世界の壁を乗り越えた。
『日本代表?勿論警戒している。イマミヤ、シンドウ、ミツハシ、ハチガヤ。あと勿論ノウミさん、ライバル。それから、ヒロキ。18歳だっけ?あいつ、良いよ。あいつはいつか俺になる』
ロ‘レックスはバランスを崩して、地面に手を着いた。氷室はもう彼の尊敬する、世界一の名手のことなど見ていなかった。目も呉れなかった。
彼は前だけを見た。
動き直す前線。日本の未来がそこにある!
大胆な切り返し。氷室の体は、センターサークル左から、中央へと流れていた。ボールはしっかり足元に。
得意足は左。レフティーな彼は、その信念でここまでやってきた。
そこからは魔法のようだった。
体は右を向いたまま、体幹を固定し、軸を地面に突き刺して、氷室は一本の綺麗なパスを、左足のアウトサイドで引っ掛けた。餌を付けない釣り針が魚を突き上げるような蹴り方は、決して美しくはなかったかも知れない。だがそれは理想的なスピードで、決定的な座標目掛けて、振り向くことなく飛んでいく。
日本のFW二人が、残された4分間でじりじりと作ったスペース。GKとセンターバックの間で、麻痺するように広げられた1メートルの隙間。そこに、いつもとは逆のルートを辿って放り込まれた氷室のアシキャラアイスニードル。
柳井は見つめていた。最後の最後を決する、身も凍るような場面に自分が選ばれなかったことに小さな安堵と、大きな悔しさを持ちながら。
羽山は見送っていた。自分が走り続けたことで生まれたスペース。それを活用出来る才能が、日本に揃っていることを誇らしく感じながら。
蜂ケ谷は声を挙げていた。仲間の背中を後押しする、彼らしくない大声が届くと信じ、それに何の意味があるかなんて、どうでもいいと思いながら。
新藤は祈っていた。この試合で引退すると発言したことを少し後悔している。だって俺はまだ、こんなにも胸の震えを熱く愛おしく感じているのだから。
「だせぇ見出しは勘弁してくれよなっ」
どのメディアが最初に呼んだかは、もう定かではない。
ペナルティエリア、左斜め45度。所謂『水流ゾーン』。
能美水流が最も得意とする形。斜めからカットインしてきて、
シュートを打ちやすい角度から、右足一閃。
そこが、人呼んで『水流ゾーン』。能美は本当にその呼び名を嫌そうにしていた。
苦そうに、微笑みながら。
抜けた。
抜け出した。DFポピット、『帝王』と呼ばれる守備の重鎮。世界が彼の防御に舌を巻いた。子供たちが挙って彼を手本にした。
対人の強さ、空中戦、ヘディングの正確さ、強靭な肉体、ラインコントロール、味方への指示、知性、統率力、カバーリングの上手さと速さ。スピードこそ標準値ではあるが、四年前のワールドカップ優勝は、ポピットの総合的な守備力が齎した功績と言っても過言ではなかった。
そんな帝王(インペラドゥーエ)の(クジェ)最期(モリー)。時代は巡り、人は変わる。
30歳。衰えるには早いのかも知れない。ただ、ここにいる帝王は、最盛期の帝王では、もうなかった。
サッカー人生でこれまでないほどに走らされ、頭を使い続けた帝王は、無惨にも足を縺れさせていた。転んでいた。膝を抱えていた。獰猛なその目はそれでも爛々と。呪いの声を挙げ、見つめているのは日本の9番、新時代のバロンドールを手にする者・FW能美水流。
受ける!
もう難しいことは何もいらない。
日本のクォーター・バックたちが叩き続けた堅固の防壁が、ようやく崩れ去る。
GKアントーニオ。その姿すら小さく見える。
能美水流は、今までで最も難しい局面の、最も易しいシュートをゴールへ流し込んだ。
間違いない。ボールは確かに、ゴールネットを揺さぶった。
飛び跳ねた。誰も彼もが、まるで戦争が終わる鐘を聞くように。終戦に沸くおよそ100年前の疲れ果てた歓喜のように。
後半、時計はもう49分。
日本対ブラジル、4対4!
同点!!
不意に視界が白くなった。ありがとう。私は涙を流していた。
その白んだ光景の中、青き炎がゆらゆら舞った。弾けている。どんどん青が集まって、大きく飛んで、破裂した。
それは日本の選手たちが、能美の祝福に駆け寄って、すぐに離れる様だった。
ここで、主審のホイッスルが鳴り響いた。
雨はもう、上がっていた。
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