第17話 尖った氷の針のように
相変わらず細かいオッサンだ、とMF氷室洋輝は考えていたことだろう。と同時に、よくぞこの場面で俺を戦地に送り出した、という顔をしていた。
「いいか?左利きのお前は、センターサークル付近に常にポジションを取りながらも、“やや左側から、クロスするように左足で対角線のフィード”を送る傾向にある」
氷室投入時、私は入念に彼に指示を送った。残り時間、局面の重要性、それを託すのが『日本に本当の日の出を齎す逸材』と称される、僅か18歳の少年だというギャンブル性を加味して、親心というか老婆心というか、とにかく勝負師として事細かに、これから起こることと、役割を伝えておきたかった。
やれることを全てやって、あとは運命に抗うことを止める。まさに人事を尽くして天命を待つ心境。
「当然、そのことは敵の持つデータにも入っている。分かるか?お前の武器は左足。お前は左足で、ピッチ左寄りから、斜め45度の角度で、終始羽山翼を狙い続けろ。羽山はおそらく何度もオフサイドになる。それでも構わん。同点になった今、あと1点が勝負だ。その1点を取るために、お前はバカの一つ覚えみたいに思われるほど、快速羽山を狙って狙って狙い続けろ。勿論、他のパスの選択肢も不自然じゃないくらいには散りばめろ」(※氷室投入時は3対3同点の局面)
指示は愚の骨頂。氷室はクレバーなプレイヤーだった。氷のように冷静で、氷柱(つらら)のように鋭かった。
後半40分に氷室をピッチへ送り出してから、守備陣も中盤も、氷室にボールを集めていた。彼は色々なところへ正確なパスを供給しつつ、最終的にはFW羽山翼にブラジル守備の裏を狙わせていることが明白なように、時間を作り、パスを放り込んだ。
上手く抜けられれば儲け物。ただやはりそんなに甘くはない。攣(つ)りそうな、縺(もつ)れそうな足で、それでもブラジルの4番ニッキートンと5番ポピットは優秀な対応をし続けていた。
「それだけで本当に勝てるの?いや、まあタスクさんを狙うってのは確率的に言うと確かにもっともチャンスありそうだけどさ」
氷室にとって私は父親のような年齢だ。不躾(ぶしつけ)なのか親しみなのか、彼は最初から私に対して敬語は一切使わなかった。
それが理由で試合に使わないような程度の監督なら、それだけの器なんだ、そう試されているかのようだった。
「チャンスなんて一試合でそう何度もない。本当に決定的な場面なんて、3回あれば上出来だ。決められないかも知れない場面でも、サッカーってのはシュートを打てば何かが起こる。攻撃側も必死、守備側も必死。だからそのたった3回のうち、1回をお前は作り出してくれればいい」
後半44分25秒が経過していた。雨足は強くなる一方だ。夏のスコールはスタジアムの熱気を急激に冷ましていく。それに逆らうように、スタジアムを埋め尽くす狂人たちの声援は、増幅装置に掛けたように音量を増していく。会場全体を靄(もや)とも霞(かすみ)ともつかない膜が覆っていく。それは観客たちの湯気だった。
攻めあぐねている訳では決してない。ブラジルが老獪だった。日本は氷室、MF蜂ケ谷玲央、MF柳井祐希を中心にボールをよく回し、仕留めるためのデシジョンパスを何度も狙う。単調になりすぎないように、長短、前後左右、様々に色を変えながら、それでも対応してくるブラジルに手を焼いていた。
これで崩せれば儲け物なのだ。
「簡単にうまくいくなんて思うなよ。お前ほどの精密さをもってしても、ブラジルはその上を行く。だからお前は“あくまで羽山を最終ターゲットにしている”と奴らに思わせないといけない。オ・ドラガオは急造ボランチだ。本来攻撃を得意とする彼は、交代枠の都合でまだピッチにいるが、守備的なプレイはそこまで上手じゃない。ジュニーニョもログランデルも、攻撃力が買われてメンバー入りしている選手だ。彼らはスタメンだったミカやジロより、帰陣への切り替えが0,5秒遅い。また、攻撃に移る時のスプリントに比べて、守備に戻る時のスプリント力は90%にまで落ちる。更に、ニッキートンとポピットはお互いを信頼しきれていない。特にニッキートンはポピットの細かい尻拭いを幾つかしていることで、本来の1,1倍は疲れている。疲れると判断力が鈍るし、人間はずっと同じものを見ていると、所謂“決めつけ”を脳内に発生させる。氷室、お前はずっとずっとずっとずっと羽山翼を目掛けている。奴らにそう刷り込むんだ。刷り込んで思い込ませることが出来たら、必ず一度、千載一遇ってやつが訪れる」
でなけりゃ、神様は無慈悲だ。
「ああーー、惜しいっ!」
ここナショナル・アリーナは観客席とピッチの間が1メートルしかなく、非常に近い。臨場感を楽しむには最高の環境だし、アメリカでも指折りのサッカー専用スタジアムと言える。
「狙いは悪くないぞっ、18番っ」
どちらの国のサポーターでもない、現地の若者が口々に氷室のプレイを支持する。
鬼気迫る表情で、一心不乱に扉を叩き続ける18歳のレジスタ。何本パスを送ったか分からない。普段パスミスの少なさを売りにしている氷室にしてみれば、この試合のデータは忸怩(じくじ)たるものに成り果てることだろう。
パス成功率、ここまで僅か48%。
中盤の、それも底の選手にしてみれば屈辱的な数字だ。80%近く成功させて当たり前なのだから。
ただそれは、横や後ろへ繋ぐだけの安全なパスを多く含むもの。
この日の氷室は、その行動の殆どを異常なほどの前選択とした。そうするように指示したからだ。
奪われてもいい。オフサイドに掛かってもいい。叩いて叩いて壁が崩壊するまで、徹底的にブラジルの開かない扉をノックし続けろ。
彼に与えられたのは、アディショナルタイム含めて9分程度。
その中でブラジルの双璧を壊すことが出来れば、氷室の勝ち。出来なければ、氷室いや、日本の負けというだけだ。
心中?
そう思って貰って構わない。たくさんいる私の秘蔵っ子。彼もその一人。
第四の審判が遂に、アディショナルタイムの表示を掲げた。
4分!
まだある。必ず勝機はやってくる。
顎が上がり、手をだらりと垂らし、それでも懸命に走るセレソン・ブラジレイラ。彼らとて、目の前に迫る栄誉を前に、そう易々と引き下がることは出来ない。
観衆も含めた7万人以上の人間が、決着を待っている。勝者には最高の賛辞を。敗者には称賛の拍手を。
獣のような喚き声!
また氷室から、羽山を狙ったロングパスが光の矢の如く通った。
今度はオフサイドはなかった。
決まる…、決まるっ、決めろっっ!決めてくれっっっ!!
とうとう後半45分が経過。電光掲示板の時計の針が動きを停め、7万大観衆は呼吸を停めて羽山の挙動を注視した!
孔雀が羽根を広げるように、蜘蛛が手足を伸ばすように、ブラジル守護神GKアントーニオが唸りを挙げて飛び出した。
体を斜めに開き、羽山が難しい体勢ながら、完璧なトラップを見せた。
ボールをパーソナルエリアに落ち着ける。アントーニオ決死の形相。体のどこでもいい、当たってくれ!
アントーニオのその想い虚しく、羽山が放ったシュートはGKの左足を掠めて転がった。
入る、入れっ!入れぇっっ!!
ガンッッ!!!!
ポスト!無情にも羽山のシュートはゴールポスト!跳ね返りをアントーニオが宝物みたいに大事に掴み、抱え込んだ。濡れた芝生が影響したか、アントーニオの足に触れて掛かった回転が、思ったよりもボールの軌道を変えなかった。
「そんな…」
天を仰ぐ羽山翼。氷室も悔しそうに地団駄を踏む。膝丈くらいまで、水飛沫(みずしぶき)が跳ねた。
黒い雲が立ち篭める。滝のような雨は、時間の進みまで速くするかのようにピッチをリズムよく叩き続ける。髪も靴もびしょびしょだ。スタジアムの照明に灯が点った。急激に夜のようになった世界。
何かが起こる前触れのようで、不気味な冷たい風が吹いた。
「グラウンダーのシュート狙えっ!キーパー取りにくいはずだから」
こんな当たり前の指示を出している自分が、もう自分らしくなかった。ただその声は、轟音の雨にかき消されるように、消えて流れていった。
私は初めてだった。
自分で自分の頭の中をきちんと説明出来ないのは。今のこの気持ち、昂揚、情動。闘っている選手を羨ましいとさえ思っていた。
あの中に入って、試合をすることの幸せ、贅沢。選手時代に私が味わうことのなかったもの。
緊張、狂気、中毒、支配。
めげることなく氷室は狙う。
奪われたボールは仲間が全員で必死に奪い返す。この大雨の悪条件の中、彼ら11人は信頼を信頼で支え合うことによって、希望の力と変えていた。
氷室、叩き壊せ!
一度きりでいい。俺の人生の一度きりの我儘(わがまま)でいい。
神様、サッカーの神様どうか聞いてくれ!
氷室のあのパスを、一度でいいからゴールに繋げてやってくれ!
次世代のスーパースター候補生、氷室洋輝。
彼の左足は美しい。MF掛軸晋太郎の突き刺すパスがライジングサンならば、氷室のパスは何と呼ぼう?
『アシキャラアイスニードル(尖った氷の針)』
氷柱を凶器とした殺人で、証拠が何も残らないことをトリックにした推理小説が昔あった。
痕跡の残らない、斬られたことすら気付かないような、そんな冷たいパスを通せ。
ここで、私も予期しないような出来事が起きた。
「撃ったあああっっ!」
背後の観客が叫ぶ。
氷室がシュートを放っていった。
ゴールまでは優に40メートル!枠の右上隅へ、射抜くようなロングショット!
バシッッ!!!!
GKアントーニオが目一杯腕を伸ばして弾く!スパイダーブロー!叩き出されたボールはゴールラインを割る。日本のコーナーキック。
もう私の指示なんてどうでもいい。
勝て!
何が何でも点を取れ、選ばれし11人!
コーナーポストへ、蜂ケ谷が走っていった。ショートコーナー。素早くリスタートする。陣形を整えきれていないブラジル。焦るように目が泳ぐ。
速いボールがニアポストへと送られる。
大雨、黒く飛び込む影。
青いシャツ。日本代表。
飛び込んだのは、今宮泰士!
日本を率いる、尊く、清く、痛みと憂いを知る男。
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