第16話 奇跡の目

 突如強まった雨を切り裂くような、けたたましい笛の音がした。

 「これで何度目だ?」

「6回か7回です」

「正確に」

 サッカー日本代表でコーチを務める河(かわ)上知(かみとも)明(あき)氏に尋ねた。

 「ろ、7回です」

 FW羽山翼のオフサイドを告げるホイッスル。自信なさげに河上氏が答えた回数は、途中交代の羽山がDFラインの裏へと抜けるのを失敗した数だ。

 「残り時間は?」

「約3分です」

「正確には?」

「3分29…28…27秒…です」

 現在後半41分33秒。秒針付きの時計を私は、ベンチ外へ放り出した。カチカチと刻み込まれる度に虫唾が走るからだ。

 羽山のオフサイド。そのうちの2回は、MF氷室洋輝からの50メートル級の超ロングフィードだった。氷室は1本、FW能美水流にもオフサイドとなるパスを送っている。

 私はブラジルの4番ニッキートンと5番ポピットを見た。過去のトラッキングデータを元にしたものなので、参考にしかならないという前提での話ではあるが、彼らの一試合平均走行距離は、4番が9.03km。5番は8.62km。二人共ポジション的な側面もあるとはいえ、90分間で10kmは走らないプレイヤーだった。

 特に30歳を迎えるポピットにとって、雨天とはいえ真夏の10kmは相当辛いはずだ。この決勝戦、前半45分間で、4番は5.11km、5番は5.02km走ったというデータを日本は持っていた。これは明らかなオーバーペースだ。

 だがよく鍛えられている。世界最高峰のスペイン・バルセロナで双璧を成す二人に死角などないのかも知れない。

 とはいえ、私にはずっと気になっていることがあった。

 試合中、4番が5番にストレスを感じているのではないか、というものだ。

 年齢が7つ上で、バルセロナでも先輩にあたる5番ポピットだが、4番ニッキートンは事あるごとにポピットに注文をつけている。会話らしい会話は注意か通達だけ。それぞれがサイドにいるDFログランデルやDFマヌチーニョとは談笑するのに、センターの二人は試合が途切れても滅多に声も掛け合わない。

 よく知らない相手なら、逆に気を遣える。しかしよく知っているからこそ、相手が理想にそぐわなくて、苛々することはないだろうか?

 試合開始から私はずっと見ていた。試合前にブラジルへの対策を立てるため、直近10試合の映像を全部見た。試合後、誰と誰がコミュニケーションをよく取っているのかまで、隈なくチェックした。

 それでもこの4と5が笑顔で話し合っているシーンを、私は見つけることが出来なかった。

 「遅く、浅くなってるよな?」

 独り言のように、私は呟いた。河上氏が関わりたくなさそうに、聞いて聞かぬフリをしているのが分かった。

 「帰陣が遅くなり、30センチ戻りきらなくなってるよな?5番」

「嫌なんじゃないですか?年下のニッキートンに近づいてチクチクつつかれるのが」

 河上氏は皮肉を言ったつもりだろう。年下であり日本代表監督である私は、こと数字に関してはかなり細かく彼に注文をつけてきた。大会が終わったら高級寿司でもご馳走するとしよう。

 「疲労に関してはどう思う?」

 真剣な眼差しをピッチに向け、私と同じかそれ以上にブラジル選手を分析・研究してくれた河上氏は答えた。

 「ニッキートンは分かりませんけど、ポピットはかなり羽山を嫌がってますね。陸上選手くらい速いですからね、羽山は。残り3分であそこを崩せるかどうかでしょうね。あ、残り2分49秒です」

 空費された分のアディショナルタイムも含めると、まだ実質5分以上は残っている。勿論日本の4点目も、ブラジルの5点目も、入る可能性はいずれもある。

 MFジュニーニョ・パラナエンセのパスミスで、ボールがタッチラインを割った。試合が切れたタイミングで、私は近くにいたMF新藤司沙を呼び止めた。

 「羽山と能美にスタートポジションを1分に25センチずつ低くするように伝えてくれ。気持ち的に、ではなく、現実に確実に25センチずつ下げるんだ。あ、当然敵に気付かれないようにだぞ」

 わかりました、と新藤は頷いた。呼吸時に肩が上下するほど、憔悴しきっていた。それでも眼は爛々と、決して死んではいなかった。

 25センチというと、一足分くらいだ。それが4分で1メートルの幅になる。2トップ二人が同時に実行することで、ブラジルDFの感覚が麻痺するのを期待する。そこを基準にブラジルの4と5がライン設定しているとしたら、これまでよりもGKとの間に1メートル余分にスペースが生まれるはずだ。

 巧妙にやれれば、という条件つきではあるが。

 「ブラジルはまだ攻撃の手を緩めないだろうか?」

 なんだかんだ言って、私は河上氏を信用している。彼が私を好いているかは別として、仕事のパートナーとしては敬意を払ってくれている、と思う。

 「ログランデルとマヌチーニョはもう上がってくる素振りを見せませんね。オ・ドラガオも完全にボランチ(守備的MF)になってます。ブルーシャとジュニーニョについても、いつでも後方を支援出来るように、体重が踵に掛かっています」

 私も全く同じ考えだった。強いて言うなら、更にFWコントラジシオとFWジスペルタドールについても、意識の大半が守備に傾いている。彼らは四年前のワールドカップ時、20歳と15歳だった。なのでこれが初めてのワールドカップ決勝の舞台。優勝が目前にちらつけば、より気持ちは守りに入るに違いない。

 ブラジルのボール保持率が明らかに下がった。前線にロ‘レックスを残し、攻撃時は彼に預けて個人技か時間稼ぎに徹する。

 つまりもう、守りきる構え。

 その方が有難い。日本が4点目を取れるか分からないが、ブラジルが5点目を取る可能性はほぼ無いに等しいからだ。


 誰が呼んだか知らないが、私の目は『奇跡の目』なのだそうだ。

 私は選手としては平凡なミッドフィルダーだった。『バードアイ』と称される、俯瞰からピッチ全体を見下ろすような視野を持つことは出来なかったし、例え見れたとしても、ボールを1ミリもズレることなく思い取りの場所へ配給するテクニックを持ち合わせてはいなかった。

 だが現役を退いて、スタンドから観戦する機会が増えてから、誰よりも適確に『敵の急所』が視えるようになった。監督業をやり、熟練していくことでその精度は上がり、試合中に指示として選手へ伝えられるようになった。

 私は自分が『奇跡』と呼ばれることを享受していない。烏滸(おこ)がましいし、何よりまだ私は何も成し遂げていないからだ。


 もしこの試合、勝つことが出来たら、甘んじてその二つ名を受け入れよう。それくらい自分を甘やかしてもいい。


 ブラジルの4と5の乖離(かいり)。

 ブラジルの4と5の消耗。

 ブラジルの4と5の不仲。

 世界最高のセンターバックコンビと、人は言う。

 その形容と、私の通り名と、果たしてどちらが正しいか。


 憔悴しきった日本が勝つには、もうそこを徹底的に突くしかない。私には叶わなかった、「ピッチ上から鳥瞰し、粒子を通すほどの細緻なパス」と「寸分違わぬ精度で、足元のピンスポットにボールを落とすトラップ」を体現出来る者がいる。

 そいつらに試合の行方を委ねよう。

 私は、運命に抗うことを止(や)めた。指示は、使命は、全てピッチに置いてきた。

 時計は後半44分00秒を回った。

 降り頻る雨はいよいよバチバチと、駆り立てるように地面を叩き始めた。

 サッカーの神様が、演舞の続きを催促しているのだ。

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