第15話 セレソンたちの62秒

 後半40分、全てを捧げたライジングサンズ・パスを通した日本の4番・MF掛軸晋太郎。見事なまでの落ち着きで、平常心を保ってゴールにパスを突き刺した日本の10番・MF蜂ケ谷玲央。

 その蜂ケ谷に担ぎ起こされて、掛軸はピッチを後にした。誰よりも走り、誰よりもブラジルの泣き所へパスを撃ち込み続けた掛軸の左足は、もう臨界点を超えていた。

 交代。入るのはMF氷室洋輝。今大会最年少、18歳の穢れなきメディオ・セントロ(中盤に君臨せし者)。

 理論型が聞いて呆れる。日本のベンチにはMF名(な)郷宗(ごうむね)寛(ひろ)、DF(攻撃的サイドバック)三橋(みつはし)親(しん)といった、世界的に見ても名の知れている切り札が眠っている。そんな中、私が最後の交代カードとして直感的に切ったのは、未知の魅力と野望に燃える、二十歳に満たない若人だった。

 掛軸と同じ、ワンボランチを氷室に託した。

 試合再開のホイッスルは、大観衆の我を忘れた熱波にかき消された。ここニューヨークのナショナル・アリーナは『魔女の釜』と称される。釜のような勾配のきついスタンドに、歓声も怒声も悲劇も歓喜も、渦巻くように反響する造形となっていることに由来する。

 自分たちの声が狂おしく艶やかにコーティングされるスタジアムの中で、観客は魔女に魔法をかけられたように、試合に魅入り、熱狂していく。

 ブラジルの中心、FWロ‘レックスがキックオフする。中盤の底でバランスを取っていたMFオ・ドラガオがパスを受ける。直(すぐ)様(さま)MFブルーシャへ。周囲を見渡して、ブルーシャは3タッチだけドリブルする。すかさず中央でフリーとなり、汗を拭ったロ‘レックスの足元にボールを戻す。ロ‘レックスがターン。激しく寄せるMF新藤司沙。本当によく走る。攻撃を遅らされたロ‘レックスは、それでもボールを離さない。MF氷室洋輝がダブルチームに行ったところで、ロ‘レックスはDFニッキートンまでボールを下げた。ニッキートンからDFログランデル、ブルーシャを飛ばしてFWコントラジシオへと長いパスを入れるも、日本のDF橋本渚がカットする。

 「どんまい」

 ロ‘レックスが声を掛けた。ログランデルにそれが聞こえたかは分からないが、近くにいたコントラジシオには届いていた。

 そういうことを言う奴じゃなかったよな…、コントラジシオはふと思った。

 橋本は前に仕掛けることも出来たが、同点に追いついたばかりで無理はしない選択を取った。延長戦も視野に入れて、じっくり攻めていく。追いつかれたブラジルの方が気持ちは焦っている。だからそれを逆手に取ることも、王者ブラジルの真骨頂である『マリーシア』のお株を奪う戦法だろう。敢えてコントラジシオとオ・ドラガオを食いつかせておいてから、橋本はGK那須野洸にバックパスした。スタンドからは小さなブーイング。消極的なプレイに喝を入れた。だが気にするな。観衆は無責任。日本はこのまま、ブレイクとカウンターを狙いたい。

 足元の技術に優れる那須野は、余裕を持って逆サイドのDF鈴木駿へと展開。鈴木は少しドリブルで持ち上がり、氷室を経由してMF柳井祐希にパスが繋がる。柳井は前選択を探す。腐れ縁のFW能美水流を最初に見た。厳しいマークに遭っている。止(や)めよう。もう一人のFW羽山翼は快速だ。裏へと抜ける準備はOK。浮き球でブラジル守備網の頭越しを狙う。

 DFポピットがそれをクリア。ボールはMFジュニーニョ・パラナエンセへ。ジュニーニョはそれをすぐにロ‘レックスへと送った。

 一進一退だった。ロ‘レックスは愛弟子、FWジスペルタドールとのワンツーで抜け出しを図るが、ジスペルタドールからのリターンが15センチズレて、目論見は不発に終わる。

 「気にすんな」

 日本ボールになるや否や、全力で敵の進軍を遅らせながら言葉を寄越す憧れの存在を、ジスペルタドールは今までにない不可思議な感覚で見つめていた。

 DF今宮泰士は、細かなテクニックでボールを扱うことが苦手だった。上手くはなった。昔にくらべれば雲泥の差だ。必死で彼は、大切なボールに魂を籠めて、ついさっき殊勲の同点弾を決めたばかりのMF蜂ケ谷玲央にそれを届けた。自分たちの方がブラジルより走っているだろう。けれども日本というのは忍耐と辛抱の国民だ。我慢強く粘り強い。もし延長に入ったら、俺たちの方がきっと有利に違いない。90分で決めきれなかったブラジルは、国民感情も相俟(あいま)ってきっと崩壊する。集中力を失って、日本に勝機が舞い降りる。

 そう、誰もが考えているだろうなぁ。

 意図と意志と希望を持って、蜂ケ谷は氷室にパスをはたいた。彼の天使みたいな優しいパスは、氷室にダイレクトプレイ以外の選択肢を与えない、メッセージ付きのものだった。顎を上げて、背後を見ろと目配せした。

 氷室の見る景色。そこにはパスをくれた蜂ケ谷と、DFラインを引き付ける能美と、そして既にニッキートンを置き去りにしている瞬足・羽山の姿が静止画のようにはっきりと見えていた。

 ちょうど45度。自陣後方にいる氷室。彼のパスの入射角がちょうど45度。その延長上に羽山がいる。

 ここしかない!

 70メートルはあろうかという一直線に、氷室は薙刀(なぎなた)の一閃のようなパスを貫いた。中盤の左から蜂ケ谷によって戻されたパスで、ブラジル選手は気を緩めた。縦に攻めてこられることを最も嫌っていたため、蜂ケ谷が単純に後ろに選択肢を取ったことで、緊張が緩和した。

 だから、氷室のパスは殺人蜘蛛の一撃となった。これだけのロングレンジのパスを正確に通すのは、それだけでオペラ座の一等席に匹敵する価値がある。

 抜け出た羽山がフリー。半身で受けて反転する。振り向けばそこは理想郷。GKしかいない世界で、俺が時空を統治する!

 なぜ?

 会場にいる誰もがそう思った。羽山は凍りついた。その一瞬を黄色い獅子王は見逃さなかった。

 なぜそこにロ‘レックス?

 GKアントーニオと対峙し、それを乗り越えればユートピアが広がるはずの世界の果てで、羽山は激しく転がった。ロ‘レックスと接触した訳ではない。あまりの意外な出来事に、彼は立っていることすら出来ず、ただ君臨する王に跪くように、身を翻し、逃げ延びた。自陣ゴール前でボールを保持するロ‘レックス。

 「3度もお前を失望させてすまなかった」

 不意に労(ねぎら)われたアントーニオは口をあんぐりと開けていた。ゴールを守る彼にとってもその言葉は予想外だった。だから彼は事態の咀嚼に時間を要した。

 その数秒。

 ロ‘レックスは間髪入れず漕ぎ出した。出発点はゴール前。自分の陣地の最南端から、敵のゴールの最北端を目指して。

 長く短い航海だ。

 11人抜きをしようなんて考えはどこにもない。そんな御伽(おとぎ)噺(ばなし)みたいな、寓話みたいな子供じみた発想は、ダストシュートに捨て去った。

 「マヌチーニョ、右に大きく開け!ジュニーニョはそれをフォローしろ!スズキとハチガヤが組織で潰しにくる!」

 日本人には理解できないポルトガル語を響かせて、ロ‘レックスが低くて速いパスをマヌチーニョに通した。タッチライン際を素早く駆け上がる彼を守護するように、ジュニーニョ・パラナエンセが進路を作り出す。鈴木と蜂ケ谷の対応が遅れる。二人の真ん中を突き破るように、マヌチーニョがドリブルで抜け出した。そしてセンターサークル付近まで到達しているロ‘レックスにボールを戻す。

 「ログランデル、ブルーシャ、オ・ドラガオ!3人で向こうの中盤を掻き乱せ!左を手薄にするために忙(せわ)しなくポジションチェンジしろ!」

 ワンタッチで軽く浮かせたパスが、ログランデルの速度を一切緩めない完璧なタイミングで彼の元に落ちた。ログランデルはサイドから中へ侵入する。縦関係にあったブルーシャがサイドバックの位置まで落ちて、中盤に君臨するオ・ドラガオが空いたサイドへ流れる素振りを見せてから、踵(きびす)を返して中央でログランデルのボールを攫(さら)った。

 日本の守備陣は、ボールホルダーだったログランデル、それに近づくオ・ドラガオを最大警戒した。低い位置に下がったブルーシャのことも射程圏に入れながらの対応を迫られた氷室洋輝と橋本渚は、精神的な逼迫を感じていた。

 あれ、ロ‘レックスは?

 ブラジルの10番がいない。そんなはずはない。今の今までセンターサークルで指示を出し、混乱に乗じて左サイドを狙うような走り方をしていた。

 オ・ドラガオがドリブルを開始。誰がマークにつくのか、日本が1秒逡巡した隙に、オ・ドラガオは6メートル前に出た。誰も彼についていない。

 慌ててDF依田大記が釣り出された。やむを得ない。『右隻(うせき)翼(よく)の黒龍』オ・ドラガオはこの日1ゴール。ブラジルで最も警戒すべきアタッカンチの一人だからだ。

 ゴールまで約25メートル。オ・ドラガオはシュートモーションに入った。右利きの彼が右足を振り上げたら、切り返しやフェイントを入れることはほぼない。それはデータが指し示す。

 撃った!依田は間に合わない。だが弱い。ミスショット?

 「コントラジシオ!ダイレクト!0秒で折り返せ!」

 オ・ドラガオは一際大きな軌道を描き、その振り上げた右の翼で、シュート性のパスをした。手薄になった左サイドを駆け上がる、コントラジシオ目掛けた一世一代のドラゴナル(ドラゴン×ダイアゴナル)・パス!

 シュートも出来る!それほどに完璧なダイアゴナルパス。敵陣を斜めに切り裂く混沌の贈り物が、コントラジシオに渡る。彼はそれを何の抵抗もなく、赤子が全てを母なる存在に委ねるように、中央へ菩薩のような慈愛を籠めて、折り返した。

 ペナルティエリア内!後のない攻防!さっきまでセンターサークルに位置し、姿を消したブラジルの牽引者が、信じられない速さで最も危険なゾーンに入り込んできていた。必死で戻ったDF今宮泰士と氷室が時空の悪魔・ロ‘レックスの乱舞を停めると吠え立てる!

 「ほらな?俺の言った通りだろ」

 ロ‘レックスはスルーした。日本守備陣は完全に裏をかかれた。円満具足、完全無欠。ロ‘レックスのための、ロ‘レックスだけを狙ったコントラジシオの光速クロスは、なぜかそれを受け取らなかったロ‘レックスを抜けて、反対サイドに飛び込んできたジスペルタドールに異常なほどにぴたりと合った。

 今宮は体中の筋や腱が切れてもいい覚悟で、体勢を取り直す。肉が髄がビキビキと音を立てる。

 自分が出た直後に失点するなんて場(ば)都(つ)が悪すぎんだろ、と氷室は、余裕を見せたロ‘レックスを放り出して、己れの持つ全知全能でジスペルタドールの視界と可動域を奪う動作を取った。

 「さっきも言ったけど、お前も俺に折り返せ、ジスペルタドール」

 ポルトガル語の呟きは、今宮にも氷室にも聞こえない。薄く微笑み頷いた、ジスペルタドールだけがロ‘レックスの時間の中で生きていた。

 「あっ…」

 諦めることは出来ない。譲ることも出来ない。だけど世界がこんなに優雅で穏やかなんて、今だけは知りたくなかった。

 頭上を、最大限の集中力で動体視力が飛躍的に増している今宮泰士の頭の上を、まるでストップモーションみたいにボールがゆっくり越えていく。

 交通事故に遭う時に見るような、そんな尋常ならざる時空の歪み。

 こんなにはっきりボールの流れが見えているのに、なんて俺は無力なんだ。手を出すことも出来ない。一発レッドで退場でもいい。今この手が動いたら、俺の存在と引き換えにハンドをしてもいいくらいなのに。

 今宮は生涯忘れることはないだろう。この時の悔しさを。

 ボールは嘲るように、彼の真上を通過した。ジスペルタドールの攻撃センスは、ロ‘レックスの要求から1ミクロンもズレない箇所へ、0,001秒の遅れもなく、綺麗な球を供給した。

 「ノウミサン、これが俺たちセレソン・ブラジレイラさ」

 触れるだけだった。愛撫するように敬意を持ってボールに触る。

 力も何もいらなかった。そっと左足でボールを撫でたロ‘レックスの、この日決めた2点目が、ブラジルの勝ち越し点となった。

 苦労して苦労して積み上げた日本の3点。無様と笑われ、罵られ、地に落ちた王国は、それでも泥のぬかるみを決死の思いで脱け出して、世界に答えを示して見せた。

 後半41分、ブラジル再びリード。日本3対ブラジル4!

 スタンドを埋め尽くす賛辞の雨!掌を返したように、カナリヤたちを褒め称える拍手の轟音で、立ち篭める雲が今にも割れそうだった。

 興奮!昂揚!激情!昇華!

 「ブラジル!ブラジル!ブラジル!ブラジル!ブラジル!ブラジル!ブラジル!ブラジル!ブラジル!ブラジル!ブラジル!」

 耳をつんざくブラジルコール。圧迫されて押さえ付けられていた情熱が、サポーターたちの喉を割って飛び出した。

 蒼白の日本。青き魂の戦士たちの顔から、血の気が引いていく。

 「俺たちは世界のブラジル。いつどんな時も、日本の前に俺たちは立ちはだかる」

 そう言い残して、ロ‘レックスは自陣へと帰っていった。その背中に担ぐ10番の、責任と重みを私は痛いほど感じていた。仲間にもう一度囲まれて、ロビーは持ち前の剽軽な笑顔を見せた。

 この1分。彼にとって生まれ変わるような1分間。

 日本を殺す、62秒。

 強いな。本当に強い。そして、相応しい。

 世界一に?彼らが?

 いいや、違う。


 私が倒すに、相応しい…!

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