第14話 無様

 ニューヨークの陽が翳る。

 スタジアムは異様な雰囲気を漂わせていた。虫は羽撃(はばた)く音を消し、鳥もナショナル・アリーナに近づかない。この世のものとは思えぬ気配が、会場のそこかしこに禍々しく潜んでいるかのようだった。

 黎明の国から、黄昏の国へ。

 日出ずる私より、落日の貴殿(あなた)へ。


 舞い散る芝に八つ当たりし、ゴールポストの無慈悲を怨み、ブラジルの1番GKアントーニオは歯軋りをした。

 天を仰ぎ、自分たちを守ってくれなかった神様を軽蔑し、ブラジルの3番DFマヌチーニョは胸で十字を逆さに切った。

 着いてしまった膝に鞭を入れ直し、自身の頬を何度も平手打ちし、ブラジルの4番ニッキートンは闘志に再度火を入れた。

 僅かな雨が恵みの雨たり得なかったことを非難し、地団駄を踏みながら、ブラジルの5番ポピットは必ず神の加護があると信じた。

 忌まわしき得点者を囲む、青き愚かな集団に鉄槌を下すことを夢に見て、ブラジルの6番ブルーシャは奥歯を強く噛み締めた。

 己れの決めたゴールのことなど記憶の端から消去して、無我の境地にいるように、ブラジルの8番オ・ドラガオは静かに目を閉じた。

 振り乱した髪を整えながら、堕ちゆく汗に一瞥し、ブラジルの11番コントラジシオは、日本へ手向けの歌を口ずさんだ。

 これで舞台は揃ったと、英雄になるお膳立てが願わずとも叶ったことに、ブラジルの19番ジスペルタドールは身震いした。

 届かなかった一擲(いってき)が、何度も何度も蘇り、その戒めこそ我が火種と、ブラジルの20番ジュニーニョ・パラナエンセは奮起した。

 自分にきっと次はない、きつく握られた掌に血が滲めば滲むほど、ブラジルの22番ログランデルは冷静さを取り戻した。

 人々の醸し出す熱気なのか何なのか、じとじとするような鬱陶しく、何もない虚空を冷たく睨みつけ、ブラジルの象徴たる10番ロビー・アレックスは、制御出来ない感情が後から後から沸いてくることに戸惑っていた。怒り、それとも悦び?


 なんだ、これは?

 なんだ、この体たらくは。

 俺たちに何をした?

 俺たちは何をした?


 容赦ないブーイングが渦を巻く。日本の怒涛の猛攻を支持してきた者たちは、歓喜の坩堝に飛び込んだ。我を忘れて喜び合う人々。その裏側にいる、鬼の面(つら)した黄色い悪魔。

 およそ5万人はいるだろうか。それだけの人間がたった23人、いやピッチ上の11人の戦士に向ける、有象無象の罵詈雑言。汚い言葉が飛び交い、子供らは目と耳を塞いだ。

 怖い…、怖い……。

 憎しみ、疎(うと)み、蔑(さげす)み、嘲(あざけ)り、嫌い、罵り、見下し、怒鳴り、喚(わめ)き、嘆き、喪(うしな)い、滅び、狂い、殺し、吊るし、滅す。

 まるで怨霊や魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)の饗宴(きょうえん)か。死せる者の晩餐か。

 かつて世界の歴史に刻まれたサッカーの試合で、これほどまでに負の感情が蔓延(はびこ)ったことがあるだろうか。

 恥曝し!二度と祖国の地を踏むな!

 はっきりと声が聞こえる。一時は3対0でリードしていたブラジルが、手を抜くことを許されないワールドカップ決勝の舞台で、サッカー後進国と揶揄する日本に追いつかれたのだ。

 国民全てが監督とまで言われる、サッカークレイジーの巣窟。その彼らが最も尊厳を傷つけられたと感じるのは、母国の選手が無様を晒して這い回る時。

 自殺したくなるほどの、憤りと呆れ。虚無と暴威。収集がつかなくなる、やり場のない情動。

 「帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!帰れ!」

 やがて大合唱が始まる。試合再開のホイッスルすら聞こえないほどに、スタジアムは不幸せを歌うカナリヤで溢れ返っていた。

 ロ‘レックスがキックオフする。ボールを後方へ蹴り出した彼は、栄誉と歴史と伝統あるこのナショナル・アリーナの観客席をぐるりとゆっくり見回して、一雫の涙を零していた。それは誰にも見られることなく、雨と共に、しっとりと緑の大地に染み込んだ。

 そこにはやがて、芽が出るだろう。地中深くに根を下ろし、大きな樹木が立つだろう。見たこともないカナリヤ色の、大輪の花が咲くだろう。


 ロ‘レックスは顔を拭った。彼が拭き取ったのは汗か涙か分からない。だが一言だけ囁いた。

 「オブリガード.アカバールコムイッソ(ありがとう。)」


 パスがロ‘レックスに戻る。上を向き、前を見据えたその顔は、今まで彼が人々に振り撒いた剽軽で人懐っこいものとはまるで懸け離れていた。

 鳳凰の威厳と神竜の尊厳を合わせたような、時代を拓く麒麟児(きりんじ)の顔だった。

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