第18話 激動の雨

 「今宮だぁぁぁっっっ!!!」

 日本のベンチ裏、一際声の大きな現地ファンの叫び。

 ゴールを期待するのか、ブラジルの仁王像のような守備に興奮するのか。

 MF今宮泰士が掠らせるように頭に当てたヘディングシュートは、GKアントーニオの目の前でワンバウンドし、最も処理し辛いものとなった。それでも目一杯左足を伸ばしたアントーニオが、ボールを弾き上げ、宙に舞ったそれは再びゴールラインを割った。

 「おおおおおおおぉぉぉぉぉーーーーーっ!」

 日本への期待の方が多くなっているのだろうか。

 いつの世も、弱者が王者を追い詰めていくこと。それが物語を盛り上げるスパイスとなり、大逆転劇ともなれば、スタンディングオベーションを頂戴出来る最上級のフィナーレとなる。

 強いと呼ばれる方が当たり前の結果を得るのではなく、弱い者が必死で足元に縋りつき、不格好に食らいつき、じりじりと強者の喉元に刀を突き立てていく。

 そのことに人は昂ぶる感情を覚えると私は思う。

 歓声は、きっと日本を後押ししてくれる。どっちつかずで観戦に来たサッカーマニアックたちは今、間違いなく日本が初めて世界に戴冠することを、『歴史的な事件』の勃発を、求めて声を挙げている。

 反対サイドのコーナーフラッグにMF蜂ケ谷玲央が立つ。見渡す。MF氷室洋輝のアシキャラアイスニードルからの得点でもいいが、勿論このコーナーキックからの得点でも構わない。

 どんな形でもいい。世界に釘刺す同点弾を!

 滴る汗を腕で拭い、こんなに疲れているのは人生で初めてだと言わんばかりに、蜂ケ谷は大きく息を吐いた。ペナルティエリア内の敵味方の選手を見比べていた目は、なぜか瞬間、スタンドへ向けられた。そして空を見る。激しく落ちる、きつい雨。だが心地好い。茹で上がった脳みそが冷やされていくようだ。

 時間がない。早くボールを蹴らなきゃ…。

 もしそんな風に思っていたなら、絶対に出来ないような間の取り方。蜂ケ谷は驚くほど自分が冷静なことに、過剰に驚いていた。

 後半45分が回る。負けているチームがゆっくりしていても、主審は『遅延行為』の反則を基本的には取らない。焦れた観衆の一部が抗議の指笛を鳴らすが、蜂ケ谷は動じない。

 ようやく蜂ケ谷がボールをセットする。3歩後ろに下がる。副審に話し掛ける。微笑を湛える蜂ケ谷。

 幕切れの、エンドロールが流れそうな光景だった。私は見入っていた。早く蹴れ!という無粋な声を飛ばすことも忘れ、えも言えぬ蜂ケ谷の、王のような所作に目を奪われていた。

 ステップし、蹴り出す。高いボール。これまでで最も美しい放物線。ニアサイドに陣取ったブラジルDFと、日本のアタッカーはそれを、虹を見るように見送った。

 飛び出すか少し迷ったアントーニオが、待機することを選択する。中央ゴール前エリアで激しく肉弾戦を繰り広げるDFポピットと今宮、DFニッキートンとMF新藤司沙もボールが通過するのを見つめている。

 コーナーキックはファーサイドへ。

 待っていたのはMF柳井祐希。オランダ・フローニンヘンでプレイする25歳の左利き。上手くDFとの駆け引きを制した柳井は、フリーになっていた。

 左足!叩きつける!膝を被せるように、絶妙な軌道でインパクトされたボールが、火を噴きそうな勢いでブラジルゴール目掛けて飛んでいく。

 正面!しかしながらGK正面!だがボールには時空が歪むほどの強烈な回転が掛かっている。

 弾く、アントーニオ!キャッチ出来ない!弾いた先は自らのゴール方向。アントーニオのパンチングは、ボールに掛かった回転の鋭さ故に、思い通りにいかなかった。

 冷や汗が吹き出す。ボールはまたしてもブラジルゴールのゴールポストに当たって跳ね返った。

 不運!神は我らを見放したのか!?

 疲れ果てているのか、零れ球に反応が鈍い者が何人もいる。それは日本もブラジルも。浮き上がったボールの落下点に最初に辿り着いたのは、日本の希望、FW能美水流。

 遅れて集うブラジル守備陣。このまま囲い込め!連動した彼らが、能美を牢屋に閉じ込める。落ちてくるのを待っていたら撃ちきれない!

 能美はオーバーヘッドキックを選択する。

 それしかなかった。しなやかな猫のように背中を反らし、左足でジャンプする。そのまま自転車を漕ぐように足を回転させ、最後は右足を振り抜いた!バイシクルショット!

 されど再三再四、アントーニオ!

 もはや鬼神!FWロ‘レックスが彼に掛けた言葉。

 『3度もお前を失望させてすまなかった』

 得点を取られること、それはサッカーでは恥でも何でもない。そしてその多くが、GKというポジションの責任ではない。チームとして守りきれなかっただけで、GKが失点を背負い込むことはない。

 けれども殆どのGKはクリーンシート(無失点)で終われなかったことで自分を責める。決して誰かのせいにはしない。

 だからこそ、チームを引っ張るエース・ロ‘レックスはアントーニオにそれを背負わせまいとした。咄嗟に出た労いだった。

 そういうことを試合中、口にしたことがなかったロ‘レックスの行動に、最初は呆気に取られたアントーニオだったが、エースの言葉に奮起しない訳にはいかなかった。

 『負けたらこいつはブラジル敗戦の責任を全て取るかも知れない』

 ロ‘レックスの表情に、そんな決意を見たアントーニオは、自分のためにではなく、母国のため、友のため、チームのため、ロ‘レックスという稀代のスーパースターの輝く未来のために、負けないことを誓ったのだ。

 絶対に通さない!

 腕が折れても、足がもげても、体の全てで止めてやる!

 吠える、アントーニオ。スピリチュアルセーブが一秒一秒、ブラジルの勝利を近づける。

 セカンドボールをMFオ・ドラガオが拾う。前掛かりに攻めている日本の守備が整わない。素早く反転し、オ・ドラガオは中盤で前を見た。日本選手は二人、ブラジルは一人。

 その一人はスーパーエース・ロ‘レックス。

 龍の如き、鋭く抉(えぐ)る一本のパス。ロ‘レックスに繋ぐ。

 対応を迫られるのは若い氷室と、32歳左サイドバックの鈴木駿。

 このボールをロ‘レックスから奪い、早く早く前線へ放り込みたい氷室は飛び込んだ。守備では我慢しろ。味方が戻ってくる時間を稼げ。そんな指示のことを、そんな日々の練習での当たり前の鉄則を、彼は守りきれなかった。勝つために懸命。奪うために必死。

 ここはワールドカップ決勝戦。世界の極みを決める場所。

 仕方ないのかも知れない。世界最高峰の選手であるロ‘レックスに対して、18歳の天才・氷室洋輝はまだまだ赤子に過ぎなかった。

 氷室の全身全霊を籠めたタックルは、ロ‘レックスの体に触れることすら出来なかった。この躱された今のことを、氷室はきっと生涯忘れることはないだろう。

 これが、世界最強。

 どおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーっっっっ!!!

 地鳴りみたいな声援が飛ぶ。足に吸い付くようなタッチでボールを見事に運ぶロ‘レックス。前後半合わせて90分以上が経過した今も、遊ぶようにボールが活き活きと彼と共に進む。

 倒れ込んだ氷室。彼を置き去りにしたロ‘レックスが見据えるのは、鈴木駿ただ一人。

 右か、左か…!?

 鈴木を百戦錬磨だとしたら、ロ‘レックスは万戦錬磨だ。

 それくらい、バロンドールは格が違う。圧倒的なその支配力に、鈴木は逃げ出したいくらいの心境だった。

 「ハヤオさん、股抜いてくるッ!!」

 聞こえてきたのは仲間の声だった。絶対的な存在を目の前にして、尻餅をつきそうな恐怖。抜かれたら、点を取られたら、俺たちの挑戦は終わる。ここで止めずに、何が『守備者(ディフェンダー)』だ。

 奮い立った。鈴木はこれまでにないほど、この場面に自分がいることの幸せを噛み締めた。

 たった一人の仲間の声で、自分はまだ成長することが出来る。

 足が、腕が、目が、耳が!

 自分自身ではないほどに、大きく太く、強く動く!

 鈴木は対峙する。ボールをしっかり凝視して、迫り来るロ‘レックスの挙動を直視する。ほんの僅か一瞬の出来事なのに、何秒にも感じられるこの戦いこそ、サッカー選手の冥利に尽きる。

 右…、左…、体重移動に騙されないように、鈴木はロ‘レックスのドリブルを刮目する。自分が左右に振られ、股に隙間が出来たらそこを抜いてくるに違いない。

 敢えて、足を広げてみた。来る、来る…、来るっっ……!

 来た!足を閉じる!

 インターセプトっっ!!


 !!?????


 そんなはずはなかった。

 確実に捉えたと思ったボールは、鈴木の左足の外側を抜けて、与えられた回転を元に、持ち主の足元へくるくると戻ってこようとしていた。鈴木は背中からピッチに崩れ落ちた。顔だけは追っていた。目だけは見つめていた。

 そこにはブラジルの黄色いシャツと、背中の『10』が、雨粒をスパンコールに見立てて、キラキラと光っていた。

 待て、止まれ、止まってくれっっ。

 声にならない。走り去っていく黄色い背中。

 「俺はこの試合で引退する」

 その言葉が脳裏をぐるぐる廻る。

 夢を見れたのは、ここにいる仲間の力があったから。

 無力…。世界最高の選手の前で、俺の15年は途方もなく無力…。

 「諦めんなぁっっっ!!」

 0,2秒にも満たない鈴木の刹那の思考を打ち破ったのは、最年少の氷室の怒りの声だった。

 股抜きに警戒するよう促した声も氷室なら、今の怒号も氷室洋輝。まだまだワールドカップに出場するチャンスが今後何度もある若者にとって、今回の決勝は最後でも何でもない。

 そんな奴が、最も勝ちに拘っている?

 そこで俺が、停まってられるか?ここで俺が、終わってられるか?


 信じがたいシーンだった。

 DF鈴木駿は、一度完全にロ‘レックスに置き去りにされた。倒れ込んでいた。残すは日本のGK、『絶対城壁』の異名を取る那須野洸のみ。那須野はなかなか体を倒さず、最優秀FWロ‘レックスのシュートコースを限定していく。圧倒的にGKが不利な一対一を、決死の覚悟で耐えている。時間にして、一秒にも満たない攻防の中、ロ‘レックスの背後から鈴木が猛虎のようなスライディングを見舞っていた。

 もんどり打つロ‘レックス。PKかっ!??選手も観客も全ての目が主審を見た。

 主審の笛は動かない。首を横に振る。ファウルはない。ノーホイッスル!

 停めた!

 己れのサッカー人生全てを賭けた鈴木駿の大勝負が、日本の終戦をぎりぎりのところで引き延ばした。

 奪取!

 ボールをキャッチした那須野が、ロングスローを投げる。大雨で渋った芝の上を、滑るように跳ねていく。その先には柳井がいた。氷室と鈴木をフォローしようと、懸命に守備に帰ってきていたのだ。

 柳井はボールを受けようとした。雨で上手く足に付かず、納めるのに一苦労した。それでも彼は後生大事にサッカーボールを捕まえた。

 激しく、猛るように注ぐ雨。大観衆は誰一人として傘を差そうとしない。そんなことに労力を使いたくない。風邪を引いても良いから、この試合、全精力を賭して見届けたい。

 嵐の様相を呈す。まるでこのまま世界が終わってしまうかのように、灰色の雲が黒い雨を降らす。

 柳井祐希は一歩を踏み出した。

 こんなにも一つのボールが大切だと思ったのは、生まれて初めてサッカーボールを蹴った時と、あと一回、“あの日に決めた、シュート”だけ。それしか記憶に浮かばなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る