第11話 地獄の目覚まし時計

 ブラジルの最後の交代カードは、FWジスペルタドール。弱冠19歳にして、スペイン・レアルマドリードに所属。FWロ‘レックスの同僚であり、世界が彼の後釜候補として注目する、エベレスト級の逸材だった。

 綺羅星の如く、新星が登場するブラジルサッカー界に激震が走ったのは、今から4年前のこと。

 当時本名を登録名としていた15歳のジスイウソン少年は、ブラジル全国選手権・セリエA(ブラジル一部リーグ)のバスコダガマにて、年齢的に飛び級ながら、いきなりシーズン14ゴールを記録する。最大の武器は、速さと高さ。交代出場でもすぐに試合に馴染み、小康状態で停滞気味の展開を激変させる、所謂ジョーカーとしての活躍が目立っていた。シーズン終盤にはその若さながら、スタメンに定着するまでに成長し、翌年にはレアルマドリードでのプロ契約を勝ち取った。

 銀河で最もサッカーの上手い猛者が集うレアルマドリードに於いて、ジスイウソンは当然すぐにはレギュラーを掴めなかった。更にベンチ入りすることも出来ず、年齢的にはまだまだ育てるつもりで獲得したクラブの意向に反し、彼は非常に悔しがった。それでも、同郷であり、既に世界的な地位を確立していたロ‘レックスの教えを乞いながら、ジスイウソンは飛躍を遂げていく。

 バスコダガマ時代と同じく、最初は途中出場が多かった。長身ではあったが、まだひょろひょろと頼りなくも映るその体躯で、だが彼は得点を奪っていった。まだ17歳だったジスイウソンは、日本なら高校生が生活を懸けずに、部活で汗を流しているような時間も、家族を養うために必死で、一つのゴールを目指していた。彼には故郷に残してきた高齢の両親と、7人の兄弟がいた。

 彼は、貧しかった。

 いつの時代も世界にはスラムが存在し、その日の飯を食えないことも珍しくはない。豊かで飽食の日本ではおそらく想像もつかないような、過酷な環境で泥水を啜り、地面に落ちた肉を食う。ジスイウソンもその例に漏れず、だからこそ、誰よりも早く、強く強くなりたがった。

 いつか家族をスペインに呼ぶ。たった17歳の少年の決意は、彼の成長を更に早めていった。

 滞っていた試合の、目を不意に覚ますような活躍ぶり。それに彼の本名をアレンジして、18歳になったジスイウソンは、登録名を『ジスペルタドール(目覚まし時計の意)』に変えた。ロビー・アレックスが世界的高級時計であるロ‘レックスを名乗るのに比べて、安っぽいことに自嘲した。

 だけど今はこれでいい。

 自分がロビーを超える日が、いつか来るまでは…。


 「尊敬してるけど、気に入らないこともあるんだよね」

「ジス?なんか言ったか?」

「いえ、別に…。取ってきますよ、もう1点」

 ブラジル名将ネオジーニョ。彼が最後の交代カードをジスペルタドールに決めた理由。それは覇気だろうか。

 長く監督をしていると、理論的な交代と、直感的な交代を使い分けるようになる。私の場合に限らず、世界中のサッカー監督はおそらく理論的な交代を多く使うことだろう。戦局を見極めて、その状況に応じた適確な采配を振るう。そうでなければ、試合に勝つことなど出来ないからだ。

 だが世界には、直感的としか思えない交代カードの投入で、名を成す猛将が何人もいる。ネオジーニョもその一人だった。

 勝っている展開なら、より守備を強固に。負けている展開なら、より攻撃的に。交代枠の使い方にはルールはないが、セオリーはある。そしてそれに縛られない劇的な交代が、時にドラマを生むものだ。

 FWドラードに代わって入ったジスペルタドールは、同じく3トップの右の位置に入った。すぐ近くのロ‘レックスが19歳の若造に気を配って声を掛けた。

 「緊張してないよな?」

「当たり前。ブラジルが何やってるんですか?日本に攻められて情けない」

「ははっ。ごめん。でもお前が入ったから、俺たちは勝つんだろ?」

「その通り」

 会話は短時間だった。だがロ‘レックスはジスペルタドールがいつも通り平常心でいることを見抜いていた。コンディションも良さそうだ。俺たちはあと10分後、世界の頂点にいる。

 ジスペルタドールには、ブラジル勝利の他にもう一つの思惑があった。腹案というか、野心というか。

 それは試合前日の会見に遡る。

 「日本代表?勿論警戒している。イマミヤ、シンドウ、ミツハシ、ハチガヤ。あと勿論ノウミさん、ライバル。それから、ヒロキ。18歳だっけ?あいつ、良いよ。あいつはいつか俺になる」

 これは、ジスペルタドールが兄と慕うロ‘レックスが、記者に向けて発した言葉だ。対戦国へのリップサービスも多分に含まれているものではあるが、ジスペルタドールが奮起する理由が、そこには潜んでいた。

 『それから、ヒロキ。18歳だっけ?あいつ、良いよ。あいつはいつか俺になる』

 日本代表のベンチに座る18歳、MF氷室(ひむろ)洋輝(ひろき)を指したコメントだった。レアルマドリードのライバルクラブである、アトレチコマドリードに所属する18歳の日本人選手。ジスペルタドールより年下で、それが彼を差し置いてロビーの目に留まっていることが気に入らなかった。

 だから思い知らせてやる。どっちが本当に、あんたを継ぐ者なのかをな。


 後半31分、FW能美水流が決めた追撃の2点目。それ以来、日本は完全に息を吹き返していた。攻撃は噛み合い、その流れが守備のリズムも良くしていた。過去全ての国際試合(年齢制限のないカテゴリー)に於いて、日本はブラジルを倒したことがない。0勝4分27敗。これはもはや苦手意識などといったものではなく、畏怖。

 どれだけやっても崩すことが出来なかった牙城に、このワールドカップ決勝という最高の舞台で手を掛けることが出来るかも知れない佳境。

 中盤からの効果的なパスが何度もブラジル守備の決壊へ向けて双璧を叩き、無尽蔵のスタミナで足の自由を奪っていく。

 戦略は間違っていない。これでダメなら、私が死ぬまでに日本がブラジルを倒すことはない。

 そう思えるほど、我々はハードファイトしている。


 ここまでの流れや展開を、ジスペルタドールは果たして見ていたのか?


 3トップの一角に収まった筈のジスペルタドールは、その全身全霊を籠めて、また若さ故の功名心や顕示欲さえも捨てて、忠誠の献身を見せつけた。

 たった19歳の青年が、ブラジルの勝利のために、入って僅か2分でここまでユニフォームを泥まみれに出来るものなのか?

 タックル、スライディング、パスカット、チェイシング。ディフェンスがやるべきことを、前線から圧巻の強度で行ってくる。ブラジル・バスコダガマではその攻撃の才能が開花した。彼は単身海を渡り、孤独なスペインの地で家族を楽にするために、死ぬほどの努力を重ねたのだろう。彼ほどの才覚を有した選手が、自分のアタッカーとしてのプライドをかなぐり捨ててまで身に付けた、チームを勝たせるための守備。

 そのことに私は、戦慄を覚えた。

 攻撃の交代カードとして切られたジスペルタドールは、オールラウンダーとしての素養を今、存分に発揮していた。彼の命懸けの守りにより、パスコースやドリブルの侵入を制限された日本代表は、少しずつ、その針路を狭められようとしていた。

 そしてオフェンスになると、誰よりも迅(はや)く最前線を駆けていく。

 19歳の若者に引っ張られるように、自制心を乱しかけていたセレソンが団結していく。

 一筋縄ではない。解かっていたことだが、ブラジルの大樹はちょっとやそっとじゃ倒れない。

 ジスイウソン。幼少期、ブラジルのスラムで地獄を見た男。

 彼のあだ名は『目覚まし時計』。

 停滞した試合の時を動かすのではない。カナリヤ軍団。その眠れる獅子を叩き起こすのもまた、彼の鳴らした鐘だった。

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