第10話 最強の盾
愚直なまでに同じ作業を繰り返すことが出来るのは、果たして愚なのか巧なのか。
ブラジルのサッカーというのは、昔から狡猾とよく評される。マリーシアと呼ばれる、所謂ずる賢いプレイ。それによって、試合を有利に進め、時には審判までをも欺きながら、彼らは歴史に最強を刻み続けてきた。2018年のワールドカップで初めて『VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)』というビデオ判定技術が登場してから、少し判定に対する風向きが変わりはしたが、それでもブラジルの持つ老練さ、老巧さが損なわれることはなかった。慌てる相手を焦らすために時間を無駄に使ったり、掠った程度の接触プレイで必要以上に痛がって倒れこんだり。これらを痛烈に批判する声も時折挙げられるが、「一つの勝利に対する、飽くなき執着心」があればこその行為であり、正々堂々が必ずしも正義ではないことを、日本人選手も多く学ぶべきである。
愚直とは、やり続けること。
私がFW羽山翼投入時に、彼に命じたこと。それは仲間全員に声を掛けることと、とにかくひたすらにブラジルのセンターバックの間を突いていけということだった。
そして羽山は、そのことを日本の中盤、MF飯村俊輔(後半30分に柳井祐希と交代)、新藤司沙、蜂ケ谷玲央、掛軸晋太郎と共有した。それはつまり、「自分の動きを見逃すな」ということだった。
FWを務める選手に重要なのは、動き出しと動き直しである。
前線の選手は常に、相手のDFラインと駆け引きをしている。ゴールラインから平行に見て、GKを含む守備側の二人目の選手よりも攻撃側の選手が前に出ているタイミングで、パスが供給されるとオフェンスはオフサイドの反則を取られてしまう。そうならないために、FWは90分ずっと、相手のオフサイドライン上を行ったり来たりすることになる。勿論その駆け引きはFWだけでなく、敵の守備者も繰り返す。執拗に、蛇のように狙い続けるアタッカーと対峙する時、DFは通常の試合の数倍疲れるのだ。
そこを突破されれば失点。その危険が常に付き纏う以上、一瞬たりとも気は抜けないし、1ミリの綻びが危急存亡の秋(とき)を招くことも珍しくない。重要書類の書き損じ、機密事項の漏洩、それらに匹敵しうるものが、オフサイドの取り損ないと言えるだろう。
もう何度嗾(けしか)けたことか。羽山は交代出場からの約25分間で、4度のオフサイドに掛かっていた。この数字ははっきり言って多い。一試合で一人の選手がそう何回もオフサイドに掛かるのは、本来であれば褒められたことではない。味方が決死の思いで繋いだラストパスを無にする行い。だが私は、彼がオフサイドになる度に手を叩き、サムアップし、彼の行為を讃えた。それでいい、と。
かなり古い話になるが、昔イタリアにインザーギという選手がいた。往年は足元の技術も向上し、点取り屋として理想的なプレイヤーへと成長を遂げたが、若い頃から突出していたのが、オフサイドラインとの駆け引きへの執着心だった。
どんな上手なアタッカーであっても、DFに対して常に勝負を仕掛けない選手は、実は守る側からすればそれほど怖くはない。足元が下手であっても、シュートが苦手でも、90分間、一秒も休むことなくDFの裏を狙い続けられることの方が、守る方は嫌なのだ。
インザーギは一試合で10回近くオフサイドに引っ掛かった。もはやオフサイドは彼の代名詞でもあったが、彼はそういった試合で、必ず1つのゴールを決めた。それは決勝点や、時には大逆転への狼煙(のろし)の一点だった。
FWはそれでもいい。おそらく数字には残らないが、インザーギが叩き続けることで、相手守備の壁にヒビが入ったこともあるだろう。彼が得点を取らずとも、彼にマーカーが気を取られることで、他の選手がゴールした場面も多々あった。チームへの貢献という意味で考えると、得点するだけがFWの価値ではない。
ノックしてノックしてノックしてノックして、頑丈な壁をぶち壊していく。それがサッカーであり、カテナチオ(閂(かんぬき))と呼ばれるイタリアサッカーの鉄壁の守備が生んだ、アタッカーの真の姿なのかも知れない。
「くそっ、またかよっ」
盤上に苛立つ駒も出てくる。当然だ。時間は既に後半36分。一進一退の攻防を続けているとはいえ、まだ日本は一点負けているのだ。あれほど劣勢だった状況を、ほぼ五分に近いものにまで持ち直したことは、既に多くのサッカーファンの心に刻まれている。ハーフタイムにも触れたが、“例えばこのまま負けて帰国したとしても”日本代表には『感動をありがとう』という言葉が降り注ぐことだろう。だがあの時言ったのとは、重みが違っている。選手たちは本当によく戦っている。3点目を失った時、世界が真っ暗になった。ベンチにいる監督の私ですらそうなのだから、ピッチで実際にブラジルの猛威を目の当たりにし、恐怖に怯え、震えることで瀕死の体温を維持するしかなかったあの状況から、よくぞ立ち直ったと言いたくて仕方ない。
勝ちたい、勝ちたい!
その気持ちが焦りに繋がる。思うようにパスが通らず、新藤は芝生を蹴り上げた。言葉も強くなる。キャプテン今宮泰士が落ち着けと声を掛ける。
残りはアディショナルタイムを含めても、10分少々だろう。その間に少なくともあと1点。取れなければ我々は…。
主審の笛がけたたましく鳴る。
またオフサイド。今度はFW能美水流が引っ掛かった。だがブラジルDFもヒヤリという顔をした。重圧は架かっている。それまで攻撃で主にタクトを振っていたMFオ・ドラガオも、中盤の底までポジションを下げていた。DFポピットは右サイドバックのマヌチーニョと細かい修正を交わし、DFニッキートンは左サイドバックのログランデルに警戒心を強めるよう呼び掛けた。
王者の顔色が変わりつつある。追い詰めているのだ、あの最強ブラジルを。僅か10分ほど前までは、涼しい顔して後方でボールを繋いでいたブラジルが、優勝という現実的に見えてきた栄誉を前に、決意を固めていく凄み。それを私たちは今、目の前で見つめている。守るだけじゃないブラジルの攻撃を、日本は決死で止めていた。そしてまたカウンターを仕掛ける。
通ってくれっ、掛軸の願いを籠めたスルーパスは、またしてもオフサイドに絡め取られた。羽山が僅かに、オフサイドラインを越えていた。ブラジルが始めたリスタートボールを、日本は組織で奪い取った。逆サイドへと展開し、ドリブルとパスでブラジルを崩していく。
攻めている。日本が初めて、ブラジルを押し込んでいる。窮鼠猫を噛む、ではないが、追い詰められていた青きネズミたちが、獰猛なライオンの牙を掻(か)い潜(くぐ)り、爪を歯を、着実に喉元に立てている。
欲しい、一点が欲しい!あと一点がどうしても!!
MF蜂ケ谷が繋ぐ。柳井と羽山が連動し、新藤から能美へと展開し、能美がキープしたボールを再び掛軸へ。オランダ・エールディビジ、PSVアイントホーフェンで天才の名を欲しいままにする、MF掛軸晋太郎。彼のミドルレンジのパスは、受け手の速度を殺さない。走っている選手が「ここで欲しい」というのを聞いているかのように、距離も時間もぴたりと届ける。
その掛軸の、この日最高のパスが羽山に入った。反転して、あとはゴールを目指すだけ。
ピィィィィィーーーーーーーーーーーッッッ!
ファウル。DFポピットが、己の尊厳を賭けて、羽山の侵入を阻止した。反則は取られたが、ブラジル選手は彼とハイタッチをして見せた。
「やらせない!」
倒された羽山は悔しそうに、ポピットを見上げていた。降り続く小雨が目に入ったが、それが汗なのか何なのかすら、もう定かではなかった。これが王者の意地。取られてはいけない局面で、絶対にゴールを割らせないという、神をも殺す、鉄の意志。
日本は直接狙える距離のフリーキック。蜂ケ谷が鋭い軌道のシュートを放つも、壁に入ったニッキートンの痛みを知らぬ顔面ブロックに遭い、弾き返されてしまう。
攻撃のリズムは悪くない。焦りは当然あるだろうが、それでも辛抱強く、ブラジル守備をどうにか引き剥がそうと懸命にトライしている。だが能美の二発で完全に目を覚ました、カナリヤ色の怪物は、二度あることが三度は起きないように、三度目の正直を体現するかのように、日本の攻撃を何度も何度も摘み取っていく。
最強。その盾、貫ける鉾(ほこ)はないのか。
時計の針は進んでいく。刻々とクライマックスへと近づく会場は、観客のボルテージとは裏腹に、不気味な静けさすら内包するようになっていった。
依然として2対3。泥だらけになっても打ち破れない。けれど確実に、我々が押している。試合を支配している。
通常であれば、もう守備を固めていい時間帯だった。だが、ブラジル名将ネオジーニョは、あくまで私たちを叩き潰すことを選んだ。
後半38分、FWドラードに代わって投入されたのは、19歳のFWジスペルタドールだった。
守るのではない。攻めて日本を打ち砕け。ネオジーニョからの、そんなメッセージある交代だった。
攻撃こそが最大の防御。日本の足を引きちぎれ。
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