第9話 覚醒

 『不思議な感覚』というのは、無意識下に於いて、どんな者にも訪れていると私は思っている。

 少年少女は、知らない間に大人びていく。夏休みを越えて、ぐんと身長が伸びて、別人のように見違えた同級生がいたことはなかっただろうか。

 生きている以上、昨日より今日、今日より明日、明日より明後日と、連綿と続く時間の先に、過去を乗り越えた自分がいる。

 バトンパスのようなそれを、人は成長と言う。

 日常に当たり前にあり過ぎて、そしてその速度が万力のようにゆっくりしているため、『成長』というのは暫く経ってから、振り返って気付くことも多いものだ。

 日々、たゆまぬ努力を続けることで、スポーツ選手はその能力を伸ばしていく。野球選手であれば投げるボールの速度や打球の飛距離、陸上選手であれば脚力や跳躍力、卓球選手であれば動体視力や俊敏性、精確性。血の滲むような反復の先に、辿り着きたい未来図を思い描く。

 例えば、新しい仕事を任された会社員にも、同じようなことは毎日のように起こっている。初めて取り組む業務に対して、不慣れな自分がいる。先輩のやり方を踏襲し、効率の良い方法を模索する。いずれは自分以外の誰でもそれをこなせるように体系化し、作業がマニュアル化されていく。

 この過程に於いて、気付かない『不思議な感覚』というものがある。昨日までは全く知らず出来なかったことが、いつしか出来るようになっている。無我夢中で奮闘しているうちに、難しいと思っていたことがあっさり出来るようになっている。おまけに後輩に説明まで出来ている。

 当たり前と言えば当たり前なことだが、向き不向きはあれど、人は出来ないことを習得しながら、立ちはだかる壁を越えているのだ。

 そしてそれが、突然変異みたいに急激に起きることを、“覚醒”と呼ぶ。


 得点を取り合うスポーツでは、『負けている方を応援する』といったファンもいる。当該チーム同士のファンではないが、その競技自体に熱意と興味を持った者たちだ。特に試合や大会の規模や価値が高ければ高いほど、そういった純粋なスポーツマニアが会場に多く詰め掛ける。ブラジル対日本のサッカーワールドカップの決勝チケットなんて、『決勝に行く』ことがどの国にも約束されていない以上、両国のサポーターで購入していた者は、十年分くらいの幸運をここで使ったと言わざるを得ない。


 目の肥えたサッカーファンの一人は、0対3になった時、何故だか日本を応援したくなった。

 目の肥えたサッカーファンの一人は、0対3になった時、何故だかブラジルに退場者が出ないかと期待した。

 目の肥えたサッカーファンの一人は、0対3になった時、どんな形でもいいから日本に風が吹くことを願っていた。


 面白いのは、接戦。

 面白いのは、弱者が強者を追い詰めていく構図。

 面白いのは、奇跡が起こりそうな予感に、胸が震えること。


 満身創痍、絶体絶命、窮(きゅう)途(と)末路(まつろ)。泣きそうな選手、逃げ出しそうな選手、倒れ込みそうな選手。面白い決勝戦を期待していた者たちは、日本の体たらくを挙(こぞ)って非難した。それはそうだ、このままだと0対5や0対7といった決勝戦における歴史的凡戦を繰り広げる可能性さえあったのだから。

 そこで生まれた、起死回生の一撃。溜まりに溜まったマグマを一気に火山が噴き出すように、観客が沸き返ったのは言うまでもない。

 鬱憤の解放。

 後半21分、日本の1点目を突き刺したFW能美水流は、ぐるりとスタジアムを見回した。ブラジルの黄色をまとった客が多いが、その中には確実に日本の青を身につけて応援してくれている人もいる。能美にとってこれが、今大会5得点目となった。

 現在得点ランキングは、ロ‘レックスが今日のゴールを含めて6得点でトップ。ワールドカップ得点王の称号を得るためには、少なくともあと1点取らなければならない。

 25歳、能美は選手として、どれだけのスキルを既に身に付けているだろう。

 両方の足を遜色なく扱えるというだけで、かなりの優位性を持つ。ボールを保持してまず、相手にどう動くかを読まれにくいというだけでも、主導権が握れる。おまけにパスのセンスやコントロール、シュートの精度、決定力も非凡である。オフェンシブなプレイヤーとしては、世界最高峰の位置づけにいることは疑いようがない。

 オフザボールの動きの質も秀逸で、欠点を見つける方が難しい。強いて言うならプレイの出来にムラがあり、得点する試合としない試合が比較的はっきりしている方ではあった。

 昨年夏に開幕したイングランド・プレミアリーグの新シーズンでの、19試合21点という記録。実は7回のハットトリック(1試合3得点)によるものだった。取り出したら止まらない。所謂固め取りというやつだ。漫画の主人公みたいな極端な得点記録であり、能美の意外性というか異常性を物語るエピソードとなっている。ただ、残る12試合では無得点でもあった。日本に復帰してからは、コンスタントに得点を決めているので一概には言えないが、彼は取る時は取る、取らない時は取らない選手なのかも知れない。

 チームとしては、得点が生まれて有難くないことなどないのだが、指揮する者としては、より価値の高い1点を評価したくなるのも事実である。

 先制点、同点弾、決勝点、逆転弾、試合を決定付ける一撃。

 伸(の)るか反るか、運否天賦(うんぷてんぷ)のプレイヤーは、少しギャンブル性が強くて使い辛いものだ。日本の選手を見比べた時に、能美水流以上のストライカーなど見当たらないので、この決勝戦に使わないという選択肢は無かったが、ようやく後半目覚めてくれたことで、私はほっと胸を撫で下ろしていた。

 あとこいつに足りないのは、“試合を一人のプレイヤーが支配する”という経験だろうか…。


 ポジションによる差はない。試合を支配する選手というのは、強烈なカリスマを発揮する。古くはマラドーナやジダン、オリバー・カーン、ロナウジーニョやカンナバーロ、メッシ、クリスティアーノ・ロナウドなどがそういった類の選手だった。観客全てがその一人を注視し、彼らはプレイや姿勢でチームを引っ張った。サッカーは11人でやるスポーツだが、その試合を語るに必要なのは、一人の名前だけで済んでしまうほどに、強烈なインパクトを残してしまう。現代で言うならば、まさにそれはロ‘レックスの役目だった。

 ボールタッチ、逆サイドへの展開、難しい局面を一人きりで打開してしまう強さ、佇まいの美しさ。どのシーンを切り取っても、おそらく大豪邸のリビングを飾るに相応しい絵画となることだろう。

 偉大なる名選手たちは皆、自分が見られていることを意識して、プレイ出来るものなのだ。

 それはサポーターだけでなく、味方や敵の選手からも。


 試合が再開され、再び走り出した能美水流に奇妙な感覚が訪れようとしていた。

 どうやってあと2点取るか。そんなことを彼は考えていなかった。

 『あと25分で、こんな楽しい世界が終わってしまうのか…』

 能美はそんなことに寂しさを覚えながら、ブラジルが回すボールを追い掛けていた。

 「遅いな…」

 能美は独り言を呟いた。

 「なんか取れそうだな。ブラジルは意気消沈してんのか…?」

 それは異常でも何でもなかった。事実ブラジルのパス回しは速く、1点返されたことで彼らは目の色を変えていた。本気にはまだ達しないが、王国の誇りに傷を付けられたことに、彼らは小さな怒りを覚えていた。そのことが、日本の守備を更に難しいものにしていた。

 一気呵(か)成(せい)と行きたい日本。中盤で骨が折れそうなくらい走り回っていたMF飯村俊輔に翳(かげ)りが見えるや否や、MF柳井祐希に交代した。この激しい局面で登場した柳井の目には、これまで戦ってきたどんな相手より、今のブラジルが百獣の王に見えた。

 ライオンに迫られて、檻も柵もない今、彼は尻餅をつきそうだった。やっとの思いで踏みとどまり、また懸命に駆けていく。それを繰り返すしかないのだ。

 究極のパスワークとは、絶対に安全な距離感で、敵のディフェンスも触ることが出来ない位置に、少し仲間への優しさがないくらいの速いボールを通すことである。ブラジルは、コースさえ間違わなければ、どんなスピードボールも味方がしっかりトラップすると信じている。そこに隙はなかった。

 「隙だらけじゃん」

 後半27分、DFジロに変わって同じポジションに入ってきたDFログランデル。彼もこの速いパス回しに参加し、そつなくこなしていた。時折高い位置へとポジションを上げ、日本を牽制する。彼を止めなければ危険なエリアを侵されるため、日本は守備に回り、また後手を踏む。ブラジルの交代は実に有効だった。

 誰にも見えない些末な綻び。ログランデルとオ・ドラガオのパス交換が5センチズレたことを、私は見逃さなかった。これも小さなミスだ。だがピッチ上で同じ画(え)を共有出来る者なんて…。いたとしてもこの後半30分に、そこに全力で走り込める者なんて…。

 「もーらいっ」

 ログランデルは、まさか背後に敵が迫っているなんて思っていなかった。ピッチ内で聞くスタジアムを埋め尽くす大歓声に、耳がまだ慣れていなかったのかも知れない。

 足音が、聞こえない。

 まるで『のらねこ』の、聞こえない抜き足で迫ったのは能美だった。彼はログランデルが一瞬パスを逡巡するのを予測していた。半拍、パスのリズムが乱れたのだ。致命的とは思えない一滴が、やがて大河に成長する。

 「あっ、くそっ」

 忍び寄った能美は、インターセプト出来なかった。だがほつれた糸が生地に戻らないように、ログランデルの逃げるようなパスが、更に味方にズレて届いた。

 今度は逃さない!

 入ったばかりの柳井と、後半に投入されて駆け回ることを指示されたFW羽山翼が、必死の形相でブラジルのボールホルダーにプレッシャーをかけた。挟み込んだ。溢(こぼ)れた。ボールは日本へ!

 また能美だ。高い位置でチャンスエリアにいる能美に、またしても効果的なパスが通った。唸りを挙げるスタンド。太鼓と声で鼓膜がイカれそうだ。

 鬼と悪魔の仮面を付けて、DFポピットとニッキートンが能美の自由を奪う。今度は簡単に前を向かせない。俺たちは世界最高の双璧だ!

 能美はクールだった。

 彼に集中した視線、敵の気配、人々の期待、その全てを意に介さず、飄々とした涼しげな顔で、能美はパスを選択した。

 ボールはMF蜂ケ谷玲央、掛軸晋太郎と繋がった。日本の未来を託される二人は、そのパスを意気に感じた。

 繋げ、みんなで繋げ!

 そう、誰かの声がした。不格好でもいい。スマートじゃなくていい。今やらなけりゃいけないのは、このボールを再びあいつに戻すこと!

 「うらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 掛軸は通した。命懸けで通した。そのグラウンダーのパスの先に、必ず能美がいると信じて。

 なんて滑らかなトラップ。

 光速でやってきた粒子みたいなそのパスを、能美水流はいとも簡単に足元に収めてみせた。何故か?彼にはそのパスは、易しく優しく見えたから。

 覚醒。

 これまでだったら、トラップミスしただろうか?

 サッカーでは同じ場面は二度とない。似たようなシチュエーションはあったとしても、全く同じ仕事は絶対にない。

 だから単純に過去の自分と比較することは出来ないのかも知れない。しかし彼は、覚醒した。

 全てのプレイが、停まって見えた。

 サッカーはボールも人も動くから難しい。その中で圧力を受けつつ、第三者の動きを想像し、自分も連動していく。

 その一つが、停まって見えたとしたら?

 昔、偉大な野球選手が残した言葉がある。

 「ボールが停まって見えた」

 その選手は、トスバッティングのように簡単にヒットを放ってみせた。競技は違えど、能美はその境地に辿り着いた。

 そんなこと、あるのか?と私などは思う。私はプレイヤーとして、その域に達することが出来なかったからだ。

 世界には数人、覚醒後の選手がいる。彼らは挙ってこう言うのだ。

 「時々、全てのプレイがすごくゆっくり、はっきり見える」

 もっと速いパスをくれ。もっと速く動き出せ。もっともっともっともっと…。

 彼らの共通点はもう一つ。

 それは、試合を支配することだ。

 歓声が早い。大歓声と世界の反射が早すぎる。

 私の目にも、ようやく飛び込んできた。その事実を待って、私は掌を握り締めた。決まる前から叫ぶと、外れた時の落胆が大きいだろう?

 後半31分、完璧なトラップで守備の間を突破した能美は、GKアントーニオの動きをしっかり見定めて、左足でころころとボールを転がした。届きそうで手が届かない弱いシュートに、アントーニオは地面を叩いて悔しがった。

 2点目。それが生まれた瞬間だった。

 沸き立つ日本サポーター。大きな旗の日の丸が、誇らしげに揺れている。ファンに拳を突き上げながら、能美がベンチに駆け寄ってきた。仲間たちに手荒い祝福を受け、彼は嬉しそうだった。今大会6点目。これでロ‘レックスに並ぶ。

 私も人目を憚らず、その輪に加わった。今は大声を出したい気分だった。

 「監督、俺、なんか変わったかも」

「なんだ、何が変わったんだ?」

 んー、と能美は言ったきり、黙り込んでしまった。選手たちが残り15分の戦場へと戻っていく中で、もう一言だけ能美は漏らした。

 「わかんねえけど、きっと俺、まだ上手くなる」

 正体なんて知らなくていい。適切な言葉なんて見つけなくていい。この大会が終わったら、記者かメディアが言うだろう。

 『能美水流、覚醒の刻』

 さあ、追い詰めてやる。逃げても逃げても追い掛けてやる。

 ブラジルよ、今の日本はしぶといぞ!

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