第8話 忘れた頃の天災と忘れた頃に天才が
スーパープレイによる失点は災難。
そう割り切ることも、サッカーには必要だ。通常こんなところからシュートしても入らないといった得点や、味方にシュートが当たっての偶発的な得点、オウンゴールなんてものも、サッカーには付き物だ。
特にこれだけ優勢を保ってきたブラジル選手にとって、今の能美水流のファインゴールは事故のようなものだった。
そう諦めて切り替えることも、強さの一つだと11人全員が知っていた。少し、目の色が変わった。
ロ‘レックスたちの目の前で、日本のブルーは能美を中心に笑顔の輪を作っていた。まだ2点差あるが、今まで曝されてきた恐怖や脅威を僅かでも和らげるため、日本選手たちは狂ったように舞い踊った。
心の花に、水は撒けたか。
「両方の足を、随分器用に扱うなあ」
誰が最初に気付いたか。それは勿論両親だろう。野球が好きだった能美水流の父親は、水流がまだ2歳の時に、ゴム製の柔らかい野球ボールを彼に買い与えた。
こうやって投げるんだよ、と父が子に示した通り、2歳の能美は部屋の壁に見様見真似でボールを投げた。が、やがて飽きた。
すっかりボールに見向きもしなくなったと思っていた頃、父親が見たのは野球ボールを蹴る息子の姿だった。リフティングなんて教えたこともないのに、地面にボールを落とさないように能美水流は遊んでいたという。無論当時は完璧ではないし、2、3回続けば床にボールは落ちてくる。ただ特筆すべき点は、まだ短く、よちよちながらも、両足が同じように扱えていることだった。いやまるで、鏡に写したかのように、左右の足でのボール捌きは再現性を持っていた。
父親の期待虚しく、野球よりサッカーに興味を示した能美少年は、小学校のクラブチームで一年生の時から異彩を放っていた。二倍くらいの体格差がある五年生、六年生と対戦しても、しなやかな猫のように敵の間を摺り抜けて、ゴールネットを揺さぶった。あだ名は『のらねこ』だったそうだ。井の中の蛙は大海を知らず。けれど大海原を知ってなお、そこを新しい井戸に出来るほど、能美の潜在能力は桁外れだった。
『小学五年生で凄い少年がいる』と私の耳に入ったのは、能美が11歳の全国大会でのことだった。今から14年前。私はテレビでサッカー解説者の仕事をしていた。監督業という現場仕事から離れている時期だった。
評判通り、他の小学生とは次元が違っていた。どの子が能美かを知らなくても、背番号をあてにしなくても、ボールを持った瞬間に彼がそうだと理解した。
圧倒的な存在感。体は決して大きくない。だが梟(ふくろう)の森に鷹が紛れているのが誰の目にも明らかなように、能美は異質の存在だった。
小学生や中学生で、どれだけ鋭い読みを持っているDFがいたとしても、例えばプロの選手と一対一をすれば、大抵は抜き去られてしまうものだ。脚の長さが違うなど、フィジカル的な差も勿論あるのだが、それ以上にプロのドリブルは、相手との駆け引き次第で幾らでも勝負がつくものだ。体重移動や、目線によるフェイク、一度跨ぐことで相手の体勢を崩すというのも、技術の一つである。
そういった様々なテクニックを経験により知識とし、プロのDF(ディフェンダー)は簡単に抜かれないように努力する。だから子供たちではなかなか歯が立たない。攻防で筆を誤らないのがプロたる所以だ。
しかし世界には時々、そんな子供の前に、同じ子供の皮を被った化物が登場する。
『のらねこ』と称された少年は、まさしくサッカーの怪物だった。
見た目も優しく、どちらかと言うとのんびりしている風貌といった印象。しかし裏腹に、プレイは細かく疾(はや)い。どんな名選手にも利き足があり、動きに癖や傾向はあるものだ。その個性を利用して、世界的プレイヤーへとのし上がっていく。
能美水流には、こう言っては語弊があるかも知れないが、一切の癖も力強ささえもなかった。
彼はただ、ボールを奪いに来る者から、水が掌から溢(こぼ)れていくのと一緒で、逃れていくだけだった。
そのことの美しさは、絵にも描けない。
よく受け流すものの表現として、植物の柳の葉が使われる。何物にも形を変え、何物の元にも留まらない水こそ、柳を超えるしなやかさなのではないだろうか。
パスを受ける動き、角度。ボールに関与するか否かの選択。仲間と敵の位置を瞬時に把握する空間認識力。先を読む展開力。ドリブルやシュートや、味方へのパスの上手さなどで計られることの多い『才能』と呼ばれる形のないものを、能美は『サッカーのセンス』で私に示していた。私にというより、世間に、日本に、世界に。
イメージがうまく伝わるかは分からないが、例えばサッカーグラウンドが一つあったとする。そこにゴールを置き、選手を配置する。敵11人、味方を10人。彼らには容積があるので、そこに水を貯めたとしたら、その容積分を避ける形で、水が張っていく。
その水が、能美水流だ。
彼はピッチ上の全ての位置を網羅出来る。背中にも足にも頭の天辺(てっぺん)にも、まるで目があるかのようだった。
背後からDFが忍び寄っても躱すし、自分にマークが集中すると分かれば、ボールを受けるフリして味方へスルーする。老獪(ろうかい)な戦い方を、小学生の頃から見せつけていた。
更に彼は早熟で終わらなかった。
『天才』と呼ばれる少年は、毎年、全国各地で無数に現れる。その中で学生サッカーやクラブユースのスターとなる者は少数で、プロにまで辿り着く者はもっと数少ない。
そこから日本代表や、海外リーグで活躍する者となると、もはや希少動物の類と変わらない生存確率だろう。
星の数ほど、消えてゆく者を見た。
だが能美水流は、輝き続けた。
Jリーグ・ジュビロ磐田でプロキャリアをスタートさせた能美は、すぐにオランダリーグへと戦いの舞台を移す。その後スペインへ渡り、23歳でイングランドの名門・リバプールへ。長く同じ場所に留まれないのが、如何にも能美らしくはある。
彼に壁は見つからない。毎年のように二桁得点を各リーグで記録し、得点王に何度も輝いた。活躍が認められて、クラブは当然契約延長を打診する。飽きるのか、何らかの意図があるのか、能美はまた新しいチャレンジだと言って、所属クラブを改めるのだ。
25歳になった能美は、今年初めて『バロンドール』を獲得するのではと囁かれるまでになった。昨夏に開幕したイングランド・プレミアリーグにて、今年の1月までの19試合で21ゴールを記録していたのだ。リーグカップや欧州チャンピオンズリーグでも得点を量産しており、リーグで首位を走るリバプールに於いて、三年目で確かな実績を残そうとしていた。
その矢先、彼は突如、Jリーグへの復帰を果たしたのである。
日本のプロサッカーは、今もってなお、世界にまだまだ遅れている。いつか追いつけ追い越せと、Jリーグが発足したのが1993年。未だになかなかその差は埋まらないのが現実だ。
選手として絶頂期を迎えている能美の日本復帰は、電撃的でかつ、懐疑的でもあった。せっかく視野に入った世界最高の名誉『バロンドール』を棒に振ってまで、日本に戻る理由があるのか。このままリバプールに居続け、リーグ制覇や欧州制覇を達成し、得点王にでもなれた日には、『バロンドール』の称号は付いてくることだろう。
それを日本だなんて…。
帰国直後、Jリーグ・ジュビロ磐田で行われた入団会見でも、そのことに関する質問は当然あった。
なぜあなたは、そんな無意味とも思える移籍をしたのですか?日本に戻ることで、あなたが得るものとは?
「ワールドカップで俺、得点王になりたいんです。そして優勝もしたい。もし俺がそれらを実現できて、ジュビロでもゴールを取りまくったら、Jリーグにバロンドールが来るんじゃないかなあ、って思ったんだよね」
そう答えて、彼は純真みたいに微笑んだ。
『Mizuru Noumi Jubilo Iwata』
そう歴史に刻まれたら、痛快なのだそうだ。こいつはバカだ、私はそう思った。
バカで無垢で気紛れで、そして世界で最も愛されるべき選手。
世界ナンバーワンはロ‘レックスではない。能美水流が取るべきだ。
彼のゴールはチームに力を呼び覚ます。それが出来ず何がエースか。
後半21分。ようやく訪れた歓喜の瞬間。
日本に生まれたワールドカップ決勝の待望の得点は、能美水流のファンタスティックな『6人抜き』ゴール。かつてマラドーナやメッシが見せたスーパーゴールを凌駕する、衝撃的な一発だった。
寝惚(ねぼ)け眼(まなこ)の童子が目を覚ました。遅すぎたくらいだ、と叱りつけるのも忘れてしまいそうな見事な個人技だった。
「あいつ、まさか…。試合開始本当に15時だと思ってたんじゃないだろうな…?」
試合前ミーティングで眠そうにしている能美の姿を私は思い出していた。いや、だがしかし、いくらなんでもそこまでバカじゃあるまい。だけど…。
選手は試合開始に合わせて、最高のコンディションに持っていくためにありとあらゆる調整をする。睡眠や食事、試合前の練習、人によっては好きな音楽などで気分を高める。能美のルーティンに精通している訳ではないが、そう言えばあいつ、昼飯食べたのか?
「誰だ、こんなとこに食い物散らかしてる奴。決勝のベンチだぞ。ったく…」
ゴールシーンに一頻(ひとしき)り沸き立った後、ベンチに引き上げてきたスタッフの一人が、小さなごみを一つ拾い上げた。
それはいつも能美が、“試合前に食べている固形栄養食”だった。食べると力が入り、90分間闘えるんだそうだ。縁起物なんですよ、と屈託なく話していた、奴の笑顔を思い出す。
それが今、ここに落ちているということは…。
「あいつ、本当にまさかハーフタイムに…」
既に両国の選手たちはスタートポジションへと戻っていた。1対3。まだ2点差。日本はまだ、遠い遠いブラジルの背中さえ見えていない。
ホイッスルが鳴り響く。ブラジルボールでゲーム再開。能美水流が伸びをした。と同時に少年みたいにボールを追いかけていく。
忘れた頃に天才が、大股広げて駆け出した。
まるで今、試合が始まったみたいに…。
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