第7話 光射す青き水の轍(わだち)

 ゆっくりと転がってきたボールに小さくウインクし、敬意を表して右足の小指側の甲を使って、とんっと浮かす。浮力を得たボールは、そのまま右脚側面を滑り上がり、腰へと到達する。

 右の膝頭で更に弾みをつけて、能美水流はボールを自分の頭の高さまで持ち上げた。

 この時はまだ誰もが、この後起こるスペクタクルパレードの始まりを、予感してさえいなかった。


 ブラジル人選手のサッカーが上手い理由の一つに、そのリズム感が挙げられることがある。『踊る国民』と称されるように、生まれ持ったサンバのリズムが、彼らに独特のドリブルセンスや、ボール遊びの感覚を植え付ける。

 身に付けるというのでは遅い。後天的に手に入れるのではなく、遺伝子が受け継いでいるのだ。

 この差し迫った窮地において、なぜ能美がリフティングを始めたのかは、本人に聞かなければ誰にも分からないし、もしかしたら本人にさえ分からないかも知れない。

 彼は、気紛れなのだ。

 先ほど決定的な3点目を奪ったMFオ・ドラガオと、疲れが見えたミカに代わって投入されたMFジュニーニョ・パラナエンセ、そして高い位置を取っていたDFマヌチーニョが、能美のボール捌きに見惚れつつも、距離を詰めていく。

 「なにやってんだ、あのバカ!」

「狙われるぞ、フォローすぐ走れっ!タスク!レオ!シュンスケ!」

 今宮泰士の声が飛ぶ。ここは大道芸会場ではなく、サッカーワールドカップ決勝の檜(ひのき)舞台だ。いかに点差が開いているとはいえ、パフォーマンスを見せたらおひねりでお金や得点が貰える訳はない。

 まずオ・ドラガオが飛び込んだ。コントロールが乱れたように見えた能美の、一瞬の隙を突いた。

 だがそれは餌だった。

 自分の体からちょっと離れた位置にボールを浮かせていた能美は、食いついてきたオ・ドラガオを嘲笑うように左足で浮き球の軌道を変え、進行方向をブラジルゴール側へと取った。

 その刹那の切り返しにより、まだ危機感を抱いていなかったジュニーニョもマヌチーニョも置かれていた。3人で囲んだように見えて、ほんの些細なボディコントロールのみで、能美は歴戦の猛者であるブラジルの第一守備網を突破した。

 まだボールは地面に着いていない。

 そのままリフティングを続けつつ、能美はギアを上げた。

 ドリブルをしているようなスピード感。停滞気味だったスタジアムの観客は、ハンバーガーやホットドッグを食べる手を停め、少しピッチに興味を持ち始めていた。ブラジルの右センターバック・ポピットが不承不承といった感じで引き出されてきた。長身で足元も上手いDFだが、スピードは超一流ではない。それでも『帝王(インペラドゥーエ)』と呼ばれ、バルセロナでずっとDFリーダーを務めてきた彼にとって、一対一の場面はまさに自分の力を誇示する打って付けのものだった。

 「相変わらずフザけた奴だぜ。スペインにいた頃から変わってねえな、アイツ」

 鼻で笑うように、ポピットが能美に対峙する。それはさながら楽しんでいるようでもあった。彼らはリーガエスパニョーラを舞台に、何度か対戦経験がある。

 気紛れ、と評した能美水流には、ムラっ気という一面もあった。

 能力が安定しないタイプだった。良くも悪くもそれは魅力ではあるが、常時その実力を発揮出来れば、世界は彼に跪(ひざまず)くのかも知れない。

 そんな予感を、“今”からのたった10秒が見せつけた。

 左足の甲で、小刻みにリフティングをする能美。まるで釣り師が魚の前でミミズをピクピク動かすように、ポピットを誘っている。経験が豊富故に、そのプライドも高いポピットは、能美の巫山戯(ふざけ)た挑発に乗っていた。おびき出されたところを、能美の緩急によってあっさりと躱されていた。小刻みだったボールリフトは、反対の足に預けられた瞬間に、ポピットに虹を架けるみたいに、彼の頭上を越えていった。

 「気ィ抜いてんじゃあねぇぞっ」

 髪の毛を逆立てて、今度はもう一人のセンターバック・ニッキートンが能美に迫る。ポピットより7歳年下の彼も、弱冠23歳にして既にバルセロナの中心だ。

 その表情は悪鬼のようだった。強面(こわもて)の彼が雄叫びを挙げるだけで、ウサギもネズミも巣に還る。ビリビリと大気が振動するような覇気を持って、ニッキートンは能美を潰しに掛かった。体ごとぶつかって、最悪ファールを取られても構わない。イエローカードを貰うようなことになったとしても、「1点すらやらない!」というのが、ブラジルの矜持(きょうじ)だと言わんばかりの迫力だった。

 「砕け散れぇっっっ!」

「変わんねえな。単細胞」

 能美はボールを置いていった。空に置いていった。

 自分は前に走り、ボールだけが空中に取り残されたまま、世界の時が停まったみたいだった。

 「あれっ」

 思わずニッキートンは目を丸くした。コンタクトに行った当の能美がボールを持っていないように見えたからだ。

 「バイバイ」

 能美はくるりと反転し、ボールを左足で見事にコントロールし、ふわりと浮かせてまた前を向いた。ほぼトップスピードから、一旦速さをゼロにすることがどれだけ難しいことか。それを体勢も崩さず、更にボールの制御までする。全ての観客が総立ちで、今の能美を追っていた。目が、離せなかった。

 まだ、ボールは地面に着いていない!

 動→静→動。止まらない。能美水流が停まらない。

 ブラジルの守備は、センターバック二人を失っていた。どちらもファールすらさせて貰えず、能美に一発で置き去りにされていた。反対サイドから懸命にDFジロが戻ってくる。だが既に能美はGKアントーニオと向き合った。

 この試合、ピンチらしいピンチを迎えることがなかったGKに、心の準備はあっただろうか。感性は、研ぎ澄まされていただろうか。

 答えは、NO。

 ボールを浮かせたまま、能美はGKと駆け引きした。体を揺らし、時に大きく、時に静かに、これまで辿ってきた青き水の轍を噛み締めるように、満足げな笑みを湛(たた)え、アントーニオを牽制した。アントーニオはボールと虚空を見つめていた。最大の集中力を持って、落ちないボールが能美の足によって、どこにコントロールされてシュートされるのかを、推理し、凝視した。

 「えっ……」

 ブラジルの守護神は、思わず小さく声を漏らした。

 まだ、まだ、ボールは地面に着いていない!!

 …今、落ちた。

 リフティングにこだわっているように思っていたのは、能美(・・)以外(・・)の(・)全て(・・)の(・)人間(・・)だけ(・・)だったのかも知れない。完璧な結末を求める者は、能美がここでリフティングを止め、ボールを地面に落としたことを美しくないと騒ぎ立てるかも知れない。しかし彼は全ての可能性を一瞬で見極め、ボールを一旦地面に着けて、より確実な方法で、その右足を振り抜いた。

 シンバルの音が徐々に強くなるように、スタジアム全体に広がっていくように、地鳴りのような歓声がどよめいた。

 動けなかった。アントーニオは、微動だにすることが出来なかった。日の出ずる国に1ルクスの光を射し込んだのは、日本の9番・エースストライカーの能美水流!


 わああああああああああああああああああああああああああ!


 背筋がゾクゾクするような大歓声だった。これまでこんな大きな人の声は聞いたことがなかった。狂気にも似た、叫喚の祝い。

 1対3!遠かった、遠すぎた1点目が遂に、日本に齎された。チームで掴み取った訳ではない。日本が誇る気分屋の天才が、たった一人で切り裂いた。

 時間は後半21分。

 凍土のように凝固していた氷が今、水となってようやく流れ始めた。

 見上げれば雨がしとしとと、冷たい拍手をくれていた。

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