第6話 全ての仲間に声翔(か)けろ

 相変わらず戦況は好転し得ない。この試合が終わればバカンスが手招きしているのか、ブラジルは少しも攻撃の手を緩めようとしない。

 笑ってプレイしていても、それが王者ブラジル。

 自陣深くからドリブルで日本ディフェンスを翻弄した、左サイドバックのジロが放ったシュートは、GK那須野洸が右手一本で枠外へと掻き出していた。

 ブラジルボールのコーナーキック。このタイミングで、私は快速FW羽山翼を投入した。交代するのは同じくFWの揖斐曜一朗。システムの変更はなし。まずはピッチ上に蔓延する、混迷と怯懦(きょうだ)を振り払う必要があった。

 その点に於いて、羽山という男は物怖じせず、それでいてムードメイカー的要素を持ち合わせていた。

 「俺、コウさんが3点も取られるの初めて見ましたよ」

「あ?今年5回目だよ。別に珍しくもなんともねえ。そんなことよりタスク、入ってきたばっかなんだ。集中しろ」

 左コーナーポストへとブラジル10番ロ‘レックスが向かう。リードしているブラジルはプレイを急ぐ必要がないため、殊(こと)更(さら)ゆっくりと選手たちも給水している。

 「でも、今日のブラジル相手に3失点なら、ここから俺たちが逆転したらコウさんヒーローの資格あるよ。一体何本シュートをブロックしました?俺、そのたんびにベンチで大声挙げたもん」

 羽山の言葉は戯言でもなんでもない。3失点こそしているが、その倍の、シュートやシュートになりそうなシーンを、那須野は体中アザだらけになりながら、最後の砦として守り続けているのだ。

 時には顔面を、敵に蹴られながらも。

 「…おだてたって飯は奢らねえぞ。いいから集中しろ。もう点はやれねえんだぞ」

「へいへい。さあディフェンス陣!とにかくシュート打たせないようにしましょう。コウさん怒ってますよっ」

「てめえみてえな若造に言われるまでもねえ」

「おまえんとこがいちばん心配だぜ」

「タスクお前マーク誰?」

 羽山が発破をかけたのは、今宮泰士を除くDF3人だった。この数分間、ピッチではこういった声の掛け合いすら行われていなかった。即ちコミュニケーション不足。声を出すことで肉体というのは、自然な反射を起こすようになる。

 水を飲み終えたブラジル攻撃陣が散っていく。主審の笛が鳴り、ロ‘レックスが鋭いボールを蹴り上げた。低く速く、ニアサイドを抉(えぐ)り込む。

 クリア!

 逸早(いちはや)くコーナーキックに反応したのは、キャプテンの今宮だった。センターライン付近まで蹴り出したことで、日本の守備はラインを上げることが出来た。

 セカンドボールの回収というのは、局面を大きく変えることがある。重要なボールの確保に成功したのは、21歳にして日本の心臓を司るMF掛軸晋太郎。すぐにブラジルのプレッシャーが押し寄せるが、日本の10番・22歳の蜂ケ谷玲央がフォローする。カウンターを仕掛けたいところではあるが、今は自分たちがリズムを取り戻すために、『攻撃する時間を多く持ちたい』という共通認識を、彼ら若き二人は抱いていた。これから長く、日本代表の主軸を担っていくであろう二人の若獅子だ。

 「いいよ、レオくん。ジクもナイス。ゆっくりだ。ゆっくりでいい。俺たちのサッカーを取り返そう」

 中盤で二人に声を掛けたのは、20歳の羽山だった。彼ら3人は二年前のオリンピック(23歳以下で形成される代表チーム)を経験したメンバーで、所謂『パラジウム世代』と呼ばれ、日本の歴史を変えていくことを嘱望されている。

 「タスクはさ、ブラジルのヤバさ肌で感じてないからいいよな」

 掛軸が羽山を見て、薄く微笑んだ。

 「五輪の準決勝よりキツい。…当たり前か」

 蜂ケ谷も苦笑いを浮かべた。談笑している余裕なんて本来ない。しかし3人は、敢えてパスと共に言葉を交換し、心の拠り所を、微弱ではあるが手に入れていた。

 表情が少し、緩和しているように見えた。

 交代出場したばかりなので、周囲の疲弊しきった連中とは違い、羽山にはまだ元気が有り余っていた。

 FWを務める彼は、最前線まで駆け上がっていく必要がある。掛軸からボールを受け取った羽山は、一旦右サイドへとドリブルでボールを運び、日本の中堅・MF新藤司沙とMF飯村俊輔へパスを繋いだ。DFの鈴木駿と共に、この大会で代表引退を覚悟している3人だった。

 「骨、まだ大丈夫みたいっすね」

 ニヤリとしながら、羽山が言う。“骨”というのはおそらく、「折れるまで走れ」と檄を飛ばされたことへの皮肉だろう。

 「こんなとこに走ってきてる場合か。お前の仕事はなんだ?点取ることじゃないのか?」

 新藤が返す。前線へ行けと、顎で羽山に指示をする。羽山が舌を出して、「そうだった」と呟いた。

 「緊張感のない奴だ。良い引退試合にしてくれよな」

 今度は飯村が、両手で羽山を追い立てるような仕草をした。

 一見時間の無駄遣いのような光景かも知れない。

 だがこんな経験はないだろうか。

 夜道、月の明かりもないような新月の晩。不気味な犬の遠吠えや、繁みの葉擦れの音にビクビクしていたら、コンビニの光が煌々と見えてきた時。

 仕事でうまく結果が出せず、忙しそうにしている同僚にも気にかけて貰えない中、普段あまり仲が良い訳ではない人物から、思わず労われた時。

 人は緊迫や極度のストレスを感じている時、藁にも縋りたいと深層心理で思っている。どんな些細なことでもいい。自分の気持ちにゆとりを齎(もたら)し、プラスのイメージをくれる存在の登場を、心のどこかで待っている。

 それをするなら、ムードメイカーの方が尚更いい。

 「藤崎監督、なんだって?」

 2トップの一角であるフォワードのポジションへと向かおうとしている羽山に、後ろの位置からキャプテン今宮が声を掛けた。そういえば今宮には話し掛けるのを忘れていた、と羽山はこの時思い出した。

 「あ、っと、なんか真ん中をずっと狙ってくれって言ってました。ニッキートンとポピットっすかね。あ、これジクにも伝えなきゃいけないんだった。おーい、ジクーーっ」

 日本が少し、自分たちのペースでボールを回していた。ブラジルに脅威を与えるものでは決してない。けれども、パスをすることで、ボールに関わることで、足は感触を取り戻していくものだ。

 3点のリードが与えるゆとり。ブラジルも前半や、後半開始早々ほどの圧力を、今は掛けてこない。試合は有難くないことに、停滞しつつあった。

 掛軸と蜂ケ谷に耳打ちし、羽山がようやくトップの位置へと上がっていった。100メートルを10秒20で走るその圧巻の脚力は、必ずブラジルにも通用する。とにかくブラジルのセンターバック、4番ニッキートンと、5番ポピットの隙間を狙い、翔け抜け続けること。それが彼に課せられた二つ目の使命だった。

 「よぉ、ミズルちゃん。あそこにさ、オッパイ大きいブラジルの姉ちゃんいるよね?俺、ああいうの好みなんだよねえ。ゴール決めたらあの人の元に走っていこうかな」

 揖斐に変わって投入された羽山が2トップを組むのは、日本のエース・能美水流。その能美にも話し掛け、この試合未だノーゴールどころか、シュートすら打てていないストライカーの呪縛を解こうと、羽山は考えていた。ゴール裏付近の観客席で、一際目立つブラジル美女の存在を、彼はこっそり能美に教えてみた。

 羽山翼への一つ目の使命、それは「全ての仲間に声を掛けて、心の枷を打ち砕け」ということだった。

 通常、試合中にそんな悠長なことは有り得ないかも知れない。だがそれくらいしないと、今の日本代表を取り巻くどす黒い空気は、一切浄化されることはないだろう。

 勿論、こんなことだけで3点差がひっくり返る筈もない。起爆剤にもならないし、切り替えのスイッチにもならず、徒労に終わるかも知れない。

 それでも羽山は、愚直に私の指示を遂行しようとしていた。お調子者のムードメイカーだが、人一倍真面目で、チームの勝利のために自分を犠牲にすることが出来る選手だ。

 「わりぃ…」

「えっ」

 思わず羽山は聞き返していた。わりぃ、“悪い”って言ったのか?

 「俺、日本人の女の子が好きなんだよね」

「あ、ああ、その話か」

 そうか、自分がそんな話を振ったんだ、と羽山は自省した。ただ、能美が笑っているように見えたので、役割を全う出来たと少し安堵した。

 「そんなことより、今何時?」

 能美水流は空を眺めていた。曇りの気象条件で始まったワールドカップ決勝戦。誰もが天気が保つことを期待していたが、ぽつりぽつりと雨が落ち始めていた。ここ一週間は、夕方頃に局地的なスコールも続いている。

 「今何時って…」

 羽山は電光掲示板を見上げた。後半19分になろうかというタイミングなので、時刻は現地時間で15時20分、といったところだろうか。日本に残された時間は、もう25分しかない。

 「一時間間違えてたからなぁ。道理で体が重かった筈だよ。あははっ」

 そう言って、能美は急に両腕を伸ばしたり、足を広げたりして、ストレッチを行った。ここまで散々走っているのだから、何かのパフォーマンスなのだろうか。

 「シンタロウ、ちょっと俺に寄越せ、それ」

 行き場を探し、中盤で繋がれていたボールを、焦れたように不意に能美が要求した。厳しいポジションで、ではなく、比較的パスを受けやすい浅めの位置まで能美が取りに下がってきた。掛軸は小さな疑問符を浮かべつつ、FWもボールに触ってリズムを取り戻したいのだろう、くらいの考えで、能美にスクエアなパスを送った。


 とん…、とん…、とん…。


 ちりとてちん。まるで三味線の旋律が聴こえてきそうな、そんな拍子で能美がリフティングを開始した。ブラジルDFたちも、一瞬虚を突かれていた。

 意味があるのか分からないが、上手い。

 絶妙かつ軽快な動きで、能美は両手以外の様々な部位を使い、ボールを地面に落とさない。

 「なにやってんだ、あのバカ!」

「狙われるぞ、フォローすぐ走れっ!タスク!レオ!シュンスケ!」

 キャプテン今宮から指示が飛ぶ。能美はブラジル守備陣に囲まれようとしていた。

 その時だった。

 もう一度スロー再生で見ないと、きっと全く分からない。

 何が起きたのか分からない。だが、能美はほんの3歩で、ブラジルの屈強なディフェンスたちを置き去りにしていた。ボールはずっと宙にあった。僅かな体の向きの変化と、地面を蹴る足腰の強靭さ、そして曲芸師のような身のこなしだけで、四方から迫り来る敵を飛び越えたのだ。

 ブラジルの3点リードで、やや中だるみした感覚のあった観客たちの視線が、一斉に日本の9番に降り注いだ。

 彼の扱うボールには、磁場も重力も無関係かのようだった。

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