第5話 12番目の魔物

 ほんの一時間前まで、世界は平和で平等なものだと疑わなかった。


 四年に一度の祭典は、世界中が待ちに待ったイベントで、事実オリンピックより多くの人間が、テレビで試合を視聴する。様々なルールやレギュレーションを改訂し、現在では各大陸予選を勝ち抜いた48の国と地域が、ワールドカップ本大会へと駒を進める。6ヶ国毎に8つのグループに分かれ、各国5試合の予選リーグを経て、グループで各組上位の4ヶ国(合計32ヶ国)が、決勝トーナメントへと進出する。ラウンド32、ラウンド16、準々決勝、準決勝、そして、今日の決勝という流れに沿って、大会は進行していく。

 敗れ去った46の国と地域が、羨望と驚嘆、敬意と嫉妬を持って世界王者誕生の瞬間を待ち侘びていた。

 決勝前のセレモニーでは、アメリカの有名歌手やハリウッド俳優を招いた催しが開かれ、決戦に華を添えていた。

 サッカーという、国と国の威信を賭けた戦いは、戦争では決してなく、差別や偏見のない、世界平和の理念の元に行われるべきものである。

 ブラジルを応援したい人、日本を応援したい人。人口はブラジルがやや多い程度だが、サッカーへの関心度には大きな開きがある。ブラジルの輸出産業は、大昔からコーヒー豆と、サッカー選手で賄われていると言っても過言ではなかった。

 国民全員が代表監督と言われているように、ブラジル人のサッカー観というのは非常に高尚であり、秀逸でもあった。世界中にブラジルサッカーのファンがおり、そういった意味でも、試合前からブラジルを推す声というのは、根強く、そして幅広かった。


 皆が見たいのは、王国のファンタスティックなサッカー。


 試合の妙味を損なわないために、日本の善戦を期待する向きはあるかも知れない。けれど多くの視聴者が沸き立つのは、玄人好みな守備の駆け引きや、得点にいつか繋がるパスの潮流ではない。

 ゴールというメインディッシュ。

 真っ白な網の目が、直径22センチの球体に激しく揺さぶられるシーンなのだ。


 緊張感。どくんどくんという、鼓動が、波動が、脈を打つ。

 試合前のウォーミングアップで、これほどまでに疲弊することがかつてあっただろうか。スタメンを言い渡した選手も、ベンチメンバーも同様に肩で息をしているように見えた。試合前のミーティングの私の声も、普段より上擦っているようにすら思えた。

 歩いたことのない高み。

 ワールドカップ決勝というのは、これほどまでの宇宙なのか。

 ロッカールームではホワイトボードを使い、決勝戦までに何度も確認したブラジル対策を、入念に復習。全員が当日の芝生のコンディションなどを確認し、スパイクに取り付ける金具をコーチらと選定する。これまで毎週のように戦ってきた試合と、一見何も変わらない光景の筈なのだ。

 スタジアムに選手入場のBGMが轟き、決勝仕様のボールを手にした主審を先頭に、日本の選手もブラジルの選手もグラウンドへと登場する。私は誇らしく感じていた。この昂ぶりはきっと、わくわくしているのだと思っていた。

 両国国歌の演奏。四半世紀前は『君が代』を全力で熱唱する選手はいなかったように思う。海外では自国国歌を叫ぶように歌うことは珍しくない。そこには日本人特有の奥ゆかしさというか、照れというものがあったのではないだろうか。だが私は、選手に国歌を本気で歌うよう要求した。それこそが、国を背負う気概に繋がる、と訴えた。斯(か)く言う私も、大口開けて『君が代』を叫ぶ。

 何も違うことなんてない。

 いつも通りのルーティンで、いつも通り試合に入る。

 何故だろう…。五感が、六感が、どこかおかしい気がする?

 サッカーワールドカップ・アメリカ大会決勝。試合開始のホイッスルが鳴り響く。笛の音が遠く聞こえたのは気のせいか。

 腕を組み、私はテクニカルエリアで戦況を見つめることにした。既に背広は汗でぐっしょりだが、それもいつものことだよな?

 右手で軽く顔を擦ると、汗とも脂とも分からない液体でべとべとしていた。湿度は低いと聞いているが、案外じとじとしているのか。

 試合の序盤から、ブラジルはボールをよく動かしてきた。想定内ではあるが、あまり走らされるのは芳(かんば)しくない。後半の勝負所でガス欠にならないためにも、ブラジルにあまり自由にやらせたくはない。

 だが、見事だ。見事としか言いようがない。

 前評判も実績も申し分ないとはいえ、やはり10番ロ‘レックスの展開能力は常軌を逸している。彼を中心に、ブラジルは日本の体力を削(けず)るように削(そ)ぐように、まるでジャブパンチのようなパスの出し入れを続けていた。こんな簡単に術中に嵌るほど、私のイレブンは柔ではないはずなのだが、やはり今日は何かがおかしい。

 淡々と過ぎていく時間。観客は呼吸すら忘れて、ブラジルのボール回しを目で追っていた。1本、2本、綺麗な形で崩された訳ではないが、ブラジルにシュートチャンスを与えてしまっていた。

 蛇が獲物をゆっくりと体で巻いて絞めていくような。

 日本チームは1本のシュートも打たせてもらえないままに、前半10分が過ぎようとしていた。真綿が首に絡み付いてくるような不快感。私の汗はシャツの色を濃く染めていた。

 脅威というほどではない。だがしかし、嫌な感じだ。

 そんな風に私がピッチを見つめ、頭の中で、重要なエリア、危険なエリア、チャンスになりそうなエリア、今は盤上の死地にあたるエリアなどをグリッド化している時だった。

 ブラジルの左サイドでトライアングルを形成していた、DFジロとMFブルーシャとMFオ・ドラガオが、良い距離感で互いをサポートしながら、日本陣地の奥深くへと切れ込んできた。ブルーシャが日本選手とボールホルダーの間で壁となり、ジロが左足で美しい放物線のクロスボールを放り込んだ。

 「キーパーボール!」

 ピッチで誰かの声がした。コーチングの声だ。イージー。ベンチからはやや見にくいが、私にもそう映っていた。決して厳しいボールではない、と。

 その瞬間、一つの影が横切った。

 ジャガーのようにしなやかに、チーターのように素早く。

 手を上げてクロスをキャッチにいった守護神・那須野洸の僅か30センチ手前で、何者かがボールに頭で触れていた。

 あっ…、という暇すらなかった。

 掠められたボールは軌道を微妙に変え、GK那須野の腕を摺り抜けて、とんっ…とゴールマウスへと飛び込んでいったのだ。ワールドカップ決勝の先制ゴール。“退屈な決勝戦”を恐れる、どちらの国のサポーターでもないファンたちから、爆炎のような声が挙げられた。

 10番、『神の子』ロ‘レックス!

 ブラジルの先制点は、前半12分、ロビー・アレックス!今大会6点目。4得点の能美水流を得点ランキングで突き放す、優勝を近づける先制弾。

 日本は与えたくなかった先制ゴールを、なんとなくのらりくらりとしているうちに与えてしまっていた。

 自分の心臓の音だけが、強大になっていく。スタンドのボルテージの方が騰がっている筈なのに、私の耳がおかしくなってしまったのだろうか。

 徹底的に守備を崩された訳でもないのに、得点を取られてしまう。修正すべきポイントは、はっきり言って見当たらなかった。

 何故だ何故だ何故だ…。

 答えなんてない。サッカーは事故でも点が生まれるスポーツ。そんなことは誰よりも知っているつもりなのに、そんなことに答えを見出そうとする時点で、私は『決勝戦』に飲み込まれてしまっていたのだ。

 地に足は着いているのか?

 頭の中に雑音は鳴っていないか?

 視界に飛び込むものが、記憶として蓄積されているか?

 ブラジルは攻撃の手を緩めない。どこか威圧的に、しかしながらどこか楽しそうに、リズムよくボールを繋いでいた。時々日本のゴール前にやってきては、子供のように遊んで帰っていく。

 淡々と、淡々と。悠々と、綽々(しゃくしゃく)と。

 前半、日本の初めてのシュートが生まれたのは、既に30分になろうかという時間帯だった。GK那須野のロングスローを受けた日本の心臓・MF掛軸(かけじく)晋太郎(しんたろう)がターンする。彼に付いていたディフェンスを一瞬で置き去りにし、MF蜂ケ谷玲央とのパス交換で敵陣に侵入。迫ってくるMFブルーシャとボールの間に体を入れて、絶妙にキープする。掛軸が貯めた時間を利用して、後ろから彼を追い越してきた右サイドバック橋本(はしもと)渚(なぎさ)にパスを受け渡し、橋本がクロスを供給。

 ゴール前に飛び込んできたMF飯村俊輔が左足で合わせるが、ボールはクロスバーの上へと逸れていった。

 悪くはない。だが単発。

 緊張というものは、望ましくない状況を連れてくるものだ。

 たった1本のシュートを放つのに、30分も時間を要したことに、もっと違和感を覚えるべきだったのだ。単純計算でこのペースなら、一試合でシュートを3本しか打てないことになる。既に1本外してしまっているのだから、あとは取れても2点まで。

 流石に算数ではないから、そんな空論は意味を成さない。

 私の感じる望ましくない状況とは、この漫然と過ぎる決勝戦という現実離れした時間軸が、30分を長いと思わせないことにあった。

 前半戦、私も気付かなかった。このままでは、あっという間に試合が終わってしまうということに。非日常な空間に埋もれすぎた脳も体も精神も、得体の知れない12番目の魔物に支配されてしまっている。

 時間が消し飛ぶように、前半の38分を迎えていた。

 中盤まで下りてきて、パスを受けたロ‘レックス。彼の醸し出す優雅なボールタッチが、まるでディナーショーみたいに時間の概念を捻じ曲げていく。手品師が使うトリックか、ロ‘レックスの持っていたボールは瞬時に消えていた。

 日本のディフェンスたちは、動くことを停めていた。動けなかった。どうやったのかさえ分からない。ロ‘レックスは踵と背中を利用して、サッカーボールを消したのだ。

 次にボールが現れたのは、ゴール前に走り込んできたFWコントラジシオの胸元だった。難しい体勢ながら、胸でボールをコントロールしたコントラジシオは、利き足ではない右足で器用に、ボールをゴールへと蹴り込んだ。

 飛び跳ねる観客。立ち尽くす観客。

 黄色と青色。世界を二分する心理学的原色が、まさに補色と呼ぶに相応しく、今、対極に置かれていた。

 ほんの一時間前は、平等だったもの。0対0、始まりの合図を待つ高揚感。楽しく談笑する、両国のサポーターたち。

 ワールドカップの決勝戦に慣れていたブラジル、そうでなかった日本。魔物に食われた私たちは、45分の間に2点を失った。

 大きな大きな、重くて苦い、その2点。前半、ブラジルは実に13本のシュートを放ち、対する日本はたった2本のシュートしか打てなかった。

 ロッカールームへと引き上げてくる日本のイレブンは、まるで背中に大きな十字架を負っているかのようだった。

 私が狼狽する訳にはいかない。しかし、どうすれば…。

 まず、自我を取り戻す必要がある。もう一度、戦う意義を思い出す。ブラジルと戦う前に、自分の影に飲み込まれていては、勝てるものも勝てない。

 15分あるハーフタイムで、私が出来ることは選手のメンタルの持ち直しだ。残された45分で、必ず勝機を手繰り寄せてみせる…。


 後半開始から、全員がファイトした。全員が息を吹き返した。可能性を信じ、逆転出来ると心に誓った。

 オ・ドラガオのファインゴールは、その矢先の3点目だった。

 「神様は終わらせたいのか?俺たちブルーの挑戦を」

 小さく私は呟いた。天に向かって唾を吐きたい気分だった。

 ………だが、燃える。

 何故だろう。沸々と煮え滾(たぎ)る何かが心の中で溢(あふ)れて溢れて仕方ない。

 勝てなくてもしようがない、という開き直りか、或いは逆境が呼ぶ嵐の前触れか。

 私は麻薬の痺れた笑いに惑溺しそうな、自分が魘われてしまうような、そんな気がしていた。誰かこの想いを共有してくれ。そうでなければ…。

 そうすれば…!

 俯いている暇はない。私は日本代表監督だ。

 立ち上がれ。前を向け。腐るな、停まるな、見落とすな。

 見てみたくはないか?世界が翻る世紀の大逆転劇を。それを起こせるのは、今世界に私たちを置いて他にはない。

 「羽山っ!」

 ベンチ脇でウォーミングアップのペースを上げる一人の選手を、私は大声で呼びつけた。快速が売りの二十歳の切り札だ。

 彼は少し緊張し、頬を紅潮させていた。しかしそれと同時に、腹を括った目をしていた。

 二つの使命を、私はFW羽山(はやま)翼(たすく)に授けた。

 日本の未来を、その翼に託して。

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