第4話 奈落

 谷底に落ちて命が助かる人間は、こう言うだろう。

 「生きた心地がしなかった」

 深く霧の立ち篭める、不気味で仄暗い地の底。それを奈落と呼ぶ。階段や救助のロープが吊るされていればこそ、命の灯火はまだ揺れる。しかし、這い上がる術が何一つ見つからないとしたら、人は絶望するのではないだろうか。迷い、叫び、藻掻(もが)き、苦しみ、悶え、喚(わめ)き、やがてくる虚無と絶望に狂い尽くされていく。

 地獄の底から戻ってくることが出来るのは、物語の主人公だけだ。

 世界はそんなに、都合良くない。


 FW能美水流へのクロスボールをカットされた時、新藤司沙はそれほど慌ててはいなかった。サッカーの試合ではよくあることだ。ボール一つを奪い合う競技に於いて、敵に触られることなくゴールまで繋がっていくことの方が稀だ。

 せっかく相手のミスに付け込んだのに…。

 あるとすればそういう後悔。新藤は強くロ‘レックスに体をぶつけ、取られたボールを奪い返そうとはしていたが、何が何でも…という場面ではなかったため、あっさりブラジルの10番に体を入れ替えられていた。攻めていた日本が狙うゴールの近くでの出来事。新藤の後ろにはまだ8人も日本の選手が構えている。この時点でブラジルのゴールまでの道筋を描ける者がいるとしたら、その人物はおそらくサッカーの天才なのだろう。

 何気なく、繋いだように私には見えた。

 ロ‘レックスがDFマヌチーニョへと簡単に渡したパスは、つい2分前に彼がFWドラードへと突き刺した、天使のようなスルーパスとはあまりに品質が違うように見えた。

 ロ‘レックスはボールサイドと反対の方へ駆け足をした。最重要警戒人物である彼を、日本のDF陣は放っておけない。彼に釣られるように、日本の守備陣形は乱されていった。

 何か、おかしい…。私はそう直感していた。囮(おとり)の動きというのがサッカーにはある。デコイランと言う。しかしそれは、本来ゴールにもっと近い場面で、味方を有利にするために行うのが定石だった。こんな自分たちが目指すゴールから遠いところで、デコイランを行うというのはついぞ聞いたことがない。そして、記憶にもない。

 マヌチーニョは自分の元へ入ったボールを、右サイドで自身の前を行くMFミカへとダイレクトで繋いだ。並のサッカー解説者であれば、この時の縦パスを、『攻撃のスイッチ』と呼ぶに違いない。続けてミカもワンタッチでFWドラードへとパスを送る。

 遅すぎた。

 日本は遅すぎたのだ。

 ピッチの上にいる、日本の選手全員が、この時点でようやく本気でヤバイことを実感し始めていた。ピリピリするような、刺激臭のような危険を肌で、脳で感じていた。スプリントして、自分のマークすべき選手へと距離を詰めていく。

 嵩(かさ)の増した水が顔面に迫る感覚。

 刃が喉元に突き立てられる感覚。

 銃口がこちらを向いている感覚。

 そのどれとも違い、そしてどれとも類似するような、そんな悪寒が私たちを支配していた。

 日本のゴール前で落ち着いて楔(くさび)となったドラードは、後方から走り込んでくるMFオ・ドラガオへと簡易にボールを転がした。

 稲妻のような閃光。栄光のバルセロナで攻撃の中軸を担う25歳の司令塔は、『イスコバ・マジカ(魔法の筆)』と称されるその自慢の右足を一閃した。

 グラウンドから火花が散るかのような、凄まじいショットだった。削れた芝が空中に舞う。それに見惚(みと)れる暇もなくオ・ドラガオの火を噴くようなミドルシュートは、日本のゴールに突き刺さっていた。

 0対3。0対3!0対3!!

 3点差。命懸けのディフェンスで、ほんの3分前のドラードのチップショットを防いだばかりなのに。

 今度こそ正真正銘の3点差。決定的。圧倒的敗北への決定打。

 割れんばかりの大歓声。

 スタジアムはまさに、興奮の坩堝と化していた。まるで世界中が敵だったかのような、圧巻の光景。ここにいる全員が、ブラジルの3点目を待ち望んでいたのか。

 思わず私は耳を塞ぎそうになった。目を覆いそうになった。それはおそらくピッチで戦う選手たちも同じ。

 激しく荒く昂ぶる観客たちが皆、自分たちを卑下しているような錯覚。自分たちを嘲笑しているような倒錯。自分たちなんて眼中にないと思わされるほどの、痛烈な虚無。

 気力を振り絞って、私は私の選手たちを見た。天を仰ぐ者、膝に手をやる者、今にも座り込みそうな者、噴き出す汗を拭うことすら能わない者。


 負ける。

 負ける。負ける。負ける。

 負ける。負ける。負ける。負けた。負けた。負けていく。終わる。オワル。

 ぐるぐるぐるぐる脳裏を廻る。悪しき思考、残酷な現実、届かない理想、狂おしい自己嫌悪。負けることが頭を廻る。廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る

廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る廻る終る終る。


 こんなことが、こんな差が。

 数字以上の絶対的な実力の差。戦っている日本人選手だけでなく、スタジアムに「勝つつもりで乗り込んできた」サポーター、日本贔屓の現地人、テレビで観戦しているサッカーファン、全日本国民。全てが日本の敗北を享受した。未来のことが、目に見えた。

 カナリヤカラーの大応援団は、既に勝利を確信した。ビールを飲み、太鼓を叩き、大声で歌い、サンバを踊り、お祭り騒ぎだった。8つ目の『ジュール・リメ杯(ワールドカップトロフィー)』を手中に納めたも同然だった。


 日本のキックオフで試合再開。

 しかしパスには意図もなく、どこか弱々しい。誰もが次の失点を恐れていた。消極的だった。

 私は大声を張り上げた。喝を入れているつもりだった。だがナショナル・アリーナを覆う異次元の熱気に掻き消され、声はすぐに地面へと墜落していった。

 後半5分。日本対ブラジル、0対3。

 絶望的な3点差。重く重く伸し掛かる。

 仄暗い奈落の底。喉が灼けるように渇き、心臓の鼓動が早まっていく。

 「生きた心地がしない…」。声に出さず、飲み込んだ。

 じわりと頬を伝う汗の冷たさだけが、この景色を現実と私に告げる。聞いたことがないほどに、自分の呼吸音が耳の奥で強く鳴っていた。

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