第3話 ロ‘レックス

 世界最高峰の高級腕時計で、名を知らない者は地球上にいない。そのテレビCMには、現在世界最高峰のサッカー選手が起用されている。

 現役ブラジル代表ミッドフィルダー。背番号10。ロビー・アレックス。登録名はロ‘レックス。言わずと知れたROLEX社の時計の広告塔は彼である。

 バロンドールを10年間で4度獲得し、世界最高のクラブチームであるスペイン・レアルマドリードに所属。全てを手にした彼は、自身二度目のワールドカップ制覇に意欲を燃やしていた。

 「日本代表?勿論警戒している。イマミヤ、シンドウ、ミツハシ、ハチガヤ。あと勿論ノウミさん、ライバル。それから、ヒロキ。18歳だっけ?あいつ、良いよ。あいつはいつか俺になる」

 試合前日インタビューにて、ロ‘レックスはそんな風に答えていた。能美水流をライバルと評したのは、今シーズン、二人の内どちらかがバロンドールを取るだろうと目されているからだ。

 名前が先か、プレイが先か。

 世界がロ‘レックスを知った時、彼は既にロ‘レックスだった。18歳。日本で言えば高校生か高校卒業直後。ロビー・アレックスはその時点で、レアルマドリードの10番を背負っていた。その正確無比なボールコントロール。針の穴を通すようなキック精度。こういった表現が陳腐に思えてしまうほど、その右足は精緻だった。その時代その時代に一人はいる、『神の子』と呼ばれるようなプレイヤー。ロ‘レックスは間違いなく、その階段を登ることを約束された男だった。

 若くして異様なまでの安定感、信頼される落ち着きと技術。それはROLEX社が求める商品イメージを、そのままサッカー選手に当て嵌めたようなものだった。

 スペイン・リーガエスパニョーラ優勝。国王杯、欧州チャンピオンズリーグ優勝。20歳で1度目のバロンドール受賞。各大会得点王、MVPなど。ロ‘レックスの肩書きを挙げればキリがない。21歳の時に迎える筈だったワールドカップは怪我のため棒に振ったが、きっちりその四年後には世界王者に輝いてみせた。サッカーはロ‘レックスを愛し、ロ‘レックスもまたサッカーを愛していた。


 静かなピアノの調べが聴こえてきそうな、華麗な舞踏会が始まるような、そんな倒錯じみた心地を覚えていた。

 試合中なのに?

 七万人の大観衆が割れんばかりの大声を発しているのに?

 敵の、選手なのに?


 後半開始2分になろうとしているところだった。勇気を持ってDF(ディフェンス)ラインを高く設定し、コンパクトなサッカーを展開するよう指示を与えていた。今日のブラジル相手に引いて守っては、それこそ相手の思う壺だとはっきり分かっているからだ。

 60秒、90秒、110秒、日本の選手たちは昂(たかぶ)りすぎず、しかし臆病にもなりすぎず、理想的な守備を形成しているように見えていた。綻びもない。選手同士の距離感にも、一縷(いちる)の乱れすらない。

 必ず自分たちのペースに持っていける!私が小さじ一杯ほどの安堵を覚えた瞬間だった。

 そのパスは私の53年の人生の中で、40年以上のサッカー人生の中で、見たことがないくらい一直線に、まるで飛行機雲のような残像を芝生に焼き付けたまま、日本の4人の選手の足や体の一寸先を掠めるように、イングランドの名門マンチェスターユナイテッドでエースストライカーを張っているFWドラードの足元に吸い付いていた。彼が絶妙のトラップをしたのではない。

 ロ‘レックスの一本の縦パスが、ドラードの右足に恋をしたかのように、縋(すが)り付いて離れなかった。

 スタンドが、スタジアムが、世界中のテレビの正面が、大歓声を挙げた。映画のクライマックスがこんなに早く訪れたとしても、それでもいいと泣けるほどに、美しいスルーパスが日本のライフラインを無情に引き裂いた。

 ドラードは落ち着いていた。詰め寄ってくる日本の守護神、GK那須野(なすの)洸(こう)の位置をよく観察していた。少し体を左へ倒し、那須野を揺さぶる。あとは那須野の動きを見て、冷静にボールをふわっと浮かせてみせた。芸術的なチップキック。

 0対3。

 あーあ、試合は終わった。ここからブラジルによる日本代表の解体ショーが始まるだけだ。王国はやっぱり王国。日本はまぐれの快進撃。

 そんなムードが渦巻くと思われた矢先、ドラードによってシュートされたボールは、ゴールではなく、ゴールの外へと掻き出されていた。

 全人類が目を剥いていた。懸命にゴールマウスへと戻ってきたのは、日本の左サイドバック・鈴木駿だった。

 「うおぉぉーーーーっ」

「…ぁっぶねっ!」

「ナイスクリアッ、ハヤオさんっ!!」

 鈴木に走り寄った数人が彼とハイタッチした。私も思わず頭を抱えていた。日本ベンチからも深い溜息が溢(こぼ)れた。

 絶体絶命。入っていれば決着だったかも知れない、そんな場面だった。日本は首の皮一枚、生き残った。

 場内のスクリーンに、今のシーンが再現されていた。少し俯瞰の位置からカメラが捉えた映像を、スタンドの観客全員が固唾を飲んで見つめていた。

 なんて滑らかなんだ…。

 彼のパスには殺気がない。私は改めてロ‘レックスの放ったスルーパスを見て、そう感じた。

 普通ならば選択しない。そんなルートだった。もし意図的にドラードを狙うのであれば、迂回する道、つまり数本のパスを繋ぐことを通常ならば選択する。それくらい、日本の守備陣の位置関係は何の破綻も示していなかった。強さ、速さ、長さ、軌道。その全てがまるで10万年に1秒すらズレない時計の精密さのように、完璧なサイズで計り通されたパスだった。

 鈴木の好守だった。日本を救う超ファインプレイ。

 だがこれが、ロビー・アレックス。世界最優秀選手であり、王国の絶対的エース。

 笑っている。彼にはサッカーが楽しくて仕方ないのだろう。

 ロ‘レックスが蹴り上げたコーナーキックを、日本は何とか跳ね返していた。ブラジル応援団からは溜息と、攻勢への拍手。日本の応援団は、気が気ではない様子で、汗の浮いた額を拭いながら、懸命に鼓舞するコールを続けてくれていた。

 このブラジルから、もう1点も奪われることなく3点取らなければ勝てない。

 私は必死で弱点を洗おうとしていた。サッカーはミスをするスポーツ。どんな強豪国にも必ず綻びはある。

 日本の10番、エースナンバーを背負うMF蜂(はち)ケ(が)谷(や)玲(れ)央(お)が果敢に仕掛けていった。ドリブルで相手守備を一人剥がし、前向きのアングルを確保した。MF飯村俊輔がフリーになった。グラウンダーのパスを通す。飯村はワンタッチでそれをはたき、FW揖斐曜一(いびよういち)朗(ろう)にボールを渡す。

 チャンスだ。

 後半最初の日本のシュートは揖斐。開始3分になろうとしているところだった。しかしそれは力なく、相手GKアントーニオの大きな掌に収まっていた。

 決定機を作れない訳ではない。ブラジルには、どこか慢心が垣間見える。自分たちは負ける筈がないと、心のどこかで思っている。攻撃の迫力を増せばもしかしたら、彼らとて慌てるかも知れない。

 私はそう直感し、DFラインを更に1メートル前に上げるよう今宮泰士に指示をした。選手間を伝達し、私の思惑はすぐに反映された。これだけ圧力のあるブラジル相手に、DFとGKの間のスペースを広くするというのは、傍から見ているより遥かに勇気がいる。今宮も、彼とセンターバックコンビを組む依田(よだ)大記(だいき)も、白髪になるほどの高ストレスと対峙しながら、本当によくやっている。

 敵を追い、回されても回されてもボールを追い、ブラジルを追い込んでいく。それを続けることで、必ずどこかでミスが起きる。

 そこを、摘み取っていく。

 その時だった。

 共にスペインの名門バルセロナでプレイする、ブラジルDFの4番ニッキートンと、5番ポピットのパス交換が、40センチほどズレた。ポピットが少しトラップミスをし、慌ててボールを回収する。ニッキートンが声を荒げる。日本の右MF新藤司沙は、それを見逃さなかった。

 声援と悲鳴がこだまする。

 ポピットから高い位置でボールをかっさらった新藤は、日本のエース能美水流を見た。素早いクロスを供給する。

 筈だった。

 ここからの15秒間、私は指示や警鐘の声も出せなかった。

 新藤のクロスは、自陣まで引いてきていたロ‘レックスの鋭い読みによって呆気なくカットされていた。ロ‘レックスはすぐにボールを右サイドバックのマヌチーニョへと展開。前を行くMFミカへと繋げられたボールは、ドラードを挟んで、フリーの司令塔・MFオ・ドラガオの足元へと転がっていた。

 吼えるような閃光が、ペナルティエリア僅か外で煌めいた。客席からは怒号のような唸り声。

 硝煙のような焼香のような、芝生の焦げる匂いがした。

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