第2話 世界でいちばん負けず嫌い
「今宮くんいるかな?少し話が聞きたいんだけど…」
初めて私が今宮泰士を見たのは、もうおよそ20年も昔、インターハイ出場を賭けた、初夏の県大会決勝のスタジアムだった。
今宮が率いる高校はその年、快進撃を続けていた。所謂サッカー名門校ではなく、毎年2回戦や3回戦で敗退する、平凡な学校だった。その年も特に前評判が高かった訳ではなかった。しかしキャプテン今宮を中心に、よくまとまり、よく守るチームだった。
「あ、記者さんっすか?タイシちょっと出てこないかもしんないっすよ」
インターハイ、冬の全国高校サッカー選手権大会、全日本ユース。高校生の三大タイトルと言われる全国大会に、今宮は縁のない少年だった。彼のいる高校にとって、勝てば初の全国大会出場が懸かっていた。
「出てこない?」
「トイレっす」
決勝戦を戦った直後なのに?私は左手で顎(あご)髭(ひげ)をシャリシャリと掻(か)いた。
「具合でも悪いのかい?」
私が偶然質問した、今宮のチームメイトははにかむように笑い、真直ぐこちらを見て答えた。
「負けた後は一人で泣くんすよ、あいつ。負けず嫌いなもんで」
特例でも認められているのか、今宮の所属する高校は、引率者に連れられてスタジアムを後にしたが、その中に今宮キャプテンの姿は見当たらなかった。
どこかで行き違ったか。ちょっと興味あったんだがな…。
諦めてその場を離れようとした私の目の前を、当の今宮本人が通り過ぎた。近くで見ると、スタンドで見ていたよりも遥かに筋骨逞しく、大きく見えた。これで18歳…。私は威圧されそうなオーラを感じていた。
「あ、今宮くんだよね?お疲れ様。決勝戦、見てたよ」
ゆっくりと右手を差し出した。はじめましてと言うべきだったかな、と思いつつ、堂々と立ち振る舞う少年の顔を、私は見上げていた。その目は、散々泣いた後と傍目にも分かるほど、赤く腫れ上がっていた。
「えっ…。なんか見たことある…。えっ?もしかして藤崎監督?」
驚いた。私を知っているとは。先程の今宮のチームメイトは私を記者だと思ったようだが、当時私はJ2リーグのとあるクラブチームを指揮していた。サッカー少年なのだから、私の顔と名前が一致しても不思議はないのだが、私は選手としては殆ど実績のないプレイヤーだった。それだけに少し嬉しくもあった。
「知ってくれていて光栄だよ。はじめまして、藤崎(ふじさき)浩(ひろ)継(つぐ)です。惜しかったね、決勝戦。あと一歩で全国だった。でも、君たちの高校にとって準優勝は誇らしい成績だと思う。随分泣き腫らしたようだが、胸を張れよ」
私がそこまで言うと、彼はその大きな体を震わせて、人目も憚らず雷みたいにまた号泣した。声を立てて泣きじゃくった。まるで大人が高校生を泣かせているように周囲には見えそうで、私は慌てて彼を近くのベンチまで誘導し、腰を下ろさせた。しばらくすると、気持ちが落ち着いてきたようだ。
「すみません。思い出したらまた悔しくて…。俺、とにかく負けたくないんです。藤崎監督、どうやったら俺、次からずっと勝てますか?」
正直言って、不思議な出会いだった。初対面のおっさん、サッカー監督という職業ではあるが、初めて会った人間に彼は、『サッカーで負けない方法』を聞いてきたのだ。
はっきり言って、そんなものはない。
個人競技であれば、時折世界には何百連勝とか、何年連続優勝といった絶対王者が存在することもある。けれどもサッカーという集団競技かつ、番狂わせが最も起きやすいスポーツに於いて、“全勝”というのは限りなく難しい。
世界一の選手に贈られる称号『バロンドール(年間最優秀選手賞)』。それを貰うような世界的プレイヤーですら、何度も何度も負ける。足を使ってボールを扱う不確かな競技。それがサッカーだ。私に言わせれば、一試合で大小合わせて500以上のミスが起こり、その中の致命的ミスをどれだけ拾い集められるかが、サッカーという競技の勝敗を大きく左右する。
だが逆に、ミスが起こることを想定しているからこそ、仲間によるリカバリーが出来る。
そんなスポーツに於いて、一生勝ち続けることなど不可能だ。
変わった奴だな…。私は今宮少年の無垢な目に、奇妙な可能性を感じていた。
「負けるつもりは更々ありませんよ。前半は相当キツかったし、正直ビビりました。でも落ち着いて考えたら、まだ半分残ってます。俺が狼狽(うろた)えたら、チームが、日本が崩壊する。そのことをずっと俺に教えてくれたのは、他ならぬアンタです。藤崎監督」
既に大歓声が聞こえている。ブラジル代表の11人が早くもピッチに戻っているようだ。余裕があるのだろう。確かに今日のブラジルと日本の出来を見れば、ここから日本が逆転勝利を納める可能性は極めて低い。今頃海外のブックメーカーでは、ブラジルの勝利に殆ど配当を付けていないことだろう。
サッカーは前半45分+後半45分の、合計90分で決着をつけるスポーツだ。では90分が経過した時点で、試合が終了するのだろうか。そんなことはない。『負け』とは、負けることをピッチ上の誰か一人が受け入れて、全力を出し切ることを少しでも躊躇(ためら)った瞬間に訪れるものだ。
そういう世界で戦っていくにつけて、今宮泰士という男は、世界でいちばん頼りになる負けず嫌いだった。
「言葉で言うほど簡単じゃないぞ?」
試すように私は聞き返していた。そんな問答が今宮にとって、無意味であることは、この20年の付き合いで嫌というほど知っている筈なのに。
「でも、今から一度たりとも負けるなってことは、つまりこういうことですよね?」
そう言って、今宮は右手の指を二本立てた。次に左手の指を一本、二本、三本と立ててみせた。
「3対2…」
「3点取ります。そして俺たちが勝ちます。藤崎監督は、日本人で初めての、ワールドカップ優勝監督になってください」
あの日のことを思い出す。
夕暮れ、優勝校の選手も、観客も、大会の運営委員も補助員も、今宮のチームメイトも、誰もいなくなったスタジアム脇のベンチで、私たちは随分話し合った。
サッカーで負けない方法、いや勝つ方法。インターハイ予選決勝戦のプレイのこと、あの時こうしていれば、ああしていれば…。私のこと、今宮のこと。
私は、当時の今宮をこう評した。
『日本人離れした恵まれた、というより規格外のフィジカル。デカいだけでなく、敏捷性も兼ね備えている。描いているビジョンも高校生としてはクレバーで、緻密。しかし技術は圧倒的に乏しい。利き足の右は及第点だが、左足はガラクタ。パスさえ思った所に蹴れない。テクニックを気持ちでカバーするタイプ。ただし、気持ち、メンタルという面に於いては、脆くもあるが、世界を凌駕する可能性を秘めている』
無名の高校生を発掘し、育て上げたと言えば聞こえも良いだろう。だが私にはそんなことを威張るつもりは毛頭ない。今宮が実力を示し、プロ入りし、成長しながら日本代表へと上り詰めたのは、誰でもない彼自身の努力の賜物でしかない。私は、私のクラブに今宮を引き入れただけに過ぎない。
プロの世界では、負けても次がある。トーナメントではなく、リーグ戦を戦うJリーグに於いて、負けた試合をいちいち引き摺っていては、反対に心がやられてしまう。負の連鎖に陥ったチームが辿るのは、下部リーグへの降格だ。
しかしプロ入り後も、今宮は負けることを徹底的に嫌った。負けた試合の後は、高校時代と同じくトイレや個室にこもり、しばらく姿を現さなかった。それでも、翌日には何もなかったようにけろりとしていた。彼の中でどんな消化が行われ、どんな刷新が成されるのか、そのことを今宮は誰にも話さない。
一つだけ言えるのは、今宮は同じ失敗は繰り返さない。
サッカーなのでミスはする。けれど、試合の結果を左右するような致命的な事象、それが目に見えないような些末なことであったとしても、「仕方ない」と同情を買えるような、ミスとは呼べないミスであったとしても、今宮は二度繰り返さない。
乗り越えるのだ。彼は過去の自分を塗り替える。負けることに慣れる、というと語弊があるかも知れないが、プロというのは負けてもまたすぐ次の試合がやってくる。悔しさはあるのだろうが、誰しもが負けることに慣れていく。やがて敗北への継続的な抵抗感を失っていくものだ。だが今宮は、プロ生活20年を経た今でも、負けることに抗い続けている。
それが、日本代表キャプテン・今宮泰士の不屈の凄さだ。七転び八起き。負けても負けても立ち上がる。そうやって今宮は、現在の自分自身を築き上げてきた。J2リーグでデビューし、J1リーグ、イタリア・セリエA、ドイツ・ブンデスリーガへと移籍した。現役生活20年で、6つのクラブを渡り歩き、未だリーグ優勝とは縁がないというのも、不思議な彼のエピソードの一つではある。準優勝が多い彼を『シルバーコレクター』と揶揄する声もある。最も勝ちたい男が、38歳にもなって現役にこだわり続けている理由が、もしかしたらそこにあるのかも知れない。
“もう、一度たりとも負けるな”
私の檄(げき)の意味を今宮は、世界一理解している筈だ。ロッカールームからグラウンドへと続く花道で、彼は前を歩く能美水流の背中を右手で強く強く叩いた。
「いてえっ!何しやがる」
「3点取るぞ」
その声に、11人全員が今宮を見た。誰の目も、まだ死んでいなかった。勿論、そんな柔なイレブンじゃない。
世界一へ挑戦する、その五合目に差し掛かっただけ。0対2は、その山の険しさが前より僅かに増しただけ。
誰も諦めていない。ここにいる全員、ベンチメンバーも含めた23人全員が、前半終了時に見せていた怯えたウサギの目を払拭していた。
強くなった。
私は感無量だった。今宮に引っ張られるように、このチームは毎日強くなった。負けず嫌いは過去の自分を超えていく。そんなことを体現出来るのが、今の日本代表だ。
「おっさんは、まだ引退しないの?」
相変わらず緊張感のない声で、能美が今宮をからかっていた。一回り年齢が違うが、良くも悪くも物怖じしない奴だ。人心掌握を心掛けている私にも、能美の性格は掴めない。気分屋で、好き嫌いが激しく、無頓着で放蕩(ほうとう)的。それでも前半不発に終わった絶対的エースフォワードのこの男が、逆転への鍵を握っているのは疑いない。
「日本代表が俺を必要とする限り、40になっても50になっても居座り続けてやるよ」
「うへぇ、迷惑~。若手に譲ってよー」
選手たちの間に、リラックスの笑いが起きた。意図しているのかいないのかは分からないが、能美のお陰でチームから硬さが抜けたようだ。
残された45分で、我々は王国ブラジルに槍を刺す。三本刺せれば優勝杯は日出ずる島国へ。そうでなければ、または更に失点すれば、杯(さかずき)はまた太陽に愛される王国へと戻っていくだろう。
あのまま潰れてもおかしくなかった前半戦。世界中の人間が注目する後半45分を、闘う最低限の準備は整った。
私は集中を求めるよう、激しく手を打ち鳴らした。23人の戦士たちは、銘々に己(おの)が胸を叩いた。
飛んで火に入る青虫を、ついばむことの心待ち。
不敵な表情を浮かべるカナリヤイレブンが待つ、ナショナル・アリーナのピッチに、日本イレブンが足を踏み入れた。円陣を組み、声を張り上げ、健闘を誓い合う。
生きるか死ぬか、ワールドカップ決勝の最後の45分が始まる。
ふと見上げると、今にも雨が落ちてきそうな空模様になっていた。遠くの遠くで雷鳴が聞こえたような気がした。
ピィーーーッ。
甲高い笛が鳴り、大音声がスタジアム全体を包んだ。老いも若きも息せき切って叫んでいた。
後半開始直後のブラジルボール。エースナンバー10を背負うロビー・アレックスの放った一見何気ないような静かなパスは、日本の選手4人の足が、体が、10センチ届かない絶妙な位置を、絶妙な速さで、日本の守るゴール前へと摺り抜けていった。
思わずぞくりと、鳥肌が立った。
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